見出し画像

【書評】Statistical Mechanics: Theory and Molecular Simulation

Statistical Mechanics: Theory and Molecular SimulationはMark E Tuckermanによって著された分子シミュレーションに関連した熱・統計物理学,及び量子力学の参考書(以下,タッカーマン統計力学)になります。

現時点では(恐らく)和訳がないこともあり,日本での知名度はあまりないような気がしますが,被引用数が約1,600を超えていることを考えると海外では高く認知されている参考書みたいです。

https://scholar.google.com/citations?user=w_7furwAAAAJ

👆のGoogle Scholarを見ていただいても分かるかと思いますが,著者であるMark E Tuckermanは分子シミュレーションという研究分野において,多岐に渡って本質的な業績を数多く残されてきた方です。特に被引用数上位3つの論文については,多くの分子動力学シミュレーションの計算エンジンで標準的に実装されているイメージがあります。

一応,一通りの通読と演習問題の解答が完了したため,レビューを紹介します。少しでも今後読まれることを検討されている方の参考になれば幸いです。


難易度は高め

タッカーマン統計力学は化学や計算生物学を専攻する大学院生,及び学部生であるならば物理学や工学の上位層を主なターゲットとしているそうです。そのため,難しさには容赦ない側面があります。解析力学・熱力学・統計力学・量子力学について,全くの勉強していない方が読み進めるのは殆ど不可能です。それどころか,学部時代にそれらの教科をそれなりに勉強していたとしても相当に苦労する可能性があります。その代わり,苦労して読解した先には分子シミュレーションに関する専門的な知識が深まることが期待されます。
この手の参考書には,「メインの目的は理論の考え方を理解することにあるから,本内で扱われる数式はできる限り簡単になるよう工夫されている」場合がありますが,タッカーマン統計力学は数式自体もしっかり難しいです。単に理論を理解させるだけでなく,実践的な計算力を養うことも目的に含まれているように見受けられました。数式が苦手な方もいらっしゃると思いますが(かく言ういう自分もそれほど得意ではありませんが),できる限り手計算で式展開を追うことが推奨されます。それをサボってしまうと得られる理解は半減してしまうと言っても過言ではないです。
演習問題には分子シミュレーションのアルゴリズムを実装する問題が一定数含まれていますが,コーディングに関するレクチャーは本文に一切含まれておりません。数式展開についても言えることですが,分子シミュレーションを専攻をしているのであればこの程度は自力でできないと困るという著者の思いが感じられます。

他の参考書との比較

今まで分子シミュレーション関連の本をいくつか通読してきましたが,その中では👇が最もタッカーマン統計力学と類似していました。

タッカーマン統計力学の理論解説はコンピュータ・シミュレーションの基礎より広くて深いイメージです(ただし,コンピュータ・シミュレーションの基礎のみで取り扱っている内容もありますので完全な上位互換というわけではありません)。ですので,両方読まれていない方にはコンピュータ・シミュレーションの基礎を先に読まれることが推奨されます。コンピュータ・シミュレーションの基礎が相当に難しく感じる場合は,正直言ってタッカーマン統計力学は推奨されません。一方,コンピュータ・シミュレーションの基礎を読破して更に理論を深堀りして理解したいという段階の方にタッカーマン統計力学は向いていると思います。コンピュータ・シミュレーションの基礎では簡単に言及されているだけのトピックについて,タッカーマン統計力学では詳細に説明されているものがいくつかあります。

分子シミュレーションのアルゴリズムの背景にはコンピュータ・シミュレーションの基礎タッカーマン統計力学で展開されている理論があるのは間違いないわけですが,立場によってはそれらを十分に理解すべきかどうかは変わってくると思います。と言うのも,既に高度な理論が実装されている計算エンジンが複数存在し,しかもそれらの幾つかは無料で使用できるというのが昨今の状況だからです(例:GROMACS,NAMD,LAMMPS,etc)。既存の計算エンジンを使い倒すだけでも十分に研究として成立させることは可能ですので,分子シミュレーションで得られた計算結果を如何に適切に解析するかに注力すれば良いという考えも成立します(というか,業界全体ではそういう立場の方の方が多い印象です)。そのような方には,タッカーマン統計力学が有益かは何とも言えない気がします(無益とは言いませんが,難しい割には仕事で使える要素が少ないかもしれません)。
個人的には「実践的には分子シミュレーションによって得られた結果を統計データとして理解・処理することが肝要」と感じており,その視点を養うという観点では👇がより推奨されます。

よろしければ以前に書いた紹介記事もご覧ください。

読み飛ばしても良い章

量子統計の分子シミュレーションに全く興味がない方は,8-14章をごっそり読み飛ばしていただいても全く支障はありません。

16章は主にイジング模型を例題にして臨界現象,繰り込み群が紹介されている章なのですが,他の章とはほぼ関連性のない独立した内容となっています。1-15章の知識を集大成する内容というわけでは全くなく,なぜ最後の章として盛り込まれたのか違和感を感じるほどです。個人的には耳学問レベルで繰り込み群を勉強できたというメリットを感じていますが,多くの人にとって読み飛ばしても差支えない内容かもしれません。
専門外なので妄想しているだけですが,繰り込み群を勉強したいのであればより適切な参考書がたくさんありそうな気がしています。

所感

個人的には,分子シミュレーションにおける解析力学の重要性に関する理解の向上がもっとも印象に残りました。
分子シミュレーションでは様々な拘束条件や制約条件を課した状態で如何に長時間の時間発展を安定的にシミュレートできるかが求められ,その観点で解析力学の知見が惜しみなく使用されます。また,やや極端な言い方をすれば分子シミュレーションは統計力学のシミュレーションであり,その統計力学の土台としても本質的な役割を担います。つまり,分子シミュレーションにおける解析力学は二重に重要な存在であり,タッカーマン統計力学を通じてそのことを深く理解できた気がします。

タッカーマン統計力学は700ページ弱もあり,このボリュームの割には少ないと思いますが数式の誤植があるのは致し方ないと思います(改訂版があるかもしれませんが,把握していません)。ですが,本文の内容が難しい分,それが本当に誤植であるか自分が誤っているだけかの判断が難しい場面が幾つかありました。ストレスを感じることもありましたが,その苦労も理解向上に繋がったはずと自分を納得させています。

演習問題について

自明に近いレベルで解ける問題は殆どなく,残念ながら難しすぎて解ききれないものも幾つかありました。
割合としては,

  • 特に苦労せずに解けた:20%

  • 頑張って解ききれた:60%

  • 一応,解ききったけど合っているか自信がない:15%

  • 解くのを諦めた問題:5%

といった感じです。
(無論,各個人の学力にダイレクトに依存します)

全て解いていないので説得力はないかもしれませんが,このレベルの参考書の場合ですとできる限り演習問題を解かないと読む意味が殆ど得られないような気がしています。
というのも,文章を目で追い,文中の式展開を一通り追っただけでは理解はあまり得られません。演習問題を苦労しながら解くことで得られる多くの気づきが理解を深める上で重要な役割を果たします。
教養として学べば十分なので深くは理解する必要ないという考え方もありますが,そのような目的に対して明らかにタッカーマン統計力学は難しすぎる内容となっており,異なる本を読んだ方が良いという結論に帰結します。
ですので,タッカーマン統計力学レベルの難易度の本を読む場合には演習問題を解くのもセットということになります。

各章の演習問題の和訳と解答例を公開していますので,ご参考になれば幸いです。

1章~4章

5章~8章

9章~12章

13章~16章


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?