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遠ければ遠いほど

 先日、私が推しているK-POPアイドルTomorrow x Together のMV(ミュージックビデオ)についての記事を書いた。

 要約すると、「このMV、ファンの方もK-POP興味ない人も観てみて~」という内容である。記事のテーマが1曲のMVについてというニッチなものだったし、そこまで読まれるとは思っていなかったのだけど意外にもたくさんの方に読んでいただいた。(ありがとうございます。)

 そして、この記事を読んで考えたことについて書きたいので、記事を貼り付けしてもよいかというコメントを頂いた。大好きなnoterさん、片山緑紗さんからである。

   片山さんは日常生活や旅の中で見聞きしたこと、思い出の中のワンシーン、音楽やチョコレートについてなどバラエティ豊かなテーマについてお書きになっているが、そこにはいつも内省的なことへのリンクがあり、それが優しくて清廉な言葉で表現されている。きっと普段から物事を丁寧に見て、深く考えていらっしゃる方なのだと思う。そして自ら撮影されている写真が本当に素敵だ。読んでいて心が落ち着く。

 そんな彼女が私のオタク記事を読んで何を感じたのか、とても興味があったし正直少し不安もあった。


 後日、記事を投稿されたという連絡をいただき拝読した。何度も何度も読ませていただいた。そして、私も静かに考えてみる時間を持ってみた。

 片山さんの記事はこちらです。↓


 特にこの部分についてじっくり考えた。(以下片山さんの記事の抜粋です)

 ひとつこたえとしては、たぶん私は何に対しても実感が欲しいのだろうなということ。大好きな憧れの存在といったって、ステージの上やテレビの向こうというのはあまりにも遠すぎる。行きたい場所を写真で見たり、バーチャルなんかで体験することができる世の中になったといっても、私はその場所の空気が吸いたいし、その土地に自分の足で立ちたいし、そこにあるものに自分の手で触れてみたい。誰かがおいしくないよと言っても食べてみないと気が済まないし、おもしろくないと言われた本や映画なんかも興味が湧けば手に取りたい。つまり自分の身体や感覚を使って確かめたいというおもいが強いみたいだ。ひとつ言っておきたいのだけれど、憧れの存在を持つ人たちを否定しているとか批判するとかそういうことではぜんぜんない(むしろ羨ましささえある)。たぶん私は境界線を飛び越えるのに時間がかかるんだろうな。だから、物理的な距離というか、次元をパッと飛び越えてしまう人たちを目の当たりにすると、羨ましく感じるんだろうな。

「実感を得るためのあなごめし」より


 片山さんが「実感」を伴うものを望むのに対して、私は、幼いころから自分から「遠いもの」を望み、自分からの距離が「遠ければ遠いほど」その対象物への憧れを募らせ、愛してきた気がする。そしてその傾向はいい大人になった現在でも全く変わっていない。

 例えば、こどもの頃から好きな本はだいたい外国のものだった。自分と全く違うタイプの名前の主人公が、舌がこんがらがってしまうような名前の街で、実際に見たことも食べたこともないお菓子を食べている挿絵の入った絵本の1ページに強烈に惹かれた。そこに実際に行けることがないことを予感しながらである。

 何を歌っているのかわからないフランス語の曲に、ものすごいエモさを感じ、聴き続けていた思春期。故郷の良きところにはあまり関心を示さず、東京での暮らしにばかり憧れて早く家を出たいと思っていた。

 現実逃避をしていたところもあると思う。実際の自分や身の回りのものごとを愛し、日常の中での幸せな実感を増やしていこうという考えに至らず、どこか遠くに視点を移してその世界の中に逃げ込むことをしていたのかもしれない。現実逃避というやつだ。(ちなみに記事の中で紹介したMVの曲名は Run Awayである)

 44歳でK-POPアイドルにハマっているのも、彼らが自分からとても遠い存在だからかもしれない。隣国の彼らには親近感を持ちやすいけれど、やはり言語や文化、ジェネレーションギャップを感じることも多い。私はその「遠さ」に惹かれているのではないだろうか?

 ここまで考えたところで、またひとつ。

「遠さ」を埋めよう、片山さんの言葉をお借りすると「境界線」を飛び越えようとする行為自体が好きなのかもしれない。

 外国語の学習が好きな理由はここに尽きるのではないだろうか。こと、フランスに関しては憧れ過ぎてその地に暮らしてみるという経験までした。

 実際に境界線を飛び越えて憧れていた世界に入ってみると、期待外れのことにがっかりすることも多々あったし、さんざん脳内で美化してきたことの上の上を行くような素晴らしいことに出会うこともあった。これが「実感」ということなのだろう。

 ただ私が愛する「遠い」ものから「実感」を得るのは、なかなかに難しいことだしそもそも近づくことすら無理なことも多い。境界線を遠くに見て、指をくわえていなければならないことがほとんどだ。私は割と簡単に「実感」については諦めてしまうところがあるからこそ、その対象に夢中になることができるのかもしれない。

 うまく表現できたかわからないが、以上が私が片山さんの記事を読んで考えたことだ。


 書き進めながら、いつか片山さんと実際にお会いして、美味しいもの(チョコレートがいいな)を一緒に食べながらあれこれお話してみたいと思った。片山さんありがとうございました。


片山さんのnoteページはこちら↓


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