文化人とは何か? (南後 由和 編)
文化人の系譜
タイトルが気になったので借りてみた本です。
内容としては、「文化人」を茶化した感じで揶揄しているものかと思っていたのですが、思いの外、興味深いしっかりした論考もありました。
冒頭、東京大学大学院情報学環助教の南後由和氏が「文化人の系譜」と題した小文を記しているのですが、この解説はなかなか秀逸だと思います。
その中から、私の興味を惹いたくだりをいくつかご紹介します。
まずは、戦争を挟んで、「文化人」が登場したころの記述です。
戦前にはインテリの部類に入らなかった司会者・芸能人たちが、戦後しばらくした頃に、その社会的地位を急上昇させました。
その趨勢について(まさに当時の「文化人」たる)政治学者丸山眞男氏はこうコメントしています。
「文化人」という言葉が「広辞苑」に登場するのは、1983年の第3版が初めてだということです。第2版が発行された1969年には未掲載であったので、「文化人」は1970年代にその地位を確立したようです。
こういった(いわゆる)「文化人」の登場については、当然のごとく批判・疑問の声があがりました。
その代表者としての評論家福田恒存氏の主張はこういった内容でした。
この傾向は今も全く変わっていないですね。むしろ、その低俗化は「コメンテーター」という意味不明の肩書きの方々の増殖で、ますます救い難い状況になっていると感じます。
「文化人」は、メディアにおいては、「専門家」と「一般大衆」との間に位置するインタフェースとしての機能を果たしているとの指摘もあります。しかしながら、自己責任を伴わない「語る価値のない短言」や「一般大衆」が既に潜在的に感じていることに「迎合した甘言」を口に出すだけなら、自らのステイタスを貶め続けるだけになるのでしょう。
文化人の諸相
本書は、(いわゆる)「文化人」の諸相を、10名を越える研究者による論考や磯崎新氏・福田和也氏といった個性的人物へのインタビュー等によって、多面的に紹介したものです。
それぞれの論考を個別に見ていくと玉石混交の観もありますが、ところどころに「なるほど」という気づきや興味を惹くフレーズがありました。
そのいくつかをご紹介します。
まずは、「岩波アカデミズム」という一派についてです。
これは、とても面白い指摘だと思います。
私も少々古い人間ですから「岩波」というブランドには弱いところがあります。岩波の学術書が書棚に並んでいるとちょっとした心理的圧力を感じますし、岩波文庫の青帯や白帯は、年に数冊ぐらいは読まなくてはと思ってしまいます。(ただ、それも「細かな文字にはついていけない視力の減退」のために難しくなってきました・・・)
しかし、その「岩波」ブランドの構造がアカデミズムとジャーナリズムとの相互依存関係で成り立っているというのは正鵠を得ていますね。
二点目も、メディアに見られる相互依存関係の一相です。
採り上げられているのは「学者」、とくに「科学者」の肩書きを持つ歴々です。
このリドリーが指摘する「科学とメディアとの背反性」の裏返しで、そのリエゾンとして似非科学者が登場する機会が生まれるのです。
この点について、東京大学大学院情報学環教授の佐倉統氏はこう語ります。
メディアで科学を語る人物は、いわゆる「界」の中では、純粋学問的な業績をあげていなかったり、異端的・少数意見の主張者であったりするとの論ですが、この真偽については、私も語るだけの素養を持ち合わせてはいません。
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