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正岡子規 言葉と生きる (坪内 稔典)

 昨年(注:2011年当時)、NHKドラマ化等で話題になっていたので司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」を読んでみたのですが、本書は、その中にも登場した正岡子規の生涯を彼の俳句や文章を紹介しつつ辿ったものです。

 構成としては「少年時代」「学生時代」「記者時代」「病床時代」「仰臥時代」と年代を追った形になっており、その「学生時代」の章の冒頭に「子規」という名の由縁が語られています。

(p47より引用) 伝統的には夏の到来を告げる風流な風物がホトトギスであったが、明治になって肺病が急増すると、ホトトギスは肺病の代名詞のようになる。・・・彼が、子規を自らの名にしたとき、肺病を引き受け肺病と共に生きてやる、というひそかな決意をしたのではないか。・・・
 ともあれ、「啼血始末」に従うと、子規は明治22年5月10日の深夜、この世に登場した。風流にして不吉、という名前の子規が登場したのだ。

 結核を病み喀血した自分自身を血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えた子規は、爾来、病を供にしつつ日本文学の改革活動に文字通り心血を注いだのでした。

 さて本書、子規の様々なエピソードが語られているのですが、その中で特に私の興味を惹いたものをご紹介します。

 まずは、子規の代表作のひとつに挙げられる「柿くえば・・・」の句と漱石との関わりを紹介したくだりです。

(p122より引用) 柿くえば鐘がなるなり法隆寺
・・・「柿くえば」は「法隆寺の茶店に憩いて」と前書きをつけて松山の新聞「海南新聞」(明治28年11月8日)に載せたが、話題になることはほとんどなかった。ちなみに、この新聞の九月六日号には漱石の句、「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」が載っている。私見では、漱石のこの句が子規の頭のどこかにあり、この句が媒介になって「柿くえば」が出来たと思われる。・・・「柿くえば」の句の誕生はいろいろと漱石の友情に支えられていたようだ。

 もうひとつ。子規は、『歌よみに与ふる書』にて古今集を「くだらぬ集にて有之候」と一刀両断に否定しました。
 子規が改めて高い評価を与えたのが「万葉集」でした。写実・写生を旨とする万葉集ですが、子規が特に注目したのが、その中でもあまり評価されていない第十六巻にある「滑稽の趣」でした。

(p146より引用) 真面目の趣を解して滑稽の趣を解せざる者は共に文学を語るに足らず。否。味噌の味を知らざれば鯛の味を知る能はず、滑稽の趣を解せざれば真面目の趣を解する能はず。
 『万葉集』を発見し、その『万葉集』から子規が見つけたものの一つが滑稽美であった。

 これも、子規ならではの視点からの斬新な切り込みですね。

 そして、最後に紹介する最も印象的な言葉は、子規が発したものではありません。

(p207より引用) 静かに枕元へにじり寄られたをばさんは、さも思ひきつてといふやうな表情で、左り向きにぐつたり傾いてゐる肩を起しにかヽつて
「サァ、も一遍痛いというてお見」
可なり強い調子で言はれた。何だかギョッと水を浴びたやうな気がした。をばさんの眼からは、ポタポタ雫が落ちてゐた。

 早くして身罷った我が子に向かって発した寡黙な母の一言です。



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