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日本を教育した人々 (齋藤 孝)

日本を教育した松陰

 著者の齋藤孝氏が、幕末から現代にかけて「日本を教育した」人物4人をとりあげ、それぞれの人物が残した教育的功績を辿ったものです。

 まず紹介されているのは、幕末期の「吉田松陰」です。
 言うまでもなく、吉田松陰(1830~59)は、幕末の長州藩に生れた思想家・教育者です。幼い頃から叔父玉木文之進らから教育をうけ、1839年(天保10)9歳にして藩校明倫館で山鹿流兵学を講義、翌年には藩主に「武教全書」を講義するなど、早くからその才能は開花していました。20歳台半ば、萩の松下村塾での講義は、久坂玄瑞・木戸孝允・高杉晋作・伊藤博文・山県有朋といった幕末・維新期に活躍した錚錚たる志士に大きな影響を与えました。

 齋藤氏は、松陰の教育から「教育の狙い」についてこう説きます。

(p17より引用) 『孔孟箚記』を読むと、授業では何をテキストにするかは、必ずしも問題ではないことがよくわかる。大切なのは、現在自分たちがどのような状況に置かれているのかという問題意識と、これから何をすべきかという課題意識を教師が強く持っていて、生徒たちに発することである。つまり問題意識や課題意識を、相手に喚起させることが教育の狙いなのである。

 こういう「狙い」を教える者が強く意識し、真に実践しているか否かがもっとも大事なことです。
 松陰は、それを自らの命を賭してやり遂げたのです。
 そこに、著者は、松陰の美しさを見出します。

(p50より引用) 彼(松蔭)の美しさは若くして死んだことにではなく、自分の欲得は抜きにして、ひたすらこのメッセージを伝えたいのだという純粋さにある。志を伝えることへの純粋な情熱が人の心を打った。その純粋な情熱のほとばしりや威力に裏打ちされた生き方全体が、ひとつの書物、作品そのものであったといえるだろう。だからこそ、最初からほかの人に影響を与えようというような、見え透いた意図をもって書かれた書物よりはるかに大きな影響を与え、後世の人のモデルになっていったのだ。
 松蔭は人に教えた時間も短く、直接教えた人数も必ずしも多いわけではないが、いまだに日本人に「志」を教育し続けている人物である。

 まさに、「至誠而不動者未之有也」という松陰の気概です。

日本を教育した諭吉

 齋藤氏が、日本を教育した人物として2人目に挙げたのが、明治期の「福沢諭吉」です。
 福沢諭吉(1834~1901)は、当時の代表的な啓蒙思想家・教育者です。豊前国中津藩士の子として大坂に生まれ、蘭医緒方洪庵の適塾に学びました。その後、1858年(安政5)、江戸に出て藩の下屋敷に蘭学塾を開きましたが、この蘭学塾が後の慶応義塾となります。

 齋藤氏は、諭吉の教育に対する姿勢としての「学ぶ構え」に注目しました。

(p60より引用) 彼(諭吉)は武士の漢学の素養をもとにし、学習する構えを完成させていたのである。・・・
 日本人の教育のなかで最も大事なものとして、構えの教育があったと私は思っている。・・・「構え」とは、私の考えでは、物事に向かうときの身体や心がセットになった姿勢のようなものを指す。

 この「構え」の有無によって、同じインプットを与えてもその効果は全く異なるというのです。

 ところで、諭吉といえば、やはり「学問のすゝめ」です。
 「学問のすゝめ」は1872~76年(明治5~9年)にかけて刊行された冊子で当時の大ベストセラーとなりました。
 そこで諭吉は、個人の独立・自由・平等のもとで学問に励むことが国家隆盛の基本であると説きました。単なる西洋化を勧めたのではありません。西欧諸国と伍するために人々に教育の重要性を訴えたのです。

 人々に伝えるべき西洋の事物。諭吉は、その代表的な紹介者でした。

(p65より引用) ひとくちに西洋といってもいろいろなものがある。なかには、わざわざ学ばなくてもいいものもある。その中で学ぶべきものを純化して、それをふさわしい形の日本語にして、みんなにわかりやすい言葉で紹介する濾過器が諭吉だったのだ。

 幕末から明治にかけての時代は、「教育の時代」でした。学問が真の実学として大きな意味をなしていた時代でした。

(p98より引用) そもそも概念の活用が学問の本質である。さらに本質的には、その概念をつくっていくのが学問である。そういう学問をしっかりと積んだ人たちが日本を教育していた時代があり、それが尊重された時代があった。学問をすることが、みんなの当然の欲求であって、学問を達成している人が尊敬され、その人たちがリーダーとして発言するのが当たり前だと考えられていた。
 そういう時代の日本は幸せだったと思う。

 さて、今の時代は・・・。

日本を教育した遼太郎

ア. 齋藤氏は、本書で、「日本を教育した人々」として4人の人物を紹介しています。
 吉田松陰、福沢諭吉、夏目漱石、そして最後に登場するのは、昭和期の「司馬遼太郎」です。
 司馬遼太郎氏(1923~96)は、大阪生れの昭和期の代表的歴史小説家、戦後、新聞記者として勤めたのち作家の道に入りました。

 代表作といっても、絞りきれないほど数多くの有名な作品があります。
 戦国期を描いたものとして斎藤道三を主人公にした「国盗り物語」、幕末維新期を描いたものに、新選組をテーマした「燃えよ剣」、坂本竜馬の一生を辿った「竜馬がゆく」、中国を舞台にした「項羽と劉邦」等々・・・、紀行ものとして「街道をゆく」や「この国のかたち」等のエッセイ、その他多くの方との対談集もあります。

 私も、過去においては、文庫本(歴史小説)やNHK大河ドラマ(最近は全く見ませんが、・・・当時は「国盗り物語」「花神」とか)で司馬氏の作品にはかなりの数、接しています。

 著者が紹介している司馬氏の視点で、私が興味をもったものを1・2、ご紹介します。

 まずは、「明治」という時代の捉え方について。
 司馬氏は、明治を、日本の歴史における時の流れのなかのある「時代」としてではなく、独特な切り出されたひとつの「国家」としてみているというのです。

(p176より引用) 明治国家は世界史的な奇跡であって、立体的な固体のような感じで、テーブルの上にポンと置きたいと司馬は語っている。「明治時代」ではなく「明治という国家」として捉えようとするのは、それを時間的な経過の中で見るのではなく、一つの構造として見た方が、明治の特徴をより正確に確定できると考えるからである。

 この感覚は、確かにわかるような気がします。

 もうひとつは、「プロテスタンティズムと資本主義との関係」のように、江戸期の日本の倫理観が、明治期以降の経済成長の礎になっていたとの見方です。

(p177より引用) また倫理観に関していうと、日本人にはプロテスタントに近い倫理観があったのではないかと指摘している。世界の中で経済発展した国にはプロテスタントの国が多いが、日本はプロテスタントとは関係がなかった。にもかかわらず経済成長を遂げたのは、プロテスタント的倫理観があったからではないかというのである。
 清潔、整頓。これがプロテスタントの美徳です。・・・
 江戸時代の大工さんは、作業場をきれいに片づけて帰るのです。・・・江戸期日本は、プロテスタントによらずして、こうだったのです。大工さんのみならず、このような労働倫理や習慣が、明治国家という内燃機関の爆発力をどれだけ高めたかわかりません。

 このあたり、論拠としては非常に貧弱ではありますが、相似と相違という気づきの「視点」としてはおもしろい指摘だと思います。


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