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老子 (金谷 治)

大道廃れて、仁義有り

 「老子」という人物については、実在したかどうか諸説あるようです。
 ただ、老子が実在の人物であろうとなかろうと、上編を道経、下編を徳経という全体で5000字余りの小さな書物としての「老子」は、東洋の思想と文化に絶大な影響を与えました。

 この書物で説かれた教えは、他の学派が価値と考える聖賢の知恵や既成の倫理などを否定した独特の派として、東洋思想のひとつの大きな底流となって今に続いていることは紛れもない事実です。

 「老子」はしばしば孔子の教えと比較されます。

(p68より引用) 大道廃、有仁義。智慧出、有大偽。六親不和、有孝慈。国家昏乱、有貞臣。
(p68より引用) 仁義とか孝慈とか忠臣などという世間的な儒教の道義は、すべて真実なものが失われた結果としてあらわれたものだ、という。仁義が行なわれ忠臣孝子が出るのを良き時代と考えるのは、常識であるが、それを真向からうち破ったのである。道徳をことさらに強調する必要があるのは、それが失われて乱れた状態があるからではないか。・・・してみると、仁義道徳は第二義的なものである。第一義として求めなければならないものは、ほかならぬ「大道」の復活であった。

 老子によると、「仁義」は、「道」に達すると不要となるものだ、「道」が失われたために説かれ始めたものだ、とされます。

(p128より引用) 前識者、道之華、而愚之始。
(p127より引用) 仁愛や正義や礼儀などを人に先がけてわきまえるというさかしらの知恵は、まことの「道」の実質が失われたそのあだ花であって、そもそも愚劣のはじまりである。

 金谷氏は、以下のように解説します。

(p128より引用) 孔子や孟子の唱える儒教の仁義道徳は、真実の「道」が行なわれていた古き良き時代には、必要もなく、また起りようもないものであった。無為自然な「道」のありかたが失われたために、そうした道徳が生まれた。

 孔孟の教えは、聖人が目指すべき究極の到達点ではないということです。

無為

 「老子」といえば、すぐ浮ぶのが「無為自然」です。
 「無為」について具体的な説明をしている章をご紹介します。

(p194より引用) 為無為、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。図難於其易、為大於其細。天下難事、必作於易、天下大事、必作於細。是以聖人、終不為大、故能成其大。
(p193より引用) 何もしないことをわがふるまいとし、かくべつの事もないのをわが仕事とし、味のないものを味わってゆく。
 小さいものを大きいとして大切にし、少ないものを多いとして慎重に扱い、怨みごとに対して恩恵でむくいる。
 むつかしいことは、それがまだやさしいうちによく考え、大きなことは、それがまだ小さいうちにうまく処理する。世界の難問題も、必ずやさしいなんでもないことから起こり、世界の大事件も、必ず小さなちょっとしたことから起こるものだ。それゆえ、聖人は決して大きなことをしたりはしない。だからこそ、その大きなことを成しとげられるのだ。

 「無為」といっても「何もしない」ということではないようです。ことがまだ微小なうちに、何かをしたという証跡を残さない形で「事を成している」のです。ちょっと自分で勝手に思っていた「無為」とは違っていました。

 このあたり、以下のような「無」についての解題にも関わりがありそうです。

(p44より引用) 故有之以為利、無之以為用。
 なにかが有ることによって利益がもたらされるのは、なにも無いことがその根底でその効用をとげているからのことなのだ。

 「無」というものが、「効用の実際(有)」を産み出しているのです。
 「道(無為自然)」の人は、何事も満々と満たそうとはしません。

(p56より引用) 保此道者。不欲盈。夫唯不欲盈、故能蔽而新成。
 「道」をわがものとして守っている人は、何ごとについてもいっぱいまで満ちることは望まない。そもそもいっぱいになろうとはしないからこそ、だめになってもまた新たになることができるのだ。

 このあたりの境地は、正直ちょっと理解し難いです。極めていく方向が「エントロピー増加」の方向のように思うので・・・。

 「100%を求めない、完璧を求めるとそこで前進は止まってしまう」という教えであるならば、ある意味、よく言われていることです。そうであれば納得できるのですが、「道」の場合も同趣旨で唱えているのでしょうか。どうも違うような気がします。
 「100%を求めない聖人の境地」と、単に「何もしない」とか「究極まで努力しないで途中で手を抜く」とかの姿とは、表層的には区別しにくいものです。

不争の兵法

 「老子」に見られる「兵法」に関する記述です。

(p208より引用) 善為士者不武。善戦者不怒。善勝敵者不与。善用人者為之下。是謂不争之徳、是謂用人之力、之謂配天。古之極。
(p208より引用) りっぱな武士というものはたけだけしくはない。すぐれた戦士は怒りをみせない。うまく敵に勝つものは敵と争わない。じょうずに人を使うものは人にへりくだっている。こういうのを「争わない徳」といい、こういうのを「人の力を利用する」といい、こういうのを「天とならぶ」ともいって、古くからの法則である。

 この教えは、「百戦百勝は、善の善なるものにあらず」という孫子の教えと同じ趣旨と言えます。

 ただ、「戦わずして勝つ」といっても、ちょっとニュアンスは違うように感じます。
 「孫子」の場合は、外交であったり諜報であったり、直接的な軍事行動以外の具体的な手立てを駆使して「戦わず」して勝利を得るのですが、「老子」の場合は、「無為」の延長上での「不争」であるようです。

 その他いかにも「老子」という教えを1・2ご紹介します。

 まずは、最近は日本酒の銘柄の方が有名になった「上善如水」です。
 「老子」に限らず、「水」は、洋の東西いろいろな教えのなかで「理想的な理法」として登場します。

(p35より引用)上善若水。水善利万物、而不争。処衆人之所悪。故幾於道。
 最高のまことの善とは、たとえば水のはたらきのようなものである。水は万物の生長をりっぱに助けて、しかも競い争うことがなく、多くの人がさげすむ低い場所にとどまっている。そこで、「道」のはたらきにも近いのだ。

 もうひとつ、「老子」らしい逆説による教えの章です。

(p114より引用) 知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富。強行者有志。不失其所者久。死而不亡者寿。
(p113より引用) 他人のことがよくわかるのは知恵のはたらきであるが、自分で自分のことがよくわかるのは、さらにすぐれた明智である。他人にうち勝つのは力があるからだが、自分で自分にうち勝つのは、ほんとうの強さである。
 満足することを知るのが、ほんとうの豊かさである。努力をして行ないつづけるのが、目的を果たしていることである。自分の本来のありかたから離れないのが、永つづきすることである。たとい死んでも、真実の「道」と一体になって滅びることのないのが、まことの長寿である。

老子流「わかったつもり」

 以前、別のBlogで「わかったつもり」のことを書きました。
 老子流の「わかる」についての教えです。

(p215より引用) 知不知上。不知知病。(夫唯病病、是以不病。)聖人不病、以其病病、是以不病。
((p215より引用) 自分でよくわかっていても、まだじゅうぶんにはわかっていないと考えているのが、最もよいことである。わかっていないくせに、よくわかっていると考えているのが、人としての短所である。(そもそも自分の短所を短所として自覚するからこそ、短所もなくなるのだ)。聖人に短所がないのは、かれがその短所を短所として自覚しているからで、だからこそ短所がないのだ。

 説かれていることは、一見(「老子」に限らず、)当たり前のことのように思われます。
 が、金谷氏の解説によると、そうではないようです。

(p215より引用) わかったことはわかったとし、わからないことはわからないとする、それが合理主義の原則である。『論語』には「知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れ知るなり」とあった。『老子』のことばは、それと似ているようで、実は違っている。わかったことをわかったとはしないのである。

 老子流には、「『わかった』ということ自体を否定するのだ」と言います。

(p216より引用) なぜなら、何かがわかったとか知ったとかいうかぎりは、それ以外の知らないわからない世界をいつまでも残しているのであって、それでは「道」に到達したとはいえないからである。

 どうも「道」を究めたという状態は、「ソリッドなものに到達する」ということとは全く別次元のもののようです。
 やはり、難解です。


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