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欲ばり過ぎるニッポンの教育 (苅谷剛彦・増田ユリヤ)

長いポジティブリスト

 苅谷剛彦氏の著作は、「知的複眼思考法」「教えることの復権」「考えあう技術」等、以前も何冊か読みましたが、今回の本はストレートに「日本の教育論」です。

 教育テーマを得意とするジャーナリストの増田ユリア氏との対談を中心に、両氏のレポートで構成されています。

 いくつか興味深い議論があったのですが、まずは、小学校における「英語教育」の是非についての苅谷氏の主張です。

(p46より引用) 僕が小学校で英語を必修化するのに反対なのは、さっき言ったポジティブリストがすでに長くなっている中にさらに英語を入れたら、必ずはみ出すものがあるのに、はみ出すものを何にするかという議論をしないまま、英語を入れたほうがいいという、そういう議論の仕方に、反対しているんです。・・・

 ちなみに、ここでいうポジティブリストとは、「こんなふうにできたらいいな」という項目を書き出したものです。

 苅谷氏は、このように「議論のプロセス」を問題視するとともに、もうひとつ「教育現場という現実」という大事な視点からも意見しています。

(p47より引用) 少なくとも、現在の日本の小学校のカリキュラムの中で英語を入れたら、失敗するでしょう。ひとつに英語をちゃんと教えられる人がいないんですから。・・・
 教えられる人がいないのに何時間か入れたら、はみ出したものはどうなるんでしょう。確実にできることを犠牲にして、できないかもしれないけど入れたいものを入ようとする。どっちが重いか、はかりに掛けたときに、僕は失うものの方が重いと思う。できるかできないかわからないものを、全国一律に入れろ、なんて話をしたら、これは失敗します。

 To Beを目指すという姿勢は間違っていないのですが、現実の制約条件を十分勘案して「総合的に実現性や有効性を判断する」という至極当然の検討が蔑ろになっているという主張です。

 もうひとつ。以前の苅谷氏の著書(「知的複眼思考法」等)では、「正解信仰」を問題視していました。その主張の指摘は依然として正しいものだと思いますが、最近の教育現場の様子を見ている苅谷氏は、一歩歩進んで、ちょっとシニカルな見解を披瀝しています。

 以前の詰め込み教育期、いわゆる「正解信仰」のころの子どもは、実は、世の中を生きていくうえでぶつかる問題には正解がひとつだとは思っていなかったのではないかと考え始めているのです。
 むしろ最近の子どもの方が、「自分の意志で自由に選択しているかのように思わせられているのではないか」との仮説です。

(p78より引用) ところが、世の中全体でプログラム化が進んで、あたかも自分で選んだかのようにして育ってしまった子は、ちょっとでも依存できる対象が欠けたときには、不安でしようがなくなる。一見正解を教え込まれていないはずの子どもたちのほうが依存性が出てきてしまうとしたら皮肉な結果です。

学力世界一=フィンランド

 今、フィンランドは教育関係者の視察ラッシュのようです。OECDの学習到達度調査(PISA)で学力世界一になったことが原因ですが、当のフィンランドは周りの過剰な反応に戸惑っているとのことです。
 そこには、国際経済競争力調査等の際にも示されたこの手の国際調査に対する冷静な評価があります。

(p128より引用) 「実際の競争率はアメーバのようなもの。個人間、法人間、業界間での競争は存在しますが、スポーツ大会を除けば、国と国の間での競争とは、いったい何を言うのでしょうか。国際的に高い評価を受けることは、フィンランドにとって有り難い宣伝にはなりますが、それを本当に信じてしまうのは危険です」というフィンランド産業研究所の研究長のコメントを引用して、ランキングに対する警告を発していたそうだ。
 こうした冷静な判断とブレない姿勢を、いったい日本はどのように受け止めるべきなのだろうか。

 その意味では、日本の対応姿勢は「ブレ」まくっています。
 「ブレ」が外的刺激に対する適切な反応であって、結果としてプラスに作用するのであれば全面否定すべきものではありません。ですが、その前提には、更に上位あるいは内部にしっかりした「基軸」がなくてはなりません。

(p136より引用) もちろん、そういう迷いやブレがあったりすると、新しいものを生み出そうという原動力にはなると思う。けれども、それがどういう形で続くかによっては、ポジティブな面だけでなく、ネガティブな面も出てくる。

 この本を読んで、フィンランドの教育に対するブレない軸を支えているひとつの要素は「教師の質」のように感じました。

(p217より引用) 大学の教員養成学部は全国九つの大学に設置されているが、どこも人気が高く、入試の競争倍率は10倍にもなる。その難関を突破して学生となり、この学校で教育実習を行うためには、さらに書類選考、グループ討議、面接、筆記などの選抜試験に合格しなければ、実習生として教壇に立てない。・・・フィンランドでは、実習生を担当するガイダンス教師も、実習生を指導する技術を習得するための研修をうけなければならない。このように教師の質を維持していくためのシステムが何重にも準備されていることがフィンランドの特徴だといえる。

 フィンランドの教師は、修士課程を修了しなくてはなりません。そののちも、上記のように教師になる道のりは極めて厳しいのです。種々のハードを乗り越えた教師には、まさに「教えることのプロフェッショナル」としての自負と責任感を感じます。

 ちょっとタイプは違いますが、先に読んだ「教えることの復権」大村はま氏の気概に通じるところがあります。

修得主義

 ひとつひとつのステップを大事にし、その区切りを厳格に扱うことが、フィンランドの教育方針の基軸のようです。
 増田氏は、それを「修得主義」と名づけています。

 まずは、幼稚園から始まります。そして小中学校と一歩一歩ステップを上がっていきます。

(p220より引用) フィンランドのシステムすべてが、徹底した修得主義を貫いているということである。
 思いかえせば、初めて取材でフィンランドを訪れたときに視察した幼稚園では、「その子どもの成長が小学校に上がるまでの段階に至っていなければ、もう一年準備期間として過ごす『スタート教室』という場が設けられている」という話を聞いた。
 また、中学卒業時(九年生)の成績が不本意だったり、自分の入りたい高校の基準にまで達していない生徒に対しては、もう一年中学で学べる「十年生」のための特別プログラムがある。

 さらに、高校以上のステップは以下のような感じです。

(p221より引用) 高校入学は、九年生の成績の平均点によって決まる。・・・
 ・・・高校は三年ないし四年の間に単位を取得して卒業する、と時間的には比較的緩やかな流れのように見えるが、「高校卒業資格検定試験」に合格しなければ、卒業資格が得られない。

 高校までの学習成果そのものが、大学への入り口になります。「高校までの課程」をキチンと終えなくてはなりません。基本的な評価は「絶対評価」です。
 日本の高校も「単位制」ですが、その運用の厳格さは全く比べ物になりません。

(p222より引用) この高校卒業資格検定試験は、同時に大学入学資格でもあるので、この卒業試験にパスしなければ大学入試には参加できない。また、資格自体は、六段階の評価のうち、最低レベルでも取得できるが、この成績が大学入試にも関係してくるので、合格科目については一度だけ再試験を受けるチャンスが与えられている。また、不合格科目については、二回まで受けなおすことができる。

 フィンランドの制度の肝は、厳しいハードルだけでなくリトライできるチャンスも用意されていることです。「絶対評価」を尊重する基本姿勢は、一発勝負という偶然性に対するケアも考えています。

(p222より引用) 要するに、学んだことがきちんと修得されているかどうか節目節目で確認し、できていなければ再履修できるようなシステムが国全体としてきちんと作られているのだ。

 ただ、そうはいっても全ての学生が希望通りのパスに進めるわけではありません。日本と比較すると、ある面ではフィンランドの方がずっと厳しいといえます。確実に「修得」しなくては、絶対に次のステップには進めないのです。そういう点では、むしろフィンランドの教育制度はドライなのかもしれません。

(p109より引用) 北欧に代表されるような福祉社会では、負荷が社会全体のいろいろなところに分散している。それは所得分配の問題もそうだし、職業訓練の問題もそうだし、そういうところで社会がうまく回るような仕組みができ上がっていれば、学校が負わなきゃならない役割というのは比較的小さくて済みますよね。

 フィンランドに比較すると、日本は、学校が負っているものが大きいといえます。日本の学校は、狭義の教育に止まらず、広く子どもをとりまく問題解決の場として学校が機能してきました。(それは、望む望まないにかかわらずですが・・・)
 「そういう学校の幅広の役割に依存することで、日本は、日本流の緩やかな社会を作り上げてきたのではないか」と増田氏は考えています。

 他方、北欧流の福祉社会は、厳しい修得主義のセーフティネットという役割を担っていると言えるのかもしれません。


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