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生きがい (茂木 健一郎)

(注:本稿は、2022年に初投稿したものの再録です。)

 いつも利用している図書館の新着本リストで目についた本です。

 茂木健一郎さんの著作は以前結構読んでいたのですが、このところちょっとご無沙汰でした。

 本書は、海外に向け英語で記されたものの翻訳版とのこと。そういった形態は新渡戸稲造の「武士道」を思い起こさせますが、イギリス留学の経験もある茂木さんが「生きがい」という概念をテーマにどんな立論を展開するのか興味を抱き、手に取ってみました。

 茂木さんは「生きがい」という概念と「日本」との関わりについて、こう語っています。

(p183より引用) 〈生きがい〉という概念は、日本で生まれたものだ。しかしながら、〈生きがい〉は国境を遥かに超えて深い意味を持っている。日本文化がこの点で何かしら特別だと言うのではない。ただ日本に特有の文化的条件と伝統が〈生きがい〉という概念を育むに至っただけである。

 この「日本に特有の文化的条件と伝統」を示すために多くの具体的な例をあげているのですが、そのあたりは “日本人の特性” = “日本人論” の紹介といった色合いが濃くなっています。

 ただ、その論考の端々には、やはり “日本(人)の特殊性” を強調したような従来型「日本人論」が感じられました。
 日本人の特性を説明する材料として「ラジオ体操」「寿司」「陶器」・・・を取り上げていますが、今のご時世、どれも「日本人一般」に馴染みのあるものではありません。それらと接点のある “一部の人々の特質” の根拠にしかならないでしょう。

(p56より引用) おそらく完璧なフルーツへの日本人の愛情は、はかないものへの信仰の投影だ。日本人が毎春、桜の花が咲くのを楽しむ「花見」が良い例である。日本人は人生の中の一瞬の物事を真剣に取り上げる。完璧なマンゴー、厳かなマスクメロンを食べるときは、その瞬間から消えていく喜びだけがあって、数分しかかからない。

 といったコメントも、“ためにする例示” のようです。“日本人は人生の中の一瞬の物事を真剣に取り上げる” という指摘も、どうにも旧態然とした「ステレオタイプ」の日本人像に留まっているように思います。

 とはいえ、もちろん興味深いコメントも数多くありました。
 たとえば、「行為の価値」について、

(p100より引用) 人生では、我々は時に、優先順位や価値の置き方を間違える。特に我々は報酬を得るために何かをしがちである。もしも報酬が見込めないならば、がっかりして、仕事に対する興味と情熱を失ってしまう。これはまったく間違ったアプローチなのである。通常、行為と報酬の間には時差があるものだ。あなたが良い仕事を成し遂げたとしても、報酬は必ずしも与えられるとは限らない。受け入れられ、認められるというのは、確率論的にしか起こらず、自分がコントロールできるものを超えて、たくさんの要素に依存することなのだ。もしも努力する過程こそを自分の幸福の第一の源にできたなら、あなたは人生の最も重要な課題に成功したことになる。

 また、「勝ちに重きを置く価値観」について、

(p117より引用) 言うまでもなく、トップの数少ない人々だけに重きを置く価値体系は、持続可能ではない。誰かがトップになるためには、誰かが犠牲にならねばならないのだから。グローバルな文脈の中で競争することがますます強要されている今日の世界では、我々は、この競争に勝たねばならないという強迫観念を抱いていることの意味と影響を、よく考える必要がある。勝つことを目指す精神性は、偉大なるイノベーションをもたらすことがある。そして同じ精神性が、個人と社会の両方に、過剰なストレスと不安定性をもたらすことがある。

 こういった指摘は「単一の価値観に拘束された不自由な精神性」を否定し、「個々人の価値観に基づく自由意思」を尊重しようという考えの表明でしょう。

 さて、本書を読み終えての感想です。

 今の時代背景に基づく “日本人論” としては面白い論考ですね。
 ただ、繰り返しになりますが、日本独特の “生きがい” というコンセプト生成の根拠として紹介した日本発の精神的事象の数々の中には、まだ、その根拠として収斂させるには片面的であり少々不適切かなと感じるものがあったようです。そのため、立論のところどころに「ちょっと無理筋かな」という印象を抱いてしまいました。

 とはいえ、多面的な視点から “生きがい” という概念の特性を描き出す茂木さんの思索プロセス自体が、まさに現代の “日本人論” に至る新たなアプローチでもありました。
 その点では、とてもチャレンジングな著作だと思います。



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