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白川静 漢字の世界観 (松岡 正剛)

 以前、白川静氏の「漢字―生い立ちとその背景」は読んだことがありました。また、松岡正剛氏の本も数冊読んでいます。

 本書は松岡正剛氏による「白川学」の入門書です。

 白川氏が自身の学究生活のすべてを賭けて突き止めようとしたのは、「日本を含んだ東洋古代の世界観」でした。そのための方法として「文字の表意」の探究を始めたのです。

(p17より引用) 漢字が言葉の意味をあらわしていると言っているのではなく、文字は言葉を記憶しているのだ、文字しか言葉を記憶しているものはない、漢字はそれを体現しているのだと、そう、白川さんは強調しているのです。

 中国古来の文字は、秦の始皇帝により「篆書」に統一され、そのときから文字の持つ中国古代社会の重要な情報が失われたのです。
 さらに、コミュニケーションが多様かつ濃密になっていくにつれ「文字の力」は弱まっていきました。

(p36より引用) 言語文化と文字文化の重なりとメディアのつかいかたに慣れてくると、そこに言葉や文字の本来の「力」があったことを忘れてしまうようにもなりました。とくに文字の力が忘れられていった。本来の文字は当時の社会の言葉を喚起させ、意味を再生させ、世界を実感させる最初の「力」をもっていたはずなのに、そのことを忘れてしまうのです。

 他方、漢字を受け入れた日本では、その漢字をまさに「国字(日本の文字)」として発展させていきました。漢字から「仮名(ひらがな・カタカナ)」を生み出し、さらにひとつの漢字に「音読み」「訓読み」を与えました。
 その結果、日本語は、言語の中でも特異な文字体系をもつとともに、豊かな表現力も獲得したのでした。

(p238より引用) 日本人は自分たちの言葉づかいを捨てずに漢字の使用法を工夫し、その漢字の使い勝手を工夫しきっていくことで、日本語の言葉による表現力をさらに高めることに成功したのです。

 そういう表現力という観点からみると、白川氏が『字訓』にて、デカルトの「我思う、故に我あり」の「思う」は「慮ふ」や「恕ふ」の方が相応しいと指摘しているのはもっともだと思います。
 また、そういう細かなニュアンスを表す様々な漢字を、戦後の「当用漢字」の制定で自己否定したことへの白川氏の憤慨も理解できます。

 本書の著者である松岡氏は、当代を代表する博覧の人です。その松岡氏をして「白川静という知」はこう評されています。

(p167より引用) ここで私が話しておきたかったことは、ひとつには白川静という知は、やはりただならないということです。そして、その知は古代中国と古代日本とに同時にまたがって、つねに灼けるような推断をしつづけていた知であったということです。
 もうひとつ示しておきたかったのは、『詩経』と『万葉集』は白川流の民俗学によってつながったということでした。

 松岡氏が「あとがき」にて紹介している白川氏のことばです。

(p269より引用) 詩においては「孤絶」を尊び、学問においては「孤詣独往」を尊ぶのです。孤絶、独往を少数派などというのは、文学も学術もまったく解しない人の言うことです。(中略)学問の道は、あくまでも「孤詣独往」、雲山万畳の奥までも、道を極めてひとり楽しむべきものであろうと思います。

 長きに亘り異端とされながらも独自の学問的方法を究め、齢70を過ぎてから「字統」「字訓」「字通」の字書三部作を著わした白川氏ならではの述懐です。


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