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日本という方法‐おもかげ・うつろいの文化 (松岡 正剛)

「並立」の文化

 松岡正剛氏の視点は、硬直した頭の私にとっては斬新に感じられ、いつも大いに刺激を受けます。
 この本は、「17歳のための世界と日本の見方」に続いて読んでみたものです。

 本書において、松岡氏は、「日本という方法=日本的編集方法」を探るべく日本の歴史を辿っていきます。その際、氏が置いたキーワードが「おもかげ」と「うつろい」です。

 本書で採り上げられているあらゆるissueは、松岡氏の立論においてはすべて時間的・空間的につながっているので、部分だけ切り出してもあまり意味はありません。
 が、そうはいっても、松岡氏の指摘の中で、特に私が関心をもったところを一部取り出してご紹介します。

 それは、「並立」という方法です。

(p52より引用) 日本人は対比や対立があっても、その一軸だけを選択しないで、両方あるいはいくつかの特色をのこそうとする傾向をもっているのでしょうか。・・・
 こうした比較は、比較文明論的な客観的比較から生まれたのではありません。そうではなくて外国を意識しつつ、それを活用してもうひとつの「和」をつくることがおもしろかったのです。

 その前工程では、外来のものをうまく取り込む編集も行われています。

(p43より引用) 私はこのような日本的編集を「外来コードをつかって、内生モードをつくりだす方法」と名付けています。外からコードを取り入れて、それを日本で工夫して日本的モードをつくっていく、そういう方法です。・・・
 私は、このような古来の口語文化を新たな漢字表記によって定着させようとしたこと、そこに日本的編集のすぐれた創発があったこと、そのこと自体が、このあとの日本文化の根本的表現に大きな基盤を与えたと考えています。

 これは、たとえば、太安万侶の「古事記」の記述に代表されるように、漢字を使って日本語(倭語)を表記したり万葉仮名と和化漢文の混淆文で文章を綴ったりする方法です。

 さて、この「並立」という方法ですが、これにさらにいくつかの編集技法が加わって、代表的な「日本的情報編集方法」へと深化していきます。

(p65より引用) アワセは合併とかマージということではなくて、二つの相対する文物や表現を、左右や東西の仕切りの両側で情報的に比べ合わせることです。そして、アワセの次に競います。これが「きそひ」です。つまりどちらがいいのか勝負や判定をつける。いまでも紅白や源平に分かれて競技するやりかたです。こうしてアワセ、キソイをへたのちの歌などの表現物を、あとでまとめて編集構成するのです。これは「そろへ」です。つまりソロエ(揃え)です。
 このアワセ・キソイ・ソロエは、このあとの日本文化の編集方法としてしょっちゅう使われた方法でした。私は、アワセ・キソイ・ソロエに、さらにカサネ(重ね)という手法を加えて、これをもって日本の情報編集の最重要な方法のひとつだと見ています。

 こういった「キーワードを核にしたコンセプトワーク」は、松岡氏の思索の真骨頂です。基本的な知識の蓄積がないとこれほどまで見事には繋がっていきません。
 事象をシンプルな基本コンセプトで切り出し、それらの関連性の中で位置づけ、意味づける説明ぶりは、私も常々身につけたいと思いながらもまだまだ全く至りません。

松岡流

 本書のテーマである「日本的編集方法」の探究とははなれて、松岡氏の指摘のなかで印象に残ったものをご紹介します。

 まずは、松岡氏による「徳川時代の意味づけ」です。

(p155より引用) 徳川時代は実に多くのことを試した時代でした。明が倒れ、鎖国がなかったらこうはならなかったかもしれませんが、まさに国産化が試され、芝居が試され、農事が試され、染めが試され、浮世絵が試され、思想が試され、メディアが試されています。しかもそれらをいま眺めても、そのほとんどがそれぞれ究極の仕上がりに近くまで達していたのではないかと思えます。・・・
 徳川時代ほどに文化実験的な創発力が熟成していた例は、世界史上でもめずらしかったと思います。

 明の衰退によって、徳川幕府が基軸にしようとしていた中華思想・儒教思想の基盤が失われてしまいました。そこから鎖国・日本国内重視の動きが始まり、自給自足体制の充実という徳川幕藩システムが立ち上がったのです。その中で、あらゆる分野での国内実験が進んだというわけです。

 その他の興味深い指摘としては、日本の外交・渉外面でのダイナミズムの欠如の原因を「法の成り立ち」に求めている点がありました。

(p216より引用) 日本はつねに「判例法」や「慣習法」を重視してきた国で、どんなことも実態を見てから法令をくみあわせて切り抜けてきた。
 これに対してアメリカなどは、制定した法が新たな現実そのものになっている。法は理想であって、かつまた現実そのものなのです。・・・
 日本ではめったにこういうことはない。少年犯罪が多くなると少年法の対象年齢を下げ、構造設計のミスが多いとその基準を変えるわけで、現実のあとを追いかけるのが法律なのです。

 最後に、これは松岡氏の著作でよく触れられている「引き算の文化」についての指摘です。
 本書では、明治期の哲学者清沢満之「消極主義」「二項同体」の思想の説明の流れで登場しています。

(p245より引用) 二項同体、消極主義、ミニマル・ポシブル。まさに「日本という方法」です。私たちの先祖たちは、水を感じたいからこそ枯山水から水を抜いたのです。墨の色を感じたいから、和紙に余白を担ってもらったのです。それはすべてを描き尽くす油絵とは異なります。油絵は白を塗って光や余白をつくるのですが、日本画は塗り残しが光や余白をつくるのです。



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