17歳のための世界と日本の見方 ― セイゴオ先生の人間文化講義 (松岡 正剛)
正剛講義
本書は、松岡正剛氏が帝塚山学院大学で行った「人間と文化」というテーマの講義をもとにしたものです。
時間的に空間的に様々な事象を「関係」付けながら俯瞰的に歴史を紡ぎ、新たな意味づけを行っていきます。まさに、「正剛流」です。
松岡氏の思考の基本コンセプトは「編集」です。松岡氏の言う「編集」は、一般的な意味よりも広い概念です。
(p12より引用) 情報の本質は「区別力」にあるのです。・・・
・・・目の前の情報をどうやって区別していくかということが「編集」のはじめの第一歩になるんですね。もっと言うと、情報をどうやって区切ったかということによって、そこから読み取れる「意味」が変わってくるんです。それができればその次に、その区別した情報を、新たな視点でつないでいくことができます。見方をさまざまに組み替えていくことができる。
そうすると、そこに新しい関係が発見されるのです。
本書では、人類の「思索・思考」の歴史的足跡をたどっています。その中で、松岡氏は、紀元前6~5世紀にかけて、世界各地で期を一にしてスーパースタークラスの哲学者・宗教家が相次いで登場していることに関心を抱きます。
(p79より引用) ある傾向が一定の量まで達することを「臨界値に達する」といいます。臨界値に達すると、それまでにないものが生れてくるんです。それを「創発」といいます。
西でも東でも、現実世界においては新しいルールやしくみが必要になり、また人間の想像力やイマジネーションにおいても大きな変革が必要となっていたんですね。そこで紀元前6世紀から5世紀にかけて「創発」がおこって、ゾロアスターや老子や孔子やブッダやピタゴラスが出てきたんでしょう。
ある意味で、人間の欲望や煩悩が、それまでとはちがう現実味をもって人間社会をおびやかしはじめ、それが臨界値に達してきていた。そこで、それをコントロールしていく新しい技術や方法が求められていたのかもしれません。
この状況に対応するために、人間の精神性をコントロールするものとして、神の意思である「預言」や神と人との「契約」といった仕掛けが登場してきたのだと説いています。
日本の歴史
本書の第四講は「日本について考えてみよう」というテーマです。
神話の時代から説き始め、室町時代の「世阿弥」に至ります。
その論考の中で、興味深かったのは、「あはれ」と「あっぱれ」。
松岡氏は、この言い換えを「公家文化」から「武家文化」への転換の象徴的事象と捉えています。
(p255より引用) 武士たちは「あはれ」を「あっぱれ」というふうに破裂音を使って言い替えることによって、貴族の美意識を武士の美意識にしていったんですね。
貴族の「あはれ」は当事者が感じている「あはれ」です。ところが武士の「あっぱれ」は「あはれ」な状態にある人のことを、「なんと、あはれな奴じゃ」とは言わずに、「なんと、あっぱれな奴じゃ」と言い換えるという形で成立するものです。・・・
この「あはれ」から「あっぱれ」への変化が、公家文化から武家文化への大きな転換を象徴していました。そして、それが650年続いた。そう、見るといいでしょう。
また、この講で松岡氏は、茶の湯の歴史を辿りながら日本人によく見られる「二分法的思考様式」に触れています。
(p336より引用) こういうふうに利休と織部をくらべてみると、日本文化がつねに弥生型と縄文型とか、公家型と武家型とか、都会型の「みやび」と田園型の「ひなび」とか、たえず対照的に発展してきたことを思い合わせたくなるでしょう。・・・
まさに日本はいつも「漢」と「和」の両立に匹敵するような、「和」のアマテラスと「荒」のスサノオに象徴されるような、そういう二つの軸で動いてきたんです。
このあたり、「相手との相対的関係のなかで自己を規定する」という日本人の特性と通ずるところでしょう。
とはいえ、こういった二分法は、日本のみの専売特許ではありません。西欧社会にも見られますし、身近には中国の「儒教」も有名な2つの論の系譜を有しています。
(p111より引用) 筍子は性悪説を取ることによって、だからこそ人間は教えを受けるということが必要なのだ、ということを説いたんですね。ここから、筍子の性悪説は教育論になっていく。そして孔子や孟子の性善説は帝王学になった。そういうふうに見るとわかりやすいでしょう。儒教というのは、この二つの人間思想を包含しているわけです。
最後にもうひとつ、松岡氏の講義で「なるほど・・・」と感じいったのは、禅林文化における「引き算」という方法です。
その代表例が「枯山水」です。
(p273より引用) 枯山水は、実際には岩や石や砂があるだけなのに、そこに水の流れや大きな世界を観じていこうというものですね。こういう見方を禅の言葉で「止観」といいます。・・・
しかも枯山水は水を感じたいがゆえに、あえて水をなくしてしまっている。つまりそこには「引き算」という方法が生きているんです。それが新しい美を生んだ。
対象が目の前にあると、やはり人はそれに囚われてしまいます。
(p323より引用) 何もないことによって、見る人の想像力のほうに、大きな世界を見せていこうという方法です。
こういう方法のことを私は「負の方法」と呼んでいます。あえてそこに「負」をつくることによって、新しい「正」が見えてくるようにする方法です。
何もないからこそ、想像力で大きな世界を見ることが可能になる。あるいは、何もないからこそ、そこに最上の美を発見することができる。
「ないものを感じさせる」、創作者の技量ももちろんですが、鑑賞者の感性も磨いておかねばなりませんね。これが難題です。
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