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考えない練習 (小池 龍之介)

思考病

 著者の小池龍之介氏月読寺の住職。カルチャーセンタ等での坐禅指導や著作活動にも積極的です。

 この本、「考えない練習」とは面白いタイトルですね。著者の問題意識の原点は、考えすぎることの弊害です。

(p5より引用) ふだんは、思考を操れずに多くのことを「考えすぎる」せいで、思考そのものが混乱して、鈍ったものになってしまいがちなのです。

 こういった心の状態を、著者は「思考病」と名づけています。

(p14より引用) 私はむしろ、考えるせいで、人の集中力が低下したり、イライラしたし、迷ったりしているのではないかと思っています。いわば、「思考病」とでも申せましょうか

 本書で著者が紹介するのは、五感を研ぎ澄ませて実感を高めることによって「思考」という脳の勝手な活動を調教するための方法です。
 五感による外部刺激の入力は、私たちが「思考」を開始するトリガーになります。

(p19より引用) 私たちは常に、目や耳、鼻、舌、身体そして意識を通じて、さまざまな情報を受け取っています。そうした刺激に反応する、心の衝動エネルギーのうち、大きなものが「心の三つの毒」であるところの「欲」「怒り」「迷い」です。

 これらが仏道でいう「煩悩」の元となるのだそうです。そして、こういった「三つの毒」に侵されると「無知」、すなわち「いまこの瞬間に、自分の身体の中にどのように意識が働いているかとか、どのような思考が渦巻いているかといったことを『知らない』」状態になってしまいます。

 しかしながら、著者は「考えること」自体を否定しているのではありません。仏法における「八正道」の第一にも「正思惟」が掲げられています。これは「思考内容を律す」つまり「正しく考える」ということです。
 この八正道において「正思惟」に続く次のステップは「正語」(言葉を律す)です。正しく話すことはなかなか難しいのですが、そのための具体的な方法を著者は示しています。

(p39より引用) その方法として提案したいのは、話す時、常に自分自身の声に耳を傾けておくことです。自分ののどを響かせている音の刺激に意識を集中してみましょう。

 これなら、私でもなんとか始められそうです。

 ちなみに「八正道」とは、「正思惟」(思考内容を律す)、「正語」(言葉を律す)、「正業」(行動を律す)、「正命」(生き方を律す)、「正定」(集中する)、「正精進」(心を浄化する)、「正念」(心のセンサーを磨く)、「正見」(悟る)です。

身体と心の操り方

 本書で著者が薦めているのは「五感」を大切にする生き方です。
 「話す」「聞く」「見る」「書く/読む」「食べる」「捨てる」「触れる」「育てる」の8つの章で、そのための具体的な練習法を紹介しています。

 たとえば、「聞く」の章では、「ひとつの音に集中する」。普段気にしていない音に集中し、そこに含まれる微細な変化に気づくことは「諸行無常」を感得することでもあるのです。

 そして次の「書く/読む」の章では、インターネット上のコミュニケーションが材料にとりあげられています。

(p109より引用) 十善戒には「不綺語」つまり無駄話をしないことが含まれています。無駄話とは、基本的に、相手にとって有意義でない話、それを聞かされた側が社交辞令的な相づちをしなくてはいけないものとされていますが、現代は、ますます無駄話が増えているような気がいたします。

 まさにブログやSNSではそういう傾向がありますし、とりわけ twitterではさらにそれが強まっていますね。

(p109より引用) こうした無駄話の背景に何があるかというと、「人に受け入れられたい」「人に嫌われたくない」という「慢」の欲です。

 この「慢」の欲が満ちてくると、無理にブログの記事を書いたり、相手が書いていることに興味を抱かなくても興味を持っているかのようなコメントを返したりと、「自分の気持ちに嘘をつくようになる」と著者は説くのです。こういったことの繰返しは「苦」を増すことになり、さらには「無慚」(恥の意識を持たない煩悩)に至るのです。

(p116より引用) インターネットは、単に自分の心が疲れるか疲れないかを判断基準にしながら、距離をおいてつき合うのがよろしいかと思います。

 また、「触れる」の章では、「集中力が切れたとき」の対処法を紹介しています。全身を通じた触覚を活用するのです。

(p159より引用) 普段は顧みない、ささいな感覚に注意を向けてみることが、心をコントロールする際の重要なきっかけとなります。

 触れている感触に意識を集中させることにより思考のノイズの拡散を妨ぐ、そうすることで精神が統一され意識がシャープになるのだそうです。

 「五感」によるインプットから「嫌という感情」へ繋がる脳の暴走を止める方法は、暑い・寒い・痒い・痛い・・・といった情報の入口のところで、その感覚そのものに集中し、それをよく感じ取ることだと著者は説きます。五感そのもの、すなわち「単なる情報」という段階で放っておくのです。

 最後の章は「育てる」。「慈悲の心」を育み、自らを育て、他者を育てる訓練です。

(p178より引用) 誰かのために悲しんでいる時も、自分を背後から操る煩悩の糸を見つけて断ち切ることです。感情におぼれて嘆くという、優しい「つもり」をなくしてしまうことです。

 自分の中の「見」や「慢」に支配されないことが第一歩。ひたすら相手が穏やかであり続けることを念じる「慈悲の心」です。「厳しい優しさ」でもあります。



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