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大原孫三郎 ― 善意と戦略の経営者 (兼田 麗子)

(注:本稿は、2015年に初投稿したものの再録です)

 私の場合、「大原孫三郎」氏と聞いて真っ先に思い浮かぶのは倉敷美観地区にある “大原美術館” です。遥か昔学生のころ、休みで帰省した際に時折訪れていました。

 大原孫三郎関係の本としては、以前、彼の有名な言葉をそのままタイトルにした城山三郎氏による小説「わしの眼は十年先が見える」を読んだことがあります。

(p.vより引用) 孫三郎は、「仕事を始めるときには、十人のうち二、三人が賛成するときに始めなければいけない。一人も賛成がないというのでは早すぎるが、十人のうち五人も賛成するようなときには、着手してもすでに手遅れだ、七人も八人も賛成するようならば、もうやらない方が良い」と言っていた。
 また、「わしの目には十年先が見える。十年たったら世人にわしがやったことがわかる」と孫三郎は冗談めかしてよく言っていたという。

 間違いなく、今にも生きる箴言ですね。

 まさにこの言葉のとおり、大原孫三郎は倉敷を中心に地方振興の観点から様々なジャンルの基幹事業を興しました。

 その中核企業は、父大原孝四郎から引き継いだ「倉敷紡績」ですが、孫三郎は繊維事業の多角化を目指し「倉敷絹織」を設立しました。この倉敷絹織の工場を建設するにあたって、孫三郎は「工場分散主義」を採用し、その目指すべきところをこう語ったそうです。

(p63より引用) 「一ヵ所で大きな工場を運営することは不利で、分散主義をとることにより、各工場の技術の特徴を発揮させ、そして批判してまた新工夫をさせる。・・・感情的な無意味な競争ではなくて、技術的な競争、技術の新発見、技術的進歩という意味から分散主義をとったのであります」

 カニバリズムを誘発し単に疲弊を招くだけの競い合いを求めているわけではありません。“競争”による切磋琢磨、それも “技術力を高める” ため。「目的」が合理的かつ明確ですね。

 こういう新たな観点から自らのとるべき道を見出していくといった孫三郎一流の進取の気質は、その後の銀行業への参入にも見られます。
 そこでの目指すべきところも、近年のバブル崩壊期の銀行経営建て直しへの処方箋にも繋がるような内容で、まさに100年先を見たものでした。

(p79より引用) 「兎角小銀行は単純なる金貸業者となる傾向がなきにしもあらずである。何となれば、営業は利鞘のみを狙うようになり、其結果は金融緩慢の際はむやみに貸出し、少しく不景気になれば直ちに回収するに至る。斯くの如くにしてどうして産業の発展を期し得ようか。対物信用は素より不可なしと雖も、従来余りにこれに重きを置くきらいがあった。事業の性質、人物の如何によって大いに金融上の利便を与えるのが、産業を助長する所以であると思う」

 「事業の性質」や「人物」を計る明確な物差しは世の中にはありません。それを判断するのは孫三郎自身の選択眼であったわけです。

 孫三郎の目に留まった投資対象に対しては、それが社会貢献に寄与するものであれば、大いに金を使いました。

(p125より引用) 社会文化貢献には、稼いだ金銭を年月を経た後に、何らかの形で還元するというタイプのものもある。・・・しかし、孫三郎は、経済活動などの日常活動を行いながら、それら自体が同時に、地域や人々の利益につながる社会文化貢献を目指した。

 企業経営はもとより、電力・金融・医療・新聞といった社会インフラ整備、そして研究支援、さらには芸術振興・・・、孫三郎は「活きた金使いの達人」だったようです。



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