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広告論講義 (天野 祐吉)

(注:本稿は、2013年に初投稿したものの再録です)

 「広告批評」の編集長として有名な天野祐吉さん「広告論」です
 2000年から2001年にかけて行われた明治学院大学での講義録をベースにしたしたものとのこと。ちょっと古い著作ですが、内容は20世紀の広告を材料にしたもので、今読んでもその主張には首肯できるところが多くあります。

 このテーマの時代区分となった「20世紀」ですが、天野氏はこう位置づけています。

(p4より引用) 20世紀というのは、「戦争の世紀」とか「科学技術の世紀」とか、いろいろな顔を持った世紀ですが、「広告の世紀」であったこともまちがいない。とくに、大量生産・大量消費・大量流通という巨大な歯車をまわしてきたのは広告であって、その働きなしにはいまのような大衆消費社会というのは成り立たなかっただろうと思います。

 この大衆消費社会を活性化し続けた仕掛けが「広告」でした。生産者から消費者への能動的な働きかけです。そして「大量消費」をもたらすには顕在化している顧客を対象にするだけでは不十分でした。

(p74より引用) いま買いたいと思っている人にだけ届くのでは、広告はまったくペイしない。広告が話題になり、評判になることで、つまりメディアによって増幅されることで、はじめて広告は、それを買いたいと思う人を掘り起こしたり、あるいは商品や企業のファンをつくり出すという本来の働きをすることができるのです。

 「話題にもならない広告は広告ではない」、天野氏が指摘する「広告の鉄則」です。
 この「話題」になるということは、受け手の共感を得るということでもあります。たとえば、1960年代のサントリーの「アンクルトリス」の広告は、世代の意識と同化した制作者自身のメッセージでもあり、それはその時代そのものの言葉でもあったのでした。

(p160より引用) 同時代が自分のからだのなかにある、と思えれば、己れを語ってもその言葉は己れをこえ、同時代の言葉になる。それがジャーナリズム表現の理想だし、広告表現の理想形でもあると、ぼくは思っています。

 まさに、開高健氏山口瞳氏がコピーライターとして活躍していたころです。広告といえば「サントリー」という時代がありましたね。
 思い出すのは「仔犬」そして「大原麗子さん」です。瞼に残る場面であり、心に沁みる物語でした。



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