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一汁一菜でよいと至るまで (土井 善晴)

(注:本稿は、2022年に初投稿したものの再録です。)

 いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。

 著者の土井善晴さんは料理研究家として有名ですが、私はNHK料理番組「きょうの料理」に出演していた御父様の土井勝さんの印象が先に立ちます。“あの土井勝さんの息子さん” といったイメージです。

 本書は、その善晴さんが大切にしている「一汁一菜」というコンセプトに行きつくまでの過程をモチーフにした彼の半生記的内容のエッセイ集です。
 なかなか興味深いエピソードが紹介されているのですが、その中から特に印象に残ったところを書き留めておきます。

 まずは、善晴さんが20歳のころ、大学を休学してスイスのローザンヌのホテルで料理人の修行を始めたころ。
 善晴さんは、料理長のレシピを書き写して、これでここに来た目的は果たしたような気になっていました。

(p52より引用) 私は何もわかっていなかったのです。
 料理を身につけることは、「料理する」「共に食べる」という経験を重ねるよりほかにないのです。今思うことは、現代のようにさまざまな機械を使い、化学技術を駆使した創作料理が流行しても、「その土地の伝統的な食べ物」を食べる経験以外ないと確信しています。その土地と繋がるのが伝統で、大地と人間が交わって生まれた普遍的なものでなければ、判断の基準にもなりません。見たこともないような創作料理はコンセプトを作った本人以外には役に立たないものなのです。

 最近の人気料理店の奇を衒ったような料理に対するアンチテーゼの表明ですね。

 そして、次は、フランス、リヨンのレストランでの修行時代。
 お世話になっていた家庭での食事風景やレストランの設えから、フランスの “個人を尊重する自由思想” が感じられる1シーンです。

(p70より引用) フランスはじめ欧州では、今も多くのレストランのテーブルに塩、胡椒が置かれています。三つ星レストランで使う人はほとんどいないと思いますが、装飾的な意味でなく 実用として置いてあります。食べる人が作る人を尊重するように、作る人も食べる人の自由を尊重するのです。
 それはフランス人の「個人」に対する寛容(トレランス)の精神の表れで、個人の自由や趣味、考え、そして人権を尊重するためのものです。

 もちろん、味付けは “料理人の個性” の結晶であり尊重すべきものだといった捉え方もあるでしょう。どういった形で料理を楽しむのかは、シチュエーションも踏まえ各々考え方は異なり得ると思いますが、それも含めて “多様性の尊重” という姿勢は大切だと思います。

 さて、本書を読んでの感想です。

 著者の土井善晴さんは私より2歳年上ですが、ほぼ同世代。善晴さんの半生記でもある本書に記されたエピソードや経験は、私の100倍以上のボリュームと密度がありました。
 また、そこで開陳されている善晴さんの「料理」を対象とした探求の積み重ねは、“現代民俗学” の実践とでもいうべき思索プロセスでした。

 「料理」そのものに止まらず、さらには「料理を食べる」側に加え「料理を作る」側からの視点を含めて全体の営みとしての「料理」の意味を考え、その具現化として “一汁一菜” というスタイルを提唱しています。まさにご自身が語っているように「料理学」ですね。

 どうやら善晴さんは、御父様とは別の山を目指し、見事にその山頂に立ったようです。




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