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ヘアドネーションをした

コロナ禍になってから、ほとんど髪の毛を切らずに過ごしていたため、ショートボブがいつの間にかロングヘアになっていた。
私のライフスタイルは、基本的にショートやボブの時期が多く、自分でちょこちょこカットするのが面倒になってきて気づいたらロングヘアになっていて、それに飽きたらようやく美容院に行ってショートにしてもらう、ということを15年くらい繰り返している。
今回も、梅雨前に縮毛矯正をしに行こうと思ったので、ようやく1年ぶりに美容院に行くことを決心して、ついでにばっさり切ることにした。
髪を伸ばしていたのは、またいつか海外へ旅することができたら異国で切ろうかなと漠然と思っていたせいである。
スペインのカミーノを3年に分けて800km歩いた時は、1年目はショートヘアだったが、3年目にはロングヘアになっていたので、ゴール地点のサンティアゴ・デ・コンポステーラで美容院に行ってバッサリ切った。
そして、髪の束を持ってフィステーラという世界の果てという名の真のゴール地点へ向かった。
フィステーラは、巡礼中に来ていた服を燃やして新しい自分に生まれ変わる場所と言われていて、今、海辺で燃やす行為は禁止されているが、髪の毛を投げ捨てるなという標識はなかったので記念に私は髪の毛を捨てるという儀式をした。向かい風で大分私のところへ戻ってきたが、印象深い儀式だった。

こういうちょっとしたドラマを感じるようなことをまたしたいなという思いもあって、コロナ禍以降初めての異国で髪を切るという儀式をやろうかなと思っていたわけだが、まだ10ヶ月先になるのでこれは断念した。
また、痩せて目標体重になったら切ろうと思っていたのと(二重顎が解消されないとショートヘアに踏み切れなかった)、ここまで伸びたら次こそはヘアドネーションをしようと前々から思っていたこともあり、まあまあ痩せてきたし、31cm以上切ることになりそうなので、長年の付き合い(とはいえ年に1〜2回しか美容院に行かなかったりするけど)の美容師さんに切ってもらいヘアドネーションすることにした。

長い髪をカットすることに対しては毎度のことなので特に感傷に浸ることはなく、「31cmありますかね?」ということばかりを気にした。あとは、「思い切って、また前みたいに後ろをガバッと刈り上げてください」と言う私と「本当にいいんですか?」と言う美容師さんの攻防戦を数回経て、仕上がりは要望通り刈り上げてもらって、スッキリ・サッパリで最高だった。

31cmの長さにこだわったのは、ヘアドネーションをして医療用ウィッグにするために必要最低限の長さが31cmだからである。
1年に1回縮毛矯正をし、白髪染めを繰り返し、インナーカラーでブリーチをして青色を入れたり、緑になったり、最終的にオレンジへと褪色している、あれこれ手を加えられている髪の毛でもいいのかを、美容師さんに再確認したが、いったんどんな髪の毛もキューティクルを剥がして消毒する作業をするから、どんな状態でも問題ないですよとのこと。
ヘアドネーションの団体のホームページで確認してはいたがひと安心。
31cm未満の髪の毛も、研究などに使われるらしいが、私の髪の束は31cmをクリアしているパートが多かったので子供用のショートヘアの医療用ウィッグに少しばかり役立ちそうである。
良かった。
濡らしてしまってから髪を切ったので、乾くのに時間がかかるらしく、今は家で天日干ししている。なかなかシュールである。
頭に生えている髪の毛は頭皮の熱で乾くのが速いが、切ってしまった毛束はひどい時は1ヶ月くらい乾かないらしいので、これからヘアドネーションをやろうと思っている方は要注意。
髪は濡らす前に切ろう。
とにかく毎日毛束の渇き具合をチェックするのが日課となった。
乾いたら、封筒に入れて「ジャパン・ヘアドネーション&チャリティー」に送る流れである。


ヘアドネーションも含め、ボランティアや善意でのチャリティーをするに当たって、私がいつも気にして考えることは、偽善ではないのか、社会的に意味があるのか、自分本位で相手の気持ちや状況を無視していないかということ。
私はひねくれ人間なので、「善意は素晴らしいこと」と素直に思っておらず、「思考停止した人の善意ほど罪なことはない」と思う時もあり、一度は疑ってかかる。
そう思い始めたのは、阪神大震災の支援物資の仕分けのボランティアに行った時に、使い古した下着やボロボロの古着の山を見た時からかも知れない。


千羽鶴を被災地に送るとか、マジで要らんぞそれ、と思っていたし、ウクライナに千羽鶴を送るということが問題視されテレビでも取り上げられて、ようやくそういう視点を持つ人が増えて良かったなあと思っている。
そういうタイプのナナメな人間なので、ヘアドネーションも、どうなんだろうと疑ってはみた。
小児ガンや脱毛症で悩んでいる子どものためにウィッグを作ること。
私の周りにもガンで亡くなったり脱毛に苦しんだ人がいたから、そういう人の辛さの軽減に少しでも役立てるならヘアドネーションをしたいと思っていたし、その気持ちが迷惑になることはないと思いたかったのだが、やっぱり引っかかるところはあった。

髪の毛がない人はウィッグをつけないといけない社会はどうなのか。
髪の毛がない人はマイノリティーであり、社会の少数派が多数派に合わせないと生きづらいという社会の構造の方が問題だし、ヘアドネーションをすることはその社会を助長することにならないか、結局はマイノリティーを苦しめることの手助けをしていないか。
善意でいいことした、ヘアドネーションという素晴らしいことをした、ということで終わっていいのか。

昔見たアメリカのドラマ「SEX AND THE CITY」で乳ガンになって抗がん剤の副作用で髪が抜けたサマンサが、思い切って坊主頭にする際、彼氏のスミスも一緒に坊主になってくれたシーンに心を打たれたことがあった。
坊主姿のサマンサも美しかったし、カラーのド派手なウィッグをつけているサマンサも美しかったし、暑い!と言って大勢の前でウィッグを取ってしまうサマンサも格好良かった。(私はキャリーが嫌いでミランダが一番好き。サマンサも好き。余談)

最近、乙武さんの義足プロジェクトを見て思ったのは、乙武さんの挑戦し努力し続ける素晴らしさと義足の開発に日々力を入れている方達の努力。
その一方で、義足ではなく、車椅子でも誰にとっても生活しやすいまちづくりも必要不可欠だしこっちにも力を入れるべきだし、一人一人が協力できることって、結局こっちだろうなと思った。

髪の毛に関しても、髪がなくても人と違っても、気にせずに自由に生きていける寛容な社会になればいいと思うし、ウィッグという選択肢も豊富にあって、それぞれが自由に選べることが理想だなと改めて自分で結論が出せたので、ヘアドネーションに踏み切ることにした。
「一度は疑う」という、我ながら面倒な性格だが、考えなしの無責任な行動はしたくないから、色々と考えてはおきたい。

みんなが義足を望むわけじゃないし、努力を強要するのも違うし、髪の毛に関しても、髪がないことを本人も周りもすぐに受け容れるのが難しいこともあるし、髪の毛でオシャレをしたいという気持ちも尊重すべきだし。
脱毛で悩む子どもたちが楽しく生きていくのに必要な選択肢の一つとして、ウィッグというものがあるといいと思うし、髪の毛がない姿でも、大多数の人と少し違っていても、誰でも楽しく生きていける社会にもなってほしいと思っている。
「なってほしい」「寛容な社会になればいい」と書いたが、こういうところに他人事の姿勢が現れるなと反省。なればいいんじゃなくて、「作ればいい」だった。
そういう社会にしていくためにできることって、髪の毛を31cm伸ばさなくてもたくさんあるよなと思った。

そういった考えを経て、私はヘアドネーションをした。
色んな意味で、やって良かったと思う。



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