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紙のノートではなくこのnoteに書いた理由

12月は1年のうちで1番しんどくて嫌いだから早く12月が終わればいいなと思ってこれまで生きてきたが、年々時が経つのが速く感じるから12月はあっという間に終わってくれて、気が楽な面もある。
今週は友の命日もあって、何となく日記のようなものをただ書いた。しめちゃんとあの子のお母さんとしかあの子の話をしないようにしているのは私の中に明確な理由があって、それをここで書くつもりはない。
私の中だけで分かっておけばいい理由や感情があって、noteにあの子のことを書くのもあまり気が進まなかったが、何となく書いてしまった。

私は昔ノートによく色んなことを書いていた。
「日記」に似ているが、日記ほど毎日続けると決めておらず(それに日記はどうせ続けられない)、何かあった時にその時に勢いで何かを書くような、時にはメモのようなものを書くノート。
自分の気持ちを整理したり、または、自分の気持ちをあまり外に出さないようにするためにノートに書いて閉じ込めていたような気もする。
色んなことを思う時にノートに書いたりしていて、あの子の病院に通っていた日々も、ノートにその時の思いを書いていたけれど、大体そういうノートは読み返したことはない。書いたら終わり。読むためのものではなかった。
書くことに意味があり、吐き出すため、閉じ込めるために書いていたから読み返すことを考えて書いていないし、読み返すとしんどくなりそうなことも書いていたから閉じ込めたらそのまま封じ込める方が良い。
「王様の耳はロバの耳」の壺だか井戸だかのように叫ぶように書く。
だけど一度言葉にしてノートに書いた自分の本音や考えは、書いた後に読み返さなくても、自分の中のどこかに刻まれるような気がする。書いた言葉は自分の中にある、きっと。
自分の内省の言葉はそうやって封じ込めたり刻まれたりして自分の中で完結して生きてきた。ノートに書き殴ったりつらつらと綴る気持ちを、自分の周りの人に理解してもらおうという発想はあまりなかった。

今週、紙のノートブックではなく、不特定多数が読むnoteにあの子のことなどをつらつらと日記として書いた。
どうしてnoteに書いたのだろうかと少し考えてみる。
自分の気持ちや思いを理解して欲しい訳では決してない。
ただ、自分の狭い範囲の周囲に理解してくれる人がいなくても、例えば私のnoteを500人が読んだら1人か2人は同じような境遇の人がいて、私のnoteを読むことでその人の心がもしかしたら少し軽くなるのかも知れないなぁと思ったのだ。498人が私に同情したり色んな思いを抱いてくれたとしたとしても、今回はそれが第一の関心ではなかった。(読んでくださった人全員に感謝はしています。ありがとうございます。)
以前、インド旅でのアクセス方法とかおすすめレストランとかをブログで書いていた時は、これからインドへ旅に出たい人に向けて書いていて、インドに行くつもりのない人は読まなくてもいいと思って書いていた。
旅のブログの場合は、読んでほしい相手を明確にした方が良かった。「インドに行くつもりはないけど読んでて楽しかった」と思ってくれる人も多く、それがインターネットの世界の面白いところでありそれで良いのだと思うが、書いている意図とは違う。
過去のことを思い出して書いたり日記をダラダラと綴ったりした今週のnoteも、「会ったこともないけど届けたい対象」という人が私の中で明確にいたのかも知れない。
過去の私が小説や音楽や何かや誰かに救われたように、友達や大切な人を亡くして辛い思いをしている人や、大切な人の命日に向き合っている人が、何かの拍子で私のnoteに辿り着いて読んでしまい、喪失後15年経ったらこんな感じでみかんを食べて生きている一例として、何かしらの救いになればいいなぁと厚かましくも願ってしまったのかも知れない。
私は自分のことを人に分かってもらうということにあまり関心がないけど、じゃあなぜnoteに書いているのかと言われるとよく分からない。関心がないと言うか、積極的に自分からやらないと表現すべきかも知れないなと今思ったけど。
そんな私だが、これを読んで万が一どこかに共鳴する人がいたら、その人1人に「私も同じだから分かるよ、辛いよな」と言ってあげたいなと思って今週は書いていた気がする。
でも結局言ってあげたい相手は過去の自分なのかも知れないし、過去の自分を慰めてやりたいのかも知れない。
過去の自分のような現在のどこかの誰かに向けて。
12月なんてすぐ終わるということ、時間はどんどん流れていくということ、それは悲しいけれど救いになるのだと伝えたかった。

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来週はまた台湾旅の阿里山の続きか、何かの旅を思い出して綴ろうと思う。良かったらまた気楽に読んでくださーい。

今日は料理人フランツ・ザッハーさんの誕生日らしいので、ザッハーさんが作ったオーストリア・ウィーンの「カフェ・ザッハー」で昨年食べた本場のザッハトルテの写真を。ザッハーさんが亡くなってから113年経つのに、ザッハトルテという自分の名前がついたケーキが世界中にあるってすごいなぁと思った本日。

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また美味しいものを食べに色んな国へGOTOしたいもんです。

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