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Waltz For Debby③

だが。敵はつわものだった。
それから昼の公演の出待ちに必ず16歳のその彼女はいた。
半ば感心するやら、呆れるやらでジョンはしばらく放っておいたのだが、そのうち、
「両親に許可を取ってきました!あのシンクレアさんが見てくれるならレッスン行っておいでって言ってくれました!」
とまで言われてとうとう根負けした。
彼の一番暇な火曜日の午前中を使ってレッスンをすることになった。
彼女はデボラ・シンプソンと言った。
彼女の名前を聞いたときに、瞬間的にビル・エヴァンスの曲が流れた。そう、Waltz For Debbyが。愛称もデビーと言った。
彼女は元々クラシックをきちんと先生について習っていたようで、基本のことは全てクリアしていた。
彼女は病的にジャズピアノに打ち込んだ。そして、ジョンもすぐに気づいた。
彼女にはジャズにおいても才能があると。教えていくうちに直感でさらっと弾いてしまうインプロヴィゼーション。そして、その絶妙なリズム感。みるみるうちに彼女は上達していった。
「本当に楽しいんです!シンクレアさんのところに来るの、まちどおしくて!」
弾ける笑顔で彼女はジョンの家のグランドピアノに向かい合っていた。
その横に座り、ジョンは手ほどきを加えていく。
デボラはいつの間にかジョンの家に通う日数が増えていた。
母と仲良くなり、彼女の話し相手として、または彼女のそばでピアノを弾くようになっていた。帰宅すると母とデビーの笑い声が聴こえたり、彼女が弾くドビュッシーやショパン、メンデルスゾーンのピアノが聴こえたりと、母と二人だったこの大きな家に、にぎやかさが戻ってきた。
無邪気で、裏表がなくて素直なデビーは母も可愛がっていた。
デボラはそんなシンクレア家が楽しいらしく、いつも笑っていた。
デボラがレッスンを受け始めて2年が経とうとしたころに母が突拍子もないことを言いだした。
「ねえ、ジョン。デビーをお嫁さんにもらったら?私は彼女が大好きよ」
ジョンは呆れてすぐに言葉も返せない。
「…何言ってるんだよ、母さん…彼女はまだ17歳だよ」
「そうね。でもすぐに18歳になるわ」
「……」
ジョンの心中も穏やかではなかった。
最初はしぶしぶ始めたレッスンだったが、そのうちにデボラの才能をもっと見てみたくなった。そのうちセッションにも立てるようになる片鱗が彼女には見えていた。
さらに、彼女の笑顔がジョンを和ませてくれた。
いつもジョンに笑いかけ、ジョンをリスペクトしていると伝える彼女。
亜麻色の髪にブラウンの瞳。大きな瞳がいつも好奇心いっぱいにくるくる駆け巡る。
この気持ちをどうしたものかとジョンは持て余していた。
彼はすでに気づいている。この気持ちが恋であることを。
だが、相手は17歳だ。まだまだこれから世の中を知って、様々な人と出会って、愛する人を見つけていくのだろう。あくまで師匠としての立場でいようとジョンは努めた。
一方デボラはジョンのことを心から尊敬していた。彼は彼女にとって神様のような存在だった。だからこそ、無心に信心深く彼を崇め、彼の期待に応えるべく頑張ってきた。
彼女より大きくて長い手が彼女の横で滑らかに鍵盤を叩いているのを見たり、その手がレッスン中に彼女の指に触れたりしても俗なことは全く考えも及ばなかった。
だが…あれはいつの日だったろう…彼女が早めにレッスンに着いた時だ。
二階からピアノの激しくも流れる音がしてくる。その感情むき出しの音にデボラは背筋が凍るような衝撃を受けた。デボラはドキドキしながら静かに、気づかれないように階段を上った。
開け放たれた扉の向こう、大きな窓から差し込む光に煌めきながら、ジョンが懸命にピアノに向かい合い、その背中を揺らし、腕を振り上げ、激しく指を鍵盤の上で行き来させながら弾いていた。感情を込めてうねる頭に、髪が乱れて揺れている。真剣に鍵盤を見つめる鋭い目に胸が一層高まる。
―Cry me a riverだ―
別れた男への恨みを歌うその曲。
身体に鳥肌が立ち、震えてしまうのは心を込めて、何かを訴えるかのようにその情熱をピアノにたたきつけているからなのか…
―ああ、神様が、そこにいる…―
デボラはそう思ったのに、その神様に惹きつけられ心乱されかき回される自分に気づいていた。腕まくりしたシャツから延びる筋肉の張った腕。うっすらと汗で光るその首筋。姿勢よくピンと伸ばした背筋。横顔から漂う、男性的な香り…
ふうっと熱のこもった溜息を彼女は漏らした。
その吐息に、ふっと音が止んだ。
ジョンがこちらを向いていた。
「ああ、デビー、来てたんだ」
彼はそれだけ言うと、乱れた髪を掻き上げてふっと微笑んだ。
―神様じゃない…―
デボラはその瞬間に何かが身体を突き抜けた。
―あれは、美しい男性だ…―
急にこみ上げる想い。胸が激しく早鐘をうつ。
「どうした?始めようか」
ジョンは全くわかっていない。もちろんだ。わかるわけはない。デボラの中で大革命がおこっただけなのだから。
「あ、は…い」
その日のデボラは全くレッスンにならなかった。
おかしなところで指がとまり、インプロヴィゼーションも全く話にならない。
あまりの下手くそっぷりにジョンが心配したほどだった。
「どうした?デビー。具合でも悪いのか」
ひょい、とジョンはデボラの顔を覗き込んだ。
そのとたん、デボラは真っ赤になって固まった。
「熱でもあるのか?」
そっとジョンの長い指が彼女の額に触れた。あの、鍵盤を激しく滑らかに這うあの指が、である。デボラは固まったまま、のけぞった。
「……あ、ああ、そうか、嫌だよなあ。ごめんごめん」
すっとジョンは手を引っ込めた。つい、16歳のあの勢いのいい少女のままでいると思い込んで、彼は距離が近すぎたと反省した。彼女ももうすぐ18歳。大人の女性なのだと。
ジョンは決まり悪そうに楽譜をもって立ち上がった。
「下で、母にお茶でも貰って落ち着いてから帰ったらいい」
彼は楽譜を仕舞うべく、壁の棚のほうに遠ざかる。
そうじゃない。デボラはそう叫ぼうとしたが、声が出てこない。
胸にある思いは今にも破裂しそうにぐるぐる渦巻いているのに。
デボラはジョンの背中を見つめ続けた。
「ジョン…」
ようやくの思いで、吐き出した言葉は不器用に掠れていた。
「ん?」
棚に楽譜を仕舞っていたジョンが振り向いた。
―ああ、こんなに素敵な人と私はこんな近い距離でいつもいたなんて―
デボラは胸のあたりを押さえた。
「好き…」
「何が」
「あなたが」
「そりゃどうも、だからレッスンしてるだろ」
「違う」
「何が」
ジョンが全く分かろうとしないから、デボラは立ち上がった。
「私、ジョン、あなたのことが好き。男性として好き…どうしよう…どうしたらいいの?」
「は…い?」
驚愕の表情を浮かべるジョンにデボラはつかつかと歩み寄った。
「この気持ちは何?私あなたに恋してるの?こんなふうになったこと一度もない。こんなに我を忘れるほどに誰かにとらわれることなんか」
「…あの、あのな、落ち着け。落ち着くんだデビー」
ジョンのほうがうろたえた。
いつも天真爛漫で猪突猛進なデボラに振り回されていたけれど、今回も振り回されている。
しかも、こんな大人の女性の顔をして。
「私のことが、嫌い?」
「いや、だから、嫌いとかじゃないって…」
「じゃあ、好き」
「2択しかないのか!」
「ううん、1択だったら嬉しい」
真っ赤な顔をしながらジョンを見上げているデボラはそれでも照れながら笑った。
その笑顔にまたジョンの理性が揺らぐ。
「1択って…」
「『好き』だけ」
―ああ、これはダメだな―
ジョンは天を仰いだ。
こんなにストレートでこんなに強引でこんなにパワフルな愛の告げ方をジョンは知らない。
いろんな言い訳も年齢も立場も師弟関係もすべて彼女にかかれば無問題なのだ。
それを理由に断ったところでどうせ聞き入れないに決まっている。
「デビー…」
デボラの名前を呼ぶジョンの声が甘さを帯びている。男の声をしている。
彼はそのまま、目の前のデボラにそっと手を伸ばして抱きよせた。
ジョンの肩にこめかみを当てながら、デボラはうっとりと瞼を閉じた。
高鳴った胸の鼓動は相変わらずだけれど、ジョンの腕と香りに包まれてまるで天国ではないか。
「後悔するなよ」
「しないわ。今この瞬間に死んでもいいほど、私幸せだもの…」
苦笑しながらジョンはデボラの肩を掴んで心持離してその表情を見つめた。
確かに幸せだと顔に書いてある。
そのことがジョンには妙に嬉しかった。
だから。
ジョンは淡いローズ色をしたデボラの唇にキスした。
デボラは羽根が背中に生えて舞い上がるような心地になった。
本当に好きな人とのキスは、こんなに胸躍るものなのだと。
もっと味わいたい。もっと浸りたい…
「デビー、こら…俺の理性を崩壊させるな」
余りにも情熱的に応えてくれるものだから、ジョンが焦ってしまう。
彼女の前では、彼はただの男だ。
「え?」
「…まだ、何も俺から言ってないからな…」
デボラはなんのことだかわからないまま、無垢な瞳でジョンを見上げている。ジョンは深呼吸した。
「デビー、愛してる」
「嬉しい!わたしも、あなたを愛してる」
デボラはぴょん、と飛び上がると、ジョンの首筋に腕を巻き付けて抱き着いた。


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