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Waltz For Debby④

二人はあっという間に交際を進め、1971年、デボラが18歳の誕生日に結婚した。
デボラの若さに不安を唱える親戚もいたが、彼女は懸命にジョンと連れ添いたいと声を大にして叫んでいた。本心からのその叫びが周囲を祝福へと変えていった。
ふたりは古い家を借りて、そこで公私ともにパートナーとして懸命にピアノに向かい合った。ジョンはグロスターから活動範囲を広げ、ロンドンのあちこちのセッションに呼ばれたり、スタジオレコーディングメンバーに呼ばれたりとあわただしさが増していた。ピアニスト、ジョン・シンクレアは今まさに羽ばたこうとしていた。
一方、デボラはジョンのもとで懸命にピアノを弾いた。加えて、ジョンがセッションに誘い、二人でピアノセッションライブに登場したりした。
デボラは…ジョンも驚くほどの腕を見せるようになっていた。
それに負けじとジョンがまた研鑽を積む。その背中を追いかけるようにデボラがまた弾くの繰り返しで、二人のピアノセッションは激しくテクニカルで観るものを圧倒するものになっていた。
デボラはまだ弱冠19歳。若く美しく才能のある女性ピアニストは瞬く間に名が知られるようになっていった。
しかし、デボラの名前が売れていくにしたがって、ジョンに焦りが生まれる。
弟子に負けるわけにはいかない。自分だってこれまで培ったキャリアがある。しかし、デボラのことは愛している。
その心の葛藤が彼のピアノに現れてきた。
デボラがそれに気づかないわけはない。自分の存在が彼を苦しめている。ジョンを想えば自分がピアノをやめてしまうのが一番だ。でもデボラはピアノを弾きたい。あの舞台に立って弾きたい…
デボラが間もなく20歳になろうとしているときに、決定的な事件は起きた。
「デビー。なんだって?」
ジョンはもう一度確認した。自分がどんな顔をしているか想像もできない。
「あの、レコードデビューしないかと。インプレッション・レコードから…」
インプレッション・レコードと言えばジャズの中では大手のレーベルだ。
あの巨匠と言われる人々もこのレーベルから多数レコードを出している。
ジョンは完全に打ちのめされた。
デボラの才能が、自分の才能を上回ったということだ。
喜ぶべきことなのだ。喜べなければ、それは愛ではないし、師匠ではない。
だが…
ジョンはデボラに背を向けた。
「デビー…すまない。しばらく、しばらく…一人にしてくれ」
それだけ言うとジョンは走って自分の部屋に閉じこもった。
悔しい…悔しい…!15の頃からすべてをつぎ込んできた自分のピアノは何の価値のないものだったのか!涙が次々とあふれては止まらない。
シャツの胸のあたりをぐっと握りしめる。感情を抑圧すればするほど、それは暴れだしたいともがく。彼は歯を食いしばった。
こんなことならば、指を失って弾けなくなったと言えた方がどれだけ割り切れるだろう。
なまじ、動く指があるから…!
彼は自分の両手を目の前にかざした。手が、指が震えている。
この指を、ハンマーで殴ってしまえば…
その時に、部屋のドアを激しく殴る音がした。
「ジョン!ジョン!…私が嫌になったら、私を捨てて頂戴!あなたの人生の妨げになっているのなら、私はあなたから去るから…あなたを傷つけたりしたくないのに…」
涙を含んだデボラの声がする。
泣いている。彼女は泣いている。
ジョンはドアに向かって叫ぶしかなかった。
「デビー!頼むから一人にしてくれ!今、今俺がどんな思いでいるか君にわからないわけないだろう!頼む。これ以上惨めにさせないでくれ」
しゃくり上げて泣く声が扉の向こうでずっと続いている。
「ジョン、ジョン…私、あなたを愛してる。こんなに愛しているのに」
ジョンの目からも涙が流れ続ける。
俺は、ピアノの才能もなく、愛した女性すら泣かせて…
一体、何のために生きているのだろう…
夢も愛も今は失ってしまったじゃないか。
「デビー…俺に時間をくれないか…君は、君の思うとおりに進めばいい。だが…わかってくれ。これは俺の問題だ。時間がほしい」
ドアを背にジョンは涙声を隠すように途切れ途切れにドアの向こうのデビーに告げる。
カリッとドアをひっかくような音がした。
「わかったわ…ジョン…」
デボラの静かな声がして、足音が遠ざかった。


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