見出し画像

非効率は「死」。それでも非効率を選ぶか?

【静かに始まるデジタル・ラッダイトの予感】
私の周辺の人たちを見ていると

1.これからはDXだから、そういう社会に適合していかなければならない
2.世の中は全てをDXにしていく流れだが、自分の仕事ではDXはしない。あるいはできない、と言う。
3.全くついていけていないので呆然としている。

という、DXについて3種類の態度を取る群れがそれぞれある。

私は「デジタル化すれば効率が瀑上がりなのにそれはしない」という「2.」の人が最近増えている、と思う。そういう人たちは静かに「デジタル・ラッダイト」の闘志となる予感がしている。

「それはAIやロボットにさせれば、最大の効率となるだろうが、あえてしない」という人のことだ。当然だが、仕事でこれをやると、競合他社などはそれをAIやロボットで行うだろう。結果としてそれをしない人は、それがいかなる感情のもとにそれが行われたのであろうが、市場で負け、退場を余儀なくされるだろう。「それでも人間の方が良い」は、自殺行為になることが増えるだろう。

【非効率は死につながる】
人間の労働、そして組織、道具などの歴史は、そのまま「人間が食料を得て住処を作り、寒さや暑さをしのいで生きていくための営み」として生まれたものだ。それが大きくなり、多くの人を養えるようになり、地域的にではあっても過剰な富を蓄積し、その「豊かな時間」をできるだけ長く持てるように努力してきた。戦争もまた、地域どうしの人の塊での地域の取り合いであり、コントロール可能な地域を増加させ、地域の繁栄を目的としているものであるように、私は思う。つまり、人間の歴史とは「生きること=死なないこと」への挑戦であり、そのための人間の営みが、これまでの人間の歴史そのものである、ということなのだろう、と私は思っている。「非効率」はそのまま死につながる。だから、効率化は好まれ、非効率は忌避される。私たちが「経済的により豊かな生活」を好むのは、それが「死」からの距離が遠いからだ。私たちの幸福感の多くは、死からの距離感で、その強さや大きさが決まる、と言って良いだろう、と、私は思う。

【それでも非効率を選ぶ人たち】
人の社会で効率が追求され、富が人が生きていていく必要以上にあふれると、そこに「文化」「文明」が生まれ、様々な「人生の暇つぶし」が生まれる。無駄を許容し、それを人生の楽しみや生きがいとして設定できるようになる。だから、食うや食わずの地域や場所では文明は発達しようがない。そして文明や文化に携わる人は、非効率であることをむしろ尊ばれる。そして、そこにいる人は非効率の中で生きることが当然と思う。そして、それがその人の人生の目的になると、効率化はむしろ「貧乏くさい」ので嫌われる、ということになる。やがて、それに慣れれば、非効率な人生を犠牲にして効率を考える人生を厭う様になる。「人間とはこういうものだ」と言う。それはそのヒトがいる場所を示しているに過ぎないのに。そのヒトはやがて、命をなくすことがあっても、非効率を選ぶようになる。「我が生命尽きるともこの文化を守る」という、当初の人間社会での「効率」と「非効率」の逆転が起きる。自分の今いる場所が「豊かな場所である」という自覚がないからだ。

【人はパンのみにて生きるにあらず】
その逆転は聖書の言葉にある「人はパンのみにて生きるにあらず」に象徴される。人の尊厳とは人の命より大切なもの、と言う価値観が生まれる。本来は逆であったはずなのだが、豊かな富あふれる社会ではその逆転が起きる。どう考えても、生きているからこそ文化に関われる、という当たり前の理屈は無視されていく。

【パンではないものへの思い入れは死へ】
人はおそらく、パン以上のものに思い入れを集団ですると、人という種の寿命を縮めるものなのかもしれない、と、最近、私は思う。「生きているだけでありがたいこと」という素朴なものが失われ、やがて過剰なものを求める人を理不尽な死へと向かわせる。

「どこへ向かうのか?」と、昼ご飯を食べながら考えたりしている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?