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インターネットは芸術であって文化だった。

【ビジネスからみんな入っていく】
例えば音楽の話をすると、こうなる。多くの人は、ショウビジネスにお金を払う。子供の頃から慣れる。しかしその中から、自分で選び取り新たなものを作る感覚も得る。訓練のきっかけはショウビジネスの商品を模倣するところから始める。訓練が成果を上げてくると、ショウビジネスを入り口に、今度は創作、芸術の世界に入る。これを使って自らの成長を楽しもう、という世界ができてくると、次には、多くの場合「成長しているのに、なぜ、ショウビジネスのように売れないのか」という悩みにも突き当たる。「売れる」と言って悪ければ「あるものごとによる社会性の獲得」である。

【ビジネスは別だよ】
自分の成長と熟練の地平の先に見えるのは「社会性」と「成長やその結果の熟練」は、別物だ、という、ある意味当たり前の認識のある世界だ。

そこで、前者に重きを置けばそれはビジネスになる。後者にのめり込めば、それは自らだけのもの「芸術」になる。

【ビジネスか芸術か】
これを意識すると、自分はどちらの道に行き、何を極めるべきかが見えてくる。加えて言うが、それを意識して、後者で、その物事を継続するあなたの周りには、戸惑いが産まれる。社会性の獲得以上に熟練が進むから、前者を選んだ人の領域を侵食し時には安定した社会を破壊することがあるからだ。社会性を突き抜けた熟練の境地は、そういう意味で、本質的に「反社会的」なものだ。しかし、それゆえに、余計にのめり込む楽しさも産まれることがある。少数ながら、それが新しい別の社会も創造する。それが大きくなると、現在の社会を侵食して、新たなものに置き換わっていく。既存の安定した社会にして見れば、それは「敵」である。

【新旧の文化が取って変わる条件】
新たな小さなものが、成長していくがゆえに既存の社会の敵と認定され、それが大きくなり、古いものが新しいものに時系列で取って代わるには条件がある。既存の社会の「原理」に、新たなものも同じ基礎を持ち得る、ということだ。「水は高いところから低いところにしか流れない」からだ。それは、現代の世界の多くの場所では「最小の投資で最大の利益」という「経済原理」だ。その経済原理の、さらにルーツは「人の生存原理」である。生きるための様々な力を得られるかどうか、ということだ。

【インターネットの場合を考える】
インターネットが小さな勢力から大きなものに社会的に認知を受けるに至ったのは、そういう原理に軸足を置くことに気がついた人がいたからだ。それは意識して行われた、と言えるのは、ぼくは目の前で見た。

【芸術家が新しいものを始める】
ぼくは、まだインターネットが「芸術」であった時代に、それに若い頃に出会った「芸術家の一人」だったんだな、と、最近はわかってきた。今は、そのつもりだが、ビジネスはしないと食えないからなぁ、と思う。


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