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知覚をもった作品という見方

以前、知覚をもった家具を作品として作っていた。家具は生物ではないが、環世界という視点で作品が世界をどう知覚していたのかを想像すると面白い。

観客とのやりとり、インタラクションを電子的にもつ作品は、私にとって自動で動く道具というイメージだったが、ここ数年、数ヶ月間メンテナンスなしで動くことを要求されたり、その動作をログをとって時系列で眺めることができるようになると、道具とその記録というよりも、ロボット的に私の手を一旦離れた自律的な物体とその生き様の日記のように見えてくる。

この新しいイメージ、視点で作品を計画すると、たとえば屋外でこのロボットがどのように生き延びて、どのように外界とやりとりをするのか、そしてより大事なのは、周囲の人々、つまり観客達とどのように共生するのか、の設計がつまり計画ということになる。

僕の作品はまったくロボットのような見かけをしていないので、このような計画方法は一見当てはまらないように見えるが、ここ10年ほどのデザインの仕事のなかで出会ってきたデザイン思考系の方法論が僕に影響して今このような考えに至っているので、経緯を説明したい。

僕は過去10年ほどUX(ユーザエクスペリエンス)という情報機器やソフトウェア、それらが繋がったしくみのデザインの仕事をしてきたのだが、そのデザイン手法で重要なものにHCD(人間中心設計)というものがある。しくみを使う人間を中心にデザイン、設計をすることで使いやすい、または、使う人に満足や驚きを効果的に与えられるという思想で、実際に非常に使いやすい思考のツールだった。

このHCDにどっぷり浸かったあとで作品作りを再開すると、おのずとその場にくる観客達を想定して彼らを中心に作品を計画するようになる。この態度は、作品の体験を設計して実際に効果的に運用する上でとても役立った。

さらにここ数年で僕はAIがからんだソフトウェアのデザインに関わることになった。音声認識、音声合成や、自然言語理解といったAIの要素がデザインの中にどんどん入ってきた。このときの会社の研修で出会った新しい考え方は、CallerCenteredDesign(話者中心のデザイン)というもので、音声を通じて人と対話するAIにも個性を与えることで人とAIのやりとりをスムースにしようというものだ。確かに、たとえ相手が機械だと知っていても、その口調が一定していなかったりすると、どう話していいのかわからなくなる。

最初に学んだHCDの大事なコンセプトは、使う人を”標準的なマネキン人形としてみなしてはいけない”ということで、個性をもった人物、マーケティング用語でいうペルソナとしてみることだった。だがAIが入ってくると個性を使う人に対してあてはめてデザインするだけでなく、AIにも個性をあてはめることが重要になってくる。

ここで最初に書いた”知覚をもった作品”に戻ってくる。自分が計画する、観客とのやりとりをする作品をAIとして考えるなら、どのような個性を与えるべきか。ここでまず、そもそも作品を擬人化することの無理がでてくる。作品は人間でもキャラクターでもない。しかし単純な道具以上のものだ。いったいどのようなものとして捉えるべきか、その補助線になりそうなのが冒頭の環世界という考え方だった。

この先は、一度環世界の考え方に深くダイブしてから書きたい。今日はその予感まで。


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