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人と出会う場所を作るアートやUXデザインを続けています。 他の誰も描かず、でも多くの人…

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人と出会う場所を作るアートやUXデザインを続けています。 他の誰も描かず、でも多くの人と共有出来る気持ちがあるなら、と書き始めました。

最近の記事

[理解の反転 2]角田さん

ずっと気になっていた出来事や頭の中に鮮やかに残る記憶があって、ある日突然、それまで思い込んでいた自分のその出来事への理解が実は180度違うものだったことに気づく。そんなことが僕には最近起こる。それが自分には衝撃的で、忘れる前に殴り書きのように書くようになった。 角田さん 2023年に書く 僕が学生時代に初めてアルバイトをした喫茶店が、東京の根津にある。この話は、何十年ぶりかで再訪したこの店のなかでコーヒーを飲みながら、携帯で書いている。店内を見回すと、椅子とテーブルは間違

    • [理解の反転 1]新聞紙に絵を描いていた少年

      ずっと気になっていた出来事や頭の中に鮮やかに残る記憶があって、ある日突然、それまで思い込んでいた自分のその出来事への理解が実は180度違うものだったことに気づく。そんなことが僕には最近起こる。それが自分には衝撃的で、忘れる前に殴り書きのように書くようになった。 1991年の記憶。新聞紙に絵を描いていた少年 美術大学の受験対策のため、僕らはこの頃、予備校に通い、神社仏閣や歴史的な建物を短い時間で木製のパネルに貼った画用紙に水彩画写生として書き上げるトレーニングを積んでいた。

      • 京都宝ヶ池の動物と人間たちと作る彫刻 v02

        京都の宝ヶ池で作品を制作し始めたのが5月。3ヶ月はあっという間に過ぎました。京都FabCafeでのCounterPointレジデンスプログラムはいよいよ今日7月30日で終了です。現在、当初計画していた4作品のなかから、2作品は試作までこぎつけました。そしてなんと、京都市さんのご協力を得て、晩秋までプロジェクトは続きます! 今決まっている予定のお話をしますと、 1)京都FabCafeでのプレゼンテーション 7月29日 2)宝ヶ池公園での京都市主催の市民交流会での作品デモ 7月

        • 京都宝ヶ池の動物と人間たちと作る彫刻 v01

          こんにちは。2022年5月から、京都FabCafeと京都市の協力で、京都の東北にある宝ヶ池公園でプロジェクトを始めています。建築やデザインに詳しい方なら、京都の国際会議場の前にある公園だというと、わかりやすいでしょうか。いわゆる洛中からちょっと離れた、郊外型の公園です。 ここでプロジェクトをはじめるにあたって、京都FabCafeの方々からお話しを聞きました。(東京渋谷道玄坂にあるFabCafeの京都店ですが、私のようなアーティスト、クリエータ、デザイナーとの協働もしている大

        [理解の反転 2]角田さん

        • [理解の反転 1]新聞紙に絵を描いていた少年

        • 京都宝ヶ池の動物と人間たちと作る彫刻 v02

        • 京都宝ヶ池の動物と人間たちと作る彫刻 v01

          並行宇宙間の移動時の夢

          別の世界線から自分達の元の世界線に帰る、並行宇宙を横断するためのゲートの近く。研究者が多い。別の世界線から意義のあるものを説明付きで登録して持ち帰ろうと彼らが準備しているところに、異端の大先生が立ち上がり、二つの色の違うバレーボール様のものを見せながら、皆に言う。自分は、特別なものには興味がない。これからこの2つのボールを、この世界線と私たちの世界線の両方に置く。この宇宙にはその後もこの二つのボールが同時に同じ空間に存在できる、その可能性がある。その可能性を確かめるための実験

          並行宇宙間の移動時の夢

          知覚をもった作品という見方

          以前、知覚をもった家具を作品として作っていた。家具は生物ではないが、環世界という視点で作品が世界をどう知覚していたのかを想像すると面白い。 観客とのやりとり、インタラクションを電子的にもつ作品は、私にとって自動で動く道具というイメージだったが、ここ数年、数ヶ月間メンテナンスなしで動くことを要求されたり、その動作をログをとって時系列で眺めることができるようになると、道具とその記録というよりも、ロボット的に私の手を一旦離れた自律的な物体とその生き様の日記のように見えてくる。

          知覚をもった作品という見方

          公園の機能していない憩いの場が好きだった。

          感染を避けて誰もいなくなった公園のことを想像したら、思い出した風景があった。 公園の機能していない憩いの場が好きだった。 キャンプファイアでもするのかと思わせるくらいなにもない中心をことさら囲むように配置されたベンチ、誰も歌ったことのないのに屋外劇場のような形をした広場。 子供ながらになにかがうまくいっていない、あるべき姿で使われたのかもしれない日々が既に通り過ぎてしまった場所の斜陽な空気を感じながら、おそらく60、70年代に作られて10年以上の年月を経てペンキの剥げたモル

          公園の機能していない憩いの場が好きだった。