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公園の機能していない憩いの場が好きだった。

感染を避けて誰もいなくなった公園のことを想像したら、思い出した風景があった。

公園の機能していない憩いの場が好きだった。
キャンプファイアでもするのかと思わせるくらいなにもない中心をことさら囲むように配置されたベンチ、誰も歌ったことのないのに屋外劇場のような形をした広場。
子供ながらになにかがうまくいっていない、あるべき姿で使われたのかもしれない日々が既に通り過ぎてしまった場所の斜陽な空気を感じながら、おそらく60、70年代に作られて10年以上の年月を経てペンキの剥げたモルタルの表面を見せているそれらで遊ぶのが好きだった。頭の中でその場所のしつらえがいろんなストーリーを喚起するからだ。だから、そんな場所で遊ぶときは決まってひとりだった。自分の中に喚起されたストーリーのなかで僕はその場所と遊んでいた。
そこは人の居場所が意思をもって作られていた。たとえ作った人の期待通り100%機能していなかったとしても、そこにいる人に何かのシーンの一部であることを思い巡らせるくらいの力は持っていた。そのかすかな力って何なのかが気になり、それを追いかけているうちに大人になり、やはりずっと追いかけ続けられる仕事に就いた。

大人になって、公園というか、意図して設計された広場の凄みを感じさせられたのはバックパック旅行や海外での仕事に出かけてからで、例えばそれはシエナのカンポ広場であり、パリオの祭りの準備だった。フランクフルトの郊外で東京の郊外と同じような色あせた灰色のモルタルの斜陽な失われた理想の風景に出会えたときは興奮した。ソウルのオリンピック公園は、まだ色褪せず、設計者の理想を人々が受け止めているように感じた。NYの地下鉄ではなにもなくても音楽を演奏する人たちと聞く人々がいた。そのために用意された場所なんてなくてもいいのだ。人がいて活動があれば、場所が付いてくる。浅草の三社祭を浅草橋の長屋の玄関から眺めて、日本では路地がカンポ広場の代わりなんだと気付いた。ピッツバーグのビルの谷間の広場では、自分自身がそこで人を呼び楽しませる仕掛け人になった。

読むべき本
ヤン・ゲール
人間の街: 公共空間のデザイン
https://www.amazon.co.jp/dp/430604600

William H Whyte “The Social Life of Small Urban Spaces"
https://www.pps.org/article/wwhyte
https://www.pps.org/product/the-social-life-of-small-urban-spaces

仙田満
実はこの人の本はちゃんと読んだことないのだが。。https://www.amazon.co.jp/s?k=%E4%BB%99%E7%94%B0%E6%BA%80

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