「他人に心を支配されてしまう」ことのコスパの悪さについて

 僕は基本的に、何らか問題が起きた場合、人のせいにせず、できる限り自分自身の責任として受け止めたいと思っている。

明らかに他人の言動が原因で誘発された問題に対しても、よほどの事がない限り、自分自身の試練として物事を進めるよう努力をしている。

別に「右の頰を打たれたら左の頰を出しなさい」的な、そういう自己犠牲的なことを言いたいのではない。
併せて「泣き寝入りしなさい」といった、事なかれの啓発をしている訳でもない。

単にその方が、心を奪われることなくパフォーマンスを維持できるからだ。

 他人のせいにすると、のうのうとされたらされる分「腹立つ」という感情に心を奪われてしまい、無駄に悶々とした時間を割いてしまう。

もちろん言うべき事は言う。でも、それだけに止める。

 コントロール出来ない事は出来ない。ならば、執着せず自分を変える事に意識を費やした方がはるかに生産性が高い。

***

 それと同じ原理で、理不尽に攻撃してくる人に対しても、徹底的に相手にしないよう努めている。

 僕も3〜4年ほど前に、周りに対して非常に支配的な態度を取ってくる人が何人かいて、鬱病寸前まで悩まされたことがある。

常に監視をし、基本的に自分の思い通りに事が運ばないと気が済まないタイプの人だ。

***

 他人に対してもっともらしい事を言いつつ厳しい言葉で是正を求めてくる人のほとんどは「自分にとって都合の良い人でいてほしい」という心理が働いている。

特に「お前の為に」「あなたはこうだと思っていただけに残念だ」などで始まるダメ出しは、本当に気をつけた方がいい。

 そこに一見合理性がありそうだし、巧妙に負い目や自尊心をくすぐり、「周りの意見」などを盾に痛いところも執拗に突いてくるので、どうしても自分が悪い、という気持ちにもなるのだが、冷静に思い返してみると、単にその人が自分を体良くコントロールしたいという欲求が「正論」というコーティングを経て吐き出されていたものに過ぎない…という事に気づく。

 こちらが一生懸命汲み取ろうとするほどの意味は実は全くなく、口撃側は「ただ他人に強く非難を浴びせ、優位性を保ちたいだけ」なのだ。
極論、ただの愉快犯でしかないので、当然会話が成立しないし、ディスカッションを重ねるほど徒労感しか生まない。

なぜなら、相手のリクエストにいくら応えようとも、相手の望むゴールがそれじゃないから。

***

 僕はある時「他人を支配したがる人たち(ジョージ・サイモン著)」を読んだ事で、そう言う人たちの持つ心理がわかり、具体的に対策を練ることで、難を逃れることができた。

徹底的に相手にしないようにし、周囲のテンションと関係なく自分の機嫌を取り続ける事に集中したのだ。
相手が同調を求めて飛ばしてくる他人の愚痴なども、完全にスルーした。
翻弄されていない、という姿勢を強調し続けたのだ。

結果的にその人たちは僕を攻撃対象から外し、どこかへ消えていった。

***

 こういった人たちは得てして依存心が強く、自分に起こった事に対し、常に外側のせいにして周りにイライラをぶつける。

イライラにまんまと乗っかってしまうと、それが同調であれ反論であれ、格好の餌食にされてしまい、その後も標的とされてしまう。

そんなことが原因で、脳のリソースを大幅に割かれてしまうのは不毛だし、貴重な時間の無駄。

 本当の恐怖は「他人の振る舞い」ではなく「他人のことで頭を悩ませてしまい、心を無駄に浪費してしまうこと」。

 だからこそ僕は、改めて「他人のせいにしない」=逆説的に「他人にコントロールされない」という軸を据えて生きていこうと思っている。

今日はこんなところで。



貴重な時間の中 読んでくれてありがとうございます。 「スキ(いいね)」は非会員ユーザーさんもできるので、 押してくれるとすごく励みになります。 そしてぜひ大阪に来た際は COPY HOUSE へ!🏡