「いつもやめようと思っていた」でもやめなかった20代の仕事!
僕は20代の頃「PAミキサー」を目指していた。
「PAミキサー」と一言にいわれても、どんな仕事か分からない人がほとんどだと思う。
コンサート・イベント等で音響、すなわち音を調整する専門スタッフのことで、「Public Address」大衆伝達「大勢の人に音楽を聞かせる音響設備の意味」を示すようである。
僕は特にロックと言われる音楽が好きで、将来的には客席の真ん中で、ミュージシャンが演奏する音をミキシングし観客に聞かせる「メインミキサー」と言われる仕事にあこがれていた。
音響のスタッフには、観客に聞かせる音をまとめるミキサーが「メインミキサー」と呼ばれ音響スタッフの責任者であり、次が「モニターミキサー」であり、演奏者の足元に置かれているスピーカーの音を、それぞれが演奏しやすいバランスでミキシングする役目で、ミュージシャンにとっても重要な役割を担っていた。
そして、当時「ステージマン」と呼ばれた僕の担当と言えば、それ以外の全ての雑用をこなすのが仕事であった。
雑用の量はハンパでは無く、搬入・搬出・機材の積み下ろしから1台100Kg程あるスピーカー(後SP)の積み下ろし、SPとアンプの結線、100回線程もあるマイクのつなぎ込みとセッティング、ステージ内でのトラブルの対処等、要するにメインミキサーとモニターミキサーの仕事以外は全て
「ステージマン」の役割となる。
一人でこなせるワケも無い仕事の量であり、理不尽に怒られる毎日であった。
ステージ上に立っていると舞台監督や照明スタッフから邪魔扱いされ、走るとステージ内は危険なので走るな!!と怒鳴られる始末である。
そんな見習い(ペーペー)の頃、とあるミュージシャンの全国ツアーにスタッフとして参加する事になり日々、終わることのない雑務をこなしていた。
そのミュージシャンの本職は俳優で、当時コンサートも年間60本程こなすボーカリストとてしても一流の人物であった。
初めてのコンサートスタッフとして全国を周る喜びはあったが、先輩から言いつけられる雑用は相変わらず多様であり、そこは「封建社会」のナゴリであった。
「アーもう無理」と何度弱音を吐いたことか・・・
あびせかけられる「罵詈雑言」にステージの陰で泣いた事もあった(大の男がである)
今回の仕事でやめてやる!絶対に!!
心に誓いつつもまだまだ続く、ツアーの行く先を恨んでいた。
そんな矢先、チーフから新しい指示が・・・
「3階までボーカルが聞こえていてるか、本番中に客席を廻って報告しろ」 とのこと。
つい先日まではステージ内でトラブルが発生した場合、いかに素早く穏便に機転を利かし対処するかが一流のステージマンなのだと、と酒を飲みながら酔った目で説教されたばかりなのだ。
「一瞬たりともステージから目をはなすな!お前の目は節穴か?だからお前はダメなんだ・・・・バカ!!」
酔った目で説教と人格否定までされた矢先である。(いまなら100%パワハラ)
僕は酔っぱらいのタワ言かと思いつつも「ハイ」と答える以外、選択肢はなかった。
そうしているとある日、大事件が起こった。
丁度、会館中の音を聞きに回っていた矢先、ボーカルがアコースティックギターで弾き語りをする場面で、ギターの音がでなかったのだ。
考えられる原因として、楽器側のトラブルか音響サイドの回線トラブルであるが、原因は音響側にあった。
運が悪いことに僕がステージに戻ろうと移動している最中に発生し、ステージに到着したころには、モニターミキサーとローディー(楽器担当)で対応し、僕はトラブルが起こっていた事すら知らなかったのだ。
大失態で、昔なら間違いなく「切腹」ものである。
なぜ大事なタイミングで持ち場を離れたのかと問いつめられ、客席の音を聞いて廻っていたと伝えると、トラブルが起こりそうなシーンの前に必要があるのか、状況が把握できていないと散々である。
確かに言われる通りである。
ショックだったのは、音響チーフもホローすらしてくれなかったのである。
誰も自分の仕事を評価してくれず、見てくれていない現実に、そのまま新幹線で大阪に帰ろうかと真剣に考えていた。
そんなササクレタ気持ちで仕事をする毎日だったが、ある日コンサートのプロデューサー(以下先生)という最高にお偉い方が来られた。
リハーサルも一通り終わり、僕が一人ステージで作業をしていると客席に
来られた先生が、なぜか僕に声をかけて下さった。
「君は何をやっているスタッフですか?」
「ハイ、PAです。」
「なるほど!!それでは、将来はミキサーになるんですね!その時また会えたら声をかけてくださいね!」
うろ覚えであり先生からすれば特に意味は無く、こんな会話をした記憶があるが、なぜかとんでもなく後ろめたい気持ちになった。
その日の打上げは、先生も来られており特に盛大に催された。
私は遠慮がちに座り、当時まだあまり飲めなかった酒を舐め、先輩の話に相槌を打っていた。
宴も終盤になり締めの挨拶として、先生が指名された。
最初は観客席中央でステージを眺めていたが、外の空気が吸いたくなり、
3階ロビーで休憩していたところ、必死に階段を駆け上がる若いスタッフの姿をみた。
最初はトラブルでも発生し、カケ上がって来たのかと眺めていたがどうも様子が違う、どうやら音を聞きながら走り廻っている事に気付いたそうだ。
声をかけたかったが、どうやら僕は「必死の形相」だったようだ。
「彼のPAスタッフとして音を隅々まで伝えようとし、プロとして責任ある仕事をしてくれている若いスタッフがいるこのコンサートは、間違いなくお客様にも伝わっているはず、安心しました。」
と締めくくってくださった。
(30年以上前の話なので、記憶の範囲で・・)
このプロデューサーの方とは、2023年11月に亡くなられた
「伊集院 静先生」である。
僕はこの後、実家の事情で帰阪するまでの約10年間、PAのミキサーとして様々な出会いの中で、仕事をし酒を飲んだ。
いつか出会えるだろうと思っていた伊集院先生には、それ以来お会いすることは無かった。
先生への想い出は、我が家の本棚に置かれたままである。
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