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読んでない本の書評42「恐るべき子供たち」

94グラム。ある地域に次々と危険な性質をもつ子供が生まれて一帯が大混乱におちいる怪奇小説かな、と思ったら意外にも結構おしゃれな小説。おまけに子供も出てこない。

 虚弱体質を理由に教育も途中でやめさせ、仕事もさせず保護者もないまま金だけ与えてぶらぶらさせておいたら恐るべき子供たちが仕上がった、と言われても、そりゃだいたいそうなるでしょう、と思うのではあるが、それはさておきサクマドロップの缶をひっくり返して好きな味を探すがごとき魅力的な文章である。

 好きなもの、したいこと、感情のままふるまうこと、で彩られている呪術みたいな文章を読んでいると思いだすのは、子供の頃は寝るときに電気を消したら寝付くまで、暗闇の中で天井を眺めていてとても楽しかった、ということだ。
  今や眠る直前までラジオを聞いたり、本を読んだりしていなければいられない身になってるみると、ほとんど奇跡みたいな気がする。あの頃は頭の中にサーカスのような世界が丸ごとひとつ入っていて、そこで遊んでいる時間は素晴らしく楽しかった。

 それから、もうひとつとりわけ思い出すのは、そのころは年子の兄も同じ部屋ですぐ隣に布団を並べて寝ていた、ということだ。自分だけの世界にいながら、そばに人がいることを嫌だとか邪魔だとか思った記憶はないのは、たぶん、子供のころの彼とはあの闇の世界を分かち合えていられたのだろう。
 大人になってから過去を振り返れば、性格も振る舞いも全然違う人である。もっとも主観的な部分を分けあえる間柄とは思えないのだけれど、ある時点まではほとんど自覚せずに共有していたに違いない。どこかでお互いその世界を出て、それぞれ別々に凡庸な人間になったんだろう。
 今やほとんど接点もない人と未分化な人格を共有した時代があると認めることは、なんだか妙な不安と不吉な感じを覚える。ジャン・コクトーが文章の中に匂わせているように、それ自体がなにか死に近い性質を持つものだからなのだろうか。

 いやいや、ジャン・コクトー色の眼鏡なんかで気取るのはやめて考えてみるとしよう。ずいぶんバカバカしい子ども時代だったはずだ。トンボのしっぽをちぎって草の茎をつめて飛ばしたり、どちらが電気の紐をひっぱるかで延々と言い争ったり、プロレスごっこで鼻血出したり。
 ポールとエリザベートのように家政婦さんが淹れる目覚めのカフェオレも、寝床の中で半裸で読みふける本もない、実に散文的で美しさと思慮の足りない幼年期だった。
 でも「恐るべき子供たち」が魅力的でありながら居心地悪くざわざわするのは、そんなみっともない幼年期でさえも、あの楽しかった暗闇ごと破滅思考のほうへ引っ張られるポテンシャルが実際あるからだろう。
  寝付くまでのあの夜のメリーゴーラウンドにはどんな幻想がのっていたのだったか。まったく思い出せないのは惜しいことではあるけれど。我々は、夢のようなメリーゴーラウンドと引き換えに、たまたま凡庸になりおおせた側の「子供たち」だったのだ。

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