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ジェイラボワークショップ第57回『能力主義について考える』【哲学部】[20230529-0611]部長総括#JLWS

今年度からWS後に部長総括として各部の部長がnote記事を作成することになりました。
ジェイラボのメンバーの方々とはコミュニティ内でリアルタイムにコミュニケーションを取れますが、note記事としてWSのログを読んでくださった方とはリアルタイムのコミュニケーションを取るのは難しいので、部長総括を読んでいただくことで実際のジェイラボワークショップの温度感を少しでもお伝えできれば幸いです。
それでは前置きはこれくらいにして本題に入っていきたいと思います。


今回のWSは今年の3月から哲学部内で輪読していたマイケル・サンデル著「実力も運のうち 能力主義は正義か?」を元に各部員が物語を作りそれを繋げて一つの物語にして投稿し、そこに加えてアンケートを使用したりしながらジェイラボのメンバーとコミュニケーションを取っていくという形式で進行しました。

また、今回のマイケル・サンデル著「実力も運のうち 能力主義は正義か?」の輪読は部長の私ではなく部員の方に司会進行していただきました。その中で感じたのはジェイラボで取り組んでいるテキストベースで輪読を司会進行することは普通難しいことなのだろうな、ということです。

ジェイラボができてから今年で5年目ですが、1年目から今までずっと主なコミュニケーションのツールはテキストです。そのテキストの内容もWSのログを見ていただければ分かりますがかなり抽象的な内容を扱うことが多く、日常で普通に生活する上でそこまで高度な抽象思考は必要ありません。

そんな必要のない事をなぜするのか。

念のため断っておきますが、私は高度な抽象思考を用いながらテキストベースでのコミュニケーションを取れることが偉いだなんて全く思っていません。
むしろそんな能力は日常のコミュニケーションをとる際に邪魔になるくらいだと考えています。

そして人は、そんな抽象的な思考を用いながらコミュニケーションをするよりも身の回りの普段の生活の方が楽しいのです。
もちろん抽象的な思考それを自分一人でしている分には楽しいと言える要素もあるかもしれませんが、他者にその思考を開示したりそれを用いてコミュニケーションをとろうとすればその思考の穴や他者への伝わらなさを否が応でも見なければならず、それは苦痛なのです。

言語にできることは何なのでしょうか。
これからの時代、美しい言葉、立派な言葉、感動するような言葉、それらは言葉単体としてはどんどん価値が無くなっていくでしょう。
いや、もう既にこの私達の社会には言葉が溢れ返っています。
そして溢れ返ったその上をまたAIが上書きしていくのかもしれません。

私がこのジェイラボで伝えたいのは畢竟、言葉ではないのでしょう。
伝えたいのは意志なのです。
また、伝えてほしいモノも。

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