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ジェイラボワークショップ第33回『数学の認知科学(前半)』【哲学部】[20220620-0703] #JLWS

今回は哲学部WSは、ジェイラボ数学部と合同で行なった「数学の認知科学」G.レイコフ/Rヌーニェス著の輪読の内容をベースに、ジェイラボ哲学部/数学部の合同でWSを行った内容のログとなります。

数学の認知科学の輪読とWS司会は私、イヤープラグさざなみさん、Hirotoさん、ていりふびにさんの4人で行いました。
またこのWSログは前半部分となるため、前半担当の私とイヤープラグさざなみさんの語り部分までの内容となります。
後半は第34回WSログでお読みいただけます。

物語の部分に★印をつけておきましたので、★だけを読めば物語部分は読めるようになっています。
それでは早速ログに移ります。

Day1

■コバ

おはようございます。本日から4週間を通して哲学部(前半2週間)、数学部(後半2週間)の合同でWSを行います。
文章は今晩から投稿致します。よろしくお願い致します。

★コバ

はじめに
今回のWSは哲学部数学部合同で昨年の12月から行ってきた「数学の認知科学」G・レイコフ/R・ヌーニェス著 の輪読(以下、SP輪読とする)の内容をベースに行っていきます。SP輪読は私、Hiroto君、さざなみ君、ていりふびにさんの4人で行いました。
このSP輪読が始まった当時、哲学部含めどの部活も稼働人数が今よりも少なく、部活動全体の状況としては混迷期であったように思います。
その当時、哲学部の部員は私とさざなみ君の2人でした。活動そのものをどのように継続していけばいいか迷っていた中、Hiroto君から提案いただいた「数学の認知科学」を一緒に輪読させていただき、部活動運営が座礁しかけていた私は大変助かりました。Hiroto君、並びにご参加いただいたさざなみ君、ていりふびにさんにこの場を借りてお礼申し上げます。また、このSP輪読は社会人2名、学生2名で行いました。そして私に関しては数学はズブの素人です。
ジェイラボが存在しなければ出会うことが無かった4人による「読んで、質問できて、語り合える、リアルタイム進行のミニ版数学の認知科学」をこのWSで皆さんと一緒に作っていく、そんなWSにしたいと考えています。
ご参加いただく皆様も、もし気になる点、分からない点、語りたい点、WSの司会者に問いかけたい点があればご自由に投稿ください。「筆者と対話しながら読める本」のようなイメージでWSを構成していきたいと考えています。
また第I部とは、コバ担当週のことで、章はその日ごとの語りの主題となっています。それでは皆様よろしくお願い致します。

★コバ

第I部 数学に対する哲学的考察
第1章 「数」という概念
日々、我々は「数」に囲まれて社会生活を行っている。
自動販売機でジュースを買う際は小銭を財布の中から必要な分数え、レストランの予約をする際は何人で利用するかを伝え予約を取る。社会人の方であれば日々数字に追われながら仕事をしているかもしれないし、学生であればテストの点数を日々気にしているかもしれない。
このように我々の生活と「数」は切っても切り離せない関係なのだが、それでは皆さんはその「数」がどこから来たのか考えたことがあるだろうか。「スービタイズ」という能力がある。全ての人類は文化や教育に関わらず目の前に出されたものが1つなのか、2つなのか、3つなのかを一瞥で即座に見分けられる。この能力はラテン語の「突然」を意味する語に由来して「スービタイズ」と呼ばれている。
このスービタイズは新生児の時点で備わっており、表出される部分での「数」に対する認知のスタート地点はこの「スービタイズ」と言えると私は考える。我々人類は新生児の時点で1と2を区別できる、つまりこれは「自分と他者」を区別できることを意味する。では、もし「数」という概念が人間の認知に存在しなければ人間社会はどのような社会になるか。
皆様も一緒に考えていただきたい。

■コバ

それではここでQ1です。
Q1,もし「数」という概念が人間の認知に存在しなければ人間社会はどのような社会になるか。クエスチョンのアンサー以外でも「はじめに」で書いたように、気になる点、分からない点、語りたい点、WSの司会者に問いかけたい点があればご自由に投稿ください。
※補足:今回の私の論の前提としているのは、最初の人間をアダムとイヴとする聖書の世界観ではなく、700万年前に地上を直立二足歩行していたとされる猿人を最初期の人類とする考え方です。
またQ1の文章は「人類そのもの(最初期の段階から)の認知に、もし「数」という概念が存在しなければ人間社会はどのような社会になるか」という意味です。

■Tsubo

「ものを数える」という行為は具体を離れ抽象へと歩みをすすめる第一歩であり,その根幹となる「数」がなければ人間社会の根幹たる抽象的思考も成り立たず,故に人間社会というか思考全体が存在しなくなるんじゃないんでしょうか.「サピエンス全史」でも人間が他の動物と袂を分かった原因は「“神話“を信じられること」,つまり具体を離れた抽象的存在があるということを信じられることだみたいなこと言ってましたし.

■コバ

コメント一番乗り、ありがとうございます。
私もTsubo君と同じように、もし「数」という概念が存在しなければ、思考そのものが成り立たない(正確には存在しない)と考えています。
なので、もし「数」という概念が存在しなければ、論理学も存在しないと私は考えます。

■Tsubo

うーん,でもその要素に「数」という概念がなくとも記号論理学等の領域は成立可能なのか.
情報界隈では「もしGCC(一番用いられているC言語のコンパイラ)がいきなりこの世から消えたとすると,Cのコンパイラをどう構築し直すか」という有名な問題があるんですが,もしこの世からいきなり「数」という概念が消え去ったとすると,論理学等からどう「数」という概念を定義しなおせばいいのか考えてみると面白いかもしれません.僕もなんとなく考えてみます

■Tsubo

数学部の皆さんに質問なんですけど,なんらかの要素をたくさん含んでいる集合が「数」の集合である(どの数かは実数でも複素数でも四元数でもなんでもいい)と言えるためにはどんな条件が必要なんでしょうか(用いている用語が正しいか,伝わるか不安ですが).なんとなくその集合間の要素間で大小関係が成立するとかは必要な気がします.
あ,そもそも人間が発明した「数」にはどれだけの種類があるんでしょうね.って思ったらウィキペディア先生に「数」という記事があった.

■Hiroto

実は、「数」の定義なんて掘りまくると存在しないことがわかります。
数と呼びたいものをその都度定義する(複素数を数と呼ぶこととする、など)ことはできますが、究極的には数(と皆が呼ぶもの)も集合論の範疇では全て集合なので、ほかの対象と区別ができません。全てが集合である、というのはいまいち受け入れられないとは思いますが、4週目に僕がそこを深掘りする予定です。

■Tsubo

他の対象というのは、例えばどんなものがありますか?(4週目に詳しく説明頂けるんでしょうけど)

■Hiroto

関数(写像)、関係(順序など)、自然数全体の集合(これは自然数そのものではない)
などですかね。

■Tsubo

ほ〜なるほど,それらと一緒なのがやっぱりよくわかりませんな.4週目を楽しみにしておきます.

■チクシュルーブ隕石

数という概念がなくなってしまったら物々交換さえできないために他の動物と近いような生活をしていたと思います。人間自体が他者の存在を前提とした生き物である以上他者と交換が禁止されてしまうと人間が人間である必然性すら失ってしまうと思っています。当然「数」という概念が無いためにお金というものも存在しないので、現在の社会の基本となっているお金の存在しない世界となってしまう気がします。
また、やや感想寄りですが「数」という概念があるからこそ自分と他者を認識する事ができるという点が面白いと感じました。これによって家族というものの在り方がどう変わるかに興味があります。

■コバ

数という概念がなくなってしまったら物々交換さえできないために他の動物と近いような生活をしていたと思います。

上記の点について、私もそう考えます。

家族というものの在り方がどう変わるかに興味があります。

家族を絡めて考えるのも、切り口として非常に面白いと感じました。
もしその考えが隕石君の中でまとまったら、その時は是非私にも共有してください。

■Daiki

数」がなければ、比較出来ず、違うという現実があるだけなので、「偏見」も無い社会なのではないかと思いました。

■コバ

偏見も無い世界になると私も思います。(それが良いことかどうかはまた別のお話)

■蜆一朗

虚数は存在しない」という話がよくありますが「自然数は存在しない」というとピンとこない方も多いと思います。「3は存在しない」と言われたって「いやだって3人組とか3歳とかあるやん」という感覚になるのが普通でしょう。実はかなり抽象的な概念であるはずの数は、我々がそれにあまりにもなじみ過ぎているために、かなり具体的というか親しみやすい存在になっています。そのため「数のない世界なんて考えられない」というのが率直な感想であり「我々が考えたところで数のない世界を正しくとらえることはできない」のかなと感じます。それほど数というのは人間の中心をなす概念であると思います。これだと答えになっていない笑ので、ちょっと考えてみたところ野生動物の生態系のような社会になるんじゃないかという気がしました。

イルカの超音波のようなコミュニケーションや、弱っちい生物が集団で動いたり周囲の環境に体の色や形を近づけたりといった「知恵」を持つのを見て、彼らは賢いなという感覚になることが多々あります。抽象とか思考とか言語とかいうものがなくても、このような知的な活動や変化を起こすことはある程度ならできるのだろうと思います。しかし、このような能力を身につけるためには、それこそ何百万年・何千万年レベルの年月をかけて少しずつ遺伝子の情報を組み変える必要があっただろうと想像します。たとえば、いずれバッタ界に奇跡的な進化が起こって、バッタたちがバッタ語を話したり積分したりする日が来る可能性は0ではないでしょう(考えただけで恐ろしいですが笑)。それこそ荻野先生みたいなバッタが現れるかもしれませんが、今生きているバッタたちは夏期講習ベホマズンが開催される日には全滅しています。ものすごく大局的な目で見れば変化が起こり得ても、基本的には遺伝子的に組み込まれた予定調和の中を動くだけになるでしょう。人間が抽象的な思考や言語を手に入れたことにより発展や進化の速度を著しく上げたこととは対照的だと思います。

隕石君も言っているように「数という概念があるからこそ自分と他者を識別できる」というのはすごく面白いです。たとえばチンパンジーや一部の鳥類は1から10まで数えるくらいならお安い御用であり、なんと位取り記数法を理解している生物もいるようです。しかしそれでもやはり彼らが積分する日が来るとは到底思えません。彼らの「数」の捉え方は我々の認識とどう違うのかなんてことを考えてみると面白そうです。

■コバ

我々人間が「数」として認識している「それ」を確かに動物達も認識し、活動しているようですね。
私は初めてそれを知った時は驚きました。動物の「数」の捉え方と我々の「数」の捉え方がどう違うのかは大変興味深いですが、それを明らかにするのは相当骨の折れる研究になりそうです。

■シト

赤ちゃん言葉と成長した人間の言葉のような違いが数がないことによって生まれそうな気がしています。意味が定まっておらず音に様々な意味を込めて発するのが赤ちゃんの言葉(喃語)です。成長するにつれてその言語は失われ、特定の意味を持ったものになっていきます。個人的には、数がなくなった場合、赤ちゃんの言葉的な社会になると思いました。簡単に言うと、ほかの動物のような社会です。あまり具体的ではないですがよろしくお願いします。

■コバ

「赤ん坊」という視点は非常に重要であると思います。喃語は生後6ヶ月くらいから始まりますが、幼児はそれと丁度同じくらいの時期から自分の姿が鏡に映っていることに特別の関心を示します。(鏡像段階)
この時期が同じくらいの時期であることは、ただの偶然ではないと私は考えます。つまり、喃語が始まっている幼児には既に「数」の概念が備わっているのではないか、と考えます。

■シト

言葉が足りなすぎた気がしているので追記します。数は抽象化の極限だと思っています。なので数がなければ、そのような抽象力を持たない生物となると思った感じです。

心理学でそれを習ったのを思い出しました。当時はそうなのかという感想しかなかったですが、その考えは面白いなと思います。

■Takuma Kogawa

回答ではなく感想です。アダムとイブが作られてから数の概念が生まれなかった世界線(この現実世界からいきなり数の概念がなくなるということではない)を考えよということでよろしいですか。
数の概念がないと現在の人間の姿が成り立たないというような意見が、かなり飛躍を含んでいるように思えて感覚的にもよくわかりません。人間でなくともある動物種が、現在認識している数とは異なる「数」の概念が生じたのではないかという予想あるいは希望が捨てられません。

■コバ

ご指摘ありがとうございます。まず今回のQ1、また私の論の前提としているのは、最初の人間をアダムとイヴとする聖書の世界観ではなく、700万年前に地上を直立二足歩行していたとされる猿人を最初期の人類とする考え方です。また私の文章の書き方だと
①人類そのもの(最初期の段階から)の認知に、もし「数」という概念が存在しなければ人間社会はどのような社会になるか。なのか
②今、もし突然「数」という概念が人間の認知に存在しなくなれば(つまり消失すれば)人間社会はどのような社会になるか。が判別しにくいと気付きました。
これは補足として文章に追加させていただきます。
重要な視点へのご指摘ありがとうございました。

■あんまん

なぜ人間が数の概念を発明したのか想像してみると、交易や売買を正確に行うためなんじゃないかと思いました。人間の文化がまだあまり発展していないときは、モノの個数が多くなく、数える必要性がなかったのではないかと思います。即ち、モノの個数を「多い」と「少ない」で表していたのかなと。人間の文化が発達するにつれて、モノの交換をする機会が増えた。その時に、正確さを求めたため、数の概念を発明したのだと思います。冒頭の質問に戻りますが、数の概念がなくなったら、多い、少ない、a few ,some, manyなどの形容詞がその役割を補填すると思います。ただし、その基準は主観的なものであって、正確さは失われています。

■コバ

1なのか2なのかを判別することと、少ないか多いかを判別することは確かに別次元の認識であると私も考えます。

a few ,some, manyなどの形容詞がその役割を補填すると思います。ただし、その基準は主観的なものであって、正確さは失われています。

正確さについてですが、当人がa fewをa fewと認識することは「正確」であると思います。
しかしa few が1なのか2なのか3なのか、それを他者と共有する段階でa fewが「正確ではなく」、特定の数字が「正確である」ということになるのだと思います。

■Naokimen

「自分と他者」を認識することが1と2を区別できることを意味するとするならば、「数」という概念がない世界は自分以外がぼやけていて存在を認識できないというような世界になると思います。なぜなら、自分以外のものが認識できたらその事態で数という概念が必然的に生じてしまうからです。
また、それは時間に対しても同じで、過去から未来への時間の流れを認識できないのではないかと思います(過去と未来を認識した時点で2という数字の概念が出てくる)。
以上をまとめると時間・空間的にぼやけた世界になるということです。
ただ、このような予想は既に数の概念がある我々人間からの視点での予想であり、我々から数という概念を離すことができない以上、正確なところは原理的にわかりようがないと思います。

■コバ

また、それは時間に対しても同じで、過去から未来への時間の流れを認識できないのではないかと思います(過去と未来を認識した時点で2という数字の概念が出てくる)。

時間に対する視点、ありがとうございます。
私も「数」という概念が人間の認知に存在しなければ時間の流れを認識できないと思います。

■YY 12

人間は各々で個数を識別できるうえで、さらに誰かが「いち」や「ワン」のように名称を付けてくれて今の「数」という概念があるのだろうと思います。そう考えれば、動物は数を理解できるといっても、原初的に識別される数と普段の感覚で使っている「数」は、「抽象的かつ言葉として広く共有されている」という点で大きく異なるといえます。もし、原初的に数の識別さえ出来ないなら、それはNaokiさんが言うように全くもって未知の世界だろうと思います。一方、原初的に数の識別は出来るが、抽象的かつ言葉として広く共有されている「数」がない世界の場合。これは時間の経過と共に誰かが「数」を発明して、時を経てまた今のような世界になるんだろうと想像できます。

■コバ 

原初的に識別される数と普段の感覚で使っている「数」は、「抽象的かつ言葉として広く共有されている」という点で大きく異なるといえます。

私もそう思います。言語としての「数」は人の発明の範疇だと思いますが、原初的に機能付けられている数の認識の根源を突き詰めると、人智を超えた範囲になってくると思います。

■ゆーろっぷ

Qに対する答えというよりはとりとめのない感想という感じですが、一応投下しておきたいと思います。結論としては蜆さんの考え方に近いかもしれません。また、捉え方(分類方法)としてはYYさんとほぼ同じです。
ヒトは、たとえ言語を一切知らない新生児の段階であっても、「1つ」「2つ」「3つ」「それ以上の量」を認知的に区別できるということは聞いたことがあります(スービタイズという名前がついていることは初めて知りました!)。おそらくですが、この能力は生物学的な起源を持つものであり、数の概念が──ごく少量の数という、非常に限定された意味においてではありますが──生得的な観念であることを示すものなのではないでしょうか。その意味で、生物種としてのヒトを考えたとき、数概念を持たない「ヒト」はもはや「ヒトではない何か」であり、その認知的世界を「想像する」ことは我々には不可能であろうかと思います。
以上を踏まえた上で、考えたい問題としては、「数概念を持たない『ヒトではない何か』の社会はどのようなものになるのか、そもそも社会を作ることなどできるのか」といったことになります。これは多分アナロジーで考える他ないと思いますが、予想としては、視覚系以外の感覚──聴覚や嗅覚、触覚など──に優れた社会性動物種のような社会を構成することはあり得るのかもしれません。視覚以外としたのは、「自分」と「相手」を認識する(これはおそらく数概念の理解の基本になる)ためには視覚に頼らざるを得ないと思われるからです。逆に言えば、視覚優位である限り、「ヒト」が数概念から離れることはないのではないでしょうか。本題からは逸れるかもしれませんが、より考えやすく現実的な状況として、「数を認知すること自体はできるが、それに対応する「言葉」を持たない」という人間を考えることもできるかと思います。実際──これすら私たちには想像できないことではあると思いますが──「1」という言葉、記号すらその言語文化の中に持たない民族がいるようです。もう少し付け加えれば、数量のうち「量」を表す言葉(多いとか少ないとか)はあるが、「数」を正確に表す言葉(1とか2とか3とか)が存在しないそうです。そのような人々も、小さいながら集落を作って暮らしているので、社会を作ること自体は可能なのでしょう。しかし彼らは、「ものを正確に数え、記憶する」ということに関して困難があり、また、数というものに依拠した「時間」に対する認知的な解像度も低くなることが分かっています(実際、数を持たない人々の年齢の感覚は曖昧らしい)。ゆえに、現代のような社会(大規模な交換経済社会)を作るためには、スービタイズを超えた数概念を後天的に獲得する必要があることは間違いないでしょう。(以下余談)
スービタイズは言語の発生にも大きく影響しているのかもしれません。たとえば、多くの言語で一人称、二人称、三人称を表す言葉がありますが、これはまさしくスービタイズのシステムに対応したものであるような気がします。

■コバ

大枠としては私もゆーろっぷ君と近しい思考に達しました。

予想としては、視覚系以外の感覚──聴覚や嗅覚、触覚など──に優れた社会性動物種のような社会を構成することはあり得るのかもしれません。

この観点は、私が「植物」をイメージした観点に近いと感じました。

Day2

★コバ

第2章 自己から他者へ
我々は日々「数」を多種多様な場面で用いながら社会生活を営んでいる。
ルール、慣習、コミュニケーション、学習、どの場面においても「数」が存在しなければ、それは成立し得ない。
ゆえに「数」という概念が人間の認知に存在しなければ、我々が日頃生活している「社会」とはかけ離れた世界になる。そしてそれはもはや「人間社会」とは言えないモノだろう。
具体的に言うと、動物でありながら植物のような生態になると私は考える。
つまり、植物が根を張ったその範囲で生きるように、動物でありながらその身体の及ぶ範囲で生命活動を営み続ける、そんな生態になるのではないだろうか。ここでQ1に対して思考した際の、私自身の思考の流れを記述していく。思考の流れとしては、自己の認識から、他者の認識への拡張、という流れとなった。
というのも『「数」という概念が人間の認知に存在しなければ』というのは、自分の認知にも存在しないし、他者の認知にも存在しない、ということである。
それを考える際、まずは自分自身から自ずと思考はスタートする。つまり、自分が「数」を用いてこの世界を認識している事実からスタートし、その「数」を用いてこの世界を認識している自分から、「数」という概念を消してみる。そうすると、あまりに自分は多くの事物を「数」という概念と関係しながら認識している。そして、それがなくなる。その「数」という認識が存在しなくなった自分を起点として、アナロジーで他者の認識からも「数」という概念がなくなった世界を想像する。このような思考の流れで私はQ1を思考した。
皆さんはどうだっただろうか。

■コバ

それではここでアンケートです。

「数」という概念がどのように人類の認知に発生したのか(つまり、数はどこから来たのか)考えたことが
ある 1
@Hiroto
ない 17
@Naokimen, @Shun, @YY 12, @シト, @Takuma Kogawa, @あんまん, @Daiki, @Tsubo, @蜆一朗, @チクシュルーブ隕石, @ゆーろっぷ, @Yujin, @ていりふびに, @イヤープラグさざなみ, @イスツクエ, @chiffon cake, @ジパング

■あんまん

ちょっと僕も補足します。私の考えていた「概念」の記号内容が数人の方々の考えていたそれと齟齬があったので記しておきます。その方々が概念という記号表現を使う時、その記号内容は、私が考えていた「観念(idea)」に近い気がします。私にとってあるモノが概念として認識されるためには、そのモノが言葉で規定される必要があります。『言葉での意味の固定=概念の成立』に近いかもしれません。一方、観念は原義のイデアないしはアイデアのように「考え」を表します。この考えのもとではあるモノに観念が存在することが、そのモノに概念が存在することの必要条件となっており、十分条件とはなっていません。
ちなみに私も、もし「数」という「観念」が存在しなければ、と問われれば思考そのものが成り立たないと考えます。

Day3

★コバ

第3章 人類による「数学」の構築

・数学は人間の集合的想像力の偉大な成果の1つである。それは2000年以上にわたり数百万人もの献身的な人々の共同によって築かれてきたのであり、今もなお何十万という科学者、教師、日常的に数学を使う人々によって維持されている
(「数学の認知科学」より抜粋)

その弛まぬ努力、成果を築き上げた原動力の1つとして私は「閉性」をあげたい。
以下、「閉性」について「数学の認知科学」より抜粋である。

・ある数の範囲について、その中に含まれる任意の2つの数にある演算を施した結果、得られる数が常にその範囲内の数であるとき、その数の範囲はその演算に関して「閉じている」と言う。
・閉性の概念は数学のどの分野にとっても中心的であり、新しい数学を作り出す推進力である。
・0と負の数は加法(の逆演算)の下での閉性に必要とされ、有理数は乗法(の逆演算)の下での閉性に、実数は自乗(の逆演算)の下での閉性に、そして複素数は負の数の平方根に伴う閉性にという具合に、それぞれの閉性に必要であった。

しかしその「閉性」への衝動を満たすのには必要とされない概念も存在する。例えば「無限小実数」である。

・「無限小実数」は基本的な代数方程式を解くのに不要である。閉性への衝動を満たすのには必要とされないのである。
・さらに、無限小実数にはある種の汚名とも呼べる性質がある。後者作用素による自然数の構成「1から出発して次々と1を加えること」に基づいたのでは、ある種の無限小の逆数である無限大整数には到達できない。これは多くの人の直感に反することである。数え上げることのできない「整数」がどうして存在し得ると言えるのか。「無限小」の存在を認めないならば、この問題に直面しなくてもよい。
(「数学の認知科学」より抜粋)

これらが、無限小が一般には教えられていない理由の一部であると「数学の認知科学」では述べられる。
一般的に、人々の共通の認識のもとに「数学」は存在すると考えられているが、「無限小」のようにその一般の共通認識からはみ出している概念が存在するならば、それこそ『一般に周知されている「数学」とは違った「数学」の世界』の存在もあり得るのではないだろうか。

では、その『一般に周知されている「数学」とは違った「数学」の世界』とはどのような世界か。その世界の広がり方の可能性について4章では述べていく。 

■コバ

本日は新規のアンケート等はありませんので、今日までのクエスチョンやアンケートに引き続きお答えいただけましたらと思います。またその他今回のWSの内容について気になる点、分からない点、語りたい点、WSの司会者に問いかけたい点があればご自由に投稿ください。

■Naokimen

数学よりの質問で申し訳ないですが、第3章の内容について2つ質問があります。
・「「無限小実数」は基本的な代数方程式を解くのに不要である。閉性への衝動を満たすのには必要とされないのである。」とありますが、代数方程式を解くということと閉性とのつながりがよくわからないので教えていただきたいです。
・「無限小実数」は閉性への衝動を満たすのには必要とされないものの、突然出てきた概念のはずがなく何らかの動機があって出てきたと思うのですが、その動機はどういったものだったのでしょうか?

■Hiroto

・複素数というのは、「任意の○○係数代数方程式が必ず○○解をもつ」を満たすような○○として、実数を拡張して誕生しました。(歴史的には2次方程式だったとは思います。)
上の鉤括弧の文面こそが、方程式における閉性と言えると思います。解の範囲が係数の範囲で閉じています。
・これは僕の推測も大いに含みますが、よく物理とかで出てくる「2次以上の微少量は無視して良い」的なのを正当化するためという側面はあると思います。wikipediaにもそのような記述がありました。

■Naokimen

ありがとうございます。初めの方に出てきた「2つの数に対する演算に対して閉じている」(群の定義の一部的なイメージ)ということと「代数方程式を解くことに対して閉じている」ということにギャップがあると思って質問したのですが、両者はつながっているのでしょうか?(代数方程式を解くということを演算のようなものとみなす⁉︎)

■Hiroto

閉性は別に演算だけに適用されるわけではないということだと思います。おっしゃる通りギャップは確かにそれ相応にあるとは思います。
最後の解釈は僕の知識ではなんとも言えないですね、、、ごめんなさい。

Day4

★コバ

第4章 数学世界の広がり方の可能性についての考察
論理的に不可能なことはそもそも想像ができない。
例えば、結婚している独身者は想像できない。
逆に空飛ぶブタを想像することは可能だ。
人間の認識の範囲にはどうやら、「できること」と「できないこと」があるようだ。それでは、これを数学の世界で考えてみる。
1+1=3、これは想像自体はできる。しかし、丸い四角形はそもそも想像できない。論理の話から飛んで申し訳ないが、ここでパラノイアという精神病の話に移る。
パラノイアとは、ある妄想を始終持ち続ける精神病のことであるが、パラノイアの症例の記録として有名な著書として「ある神経病者の回想録」という本が存在する。
この本のある精神病患者とはダニエル・パウエル・シュレーバーのことだ。シュレーバーはドレスデン控訴院部長に就任したほどの優秀な司法官だ。しかし、ドレスデン控訴院部長に就任した直後、精神変調が再発してしまい、そうしてパラノイアに罹患した彼の思考の記録として、「ある神経病者の回想録」が著書として残っているのだ。
その著書の内容だが、はっきり言ってわけが分からない。しかし、シュレーバー自身は大真面目にこの著書を書いており、確かにどこか首尾一貫している論の展開を感じることもできる。考えてみれば、哲学書やギリシャ神話もこういった性質があるのではないだろうか。
神話もそれを信じている人々が大真面目に書いた書物であるし、内容自体は現代人から考えると非科学的としても、神話には神話の世界観が一貫して存在するはずだ。また哲学書も、その哲学者独自の用語が使われていることが多々あり、また一般的な感覚とは逸脱している論が展開されていることも多々あるが、そこにはその哲学者独自の思考の体系がその哲学者の思考を根拠として繰り広げられている。
つまり、「ある神経病者の回想録」や哲学書の著者(ギリシャ神話の場合は作成者)の見えている世界は一般の人とはかなり異なっており、それに伴い使用されている「言葉」も一般に使用されている「言葉」と変わっている、という構造があるのではないだろうか。数学の話に戻すと、そういった一般の人とは見えている世界が違う人が築く、独自の数学の世界は存在し得るはずである。
しかし、その射程は人間の認識の範囲内に限られる。それは丸い四角形が想像できないことと同じである。

■コバ

それではここでアンケートです。

Q3:今まで自分が習ってきた「数学」とは違った形態の「数学」の世界の存在の可能性を考えたことが
ある 1
@チクシュルーブ隕石
ない 17
@蜆一朗, @Naokimen, @Yujin, @YY 12, @Hiroto, @Takuma Kogawa, @あんまん, @ゆーろっぷ, @Shun, @シト, @イヤープラグさざなみ, @Tsubo, @イスツクエ, @chiffon cake, @ていりふびに, @Daiki, @ジパング

■Tsubo

Q2についてなのですが,「計算する(calculate)」の語源は昔小石(ラテン語でcalculus)を使ってものを数えていたからだ〜〜みたいな高校数学の教科書に載っていたコラムを思い出しました.Q3についてなのですが,すこ〜〜しだけ読んだ「論理哲学論考」の「思考の限界性」みたいな話を思い出しました.

■コバ

ウィトゲンシュタインは論理哲学論考で言語の限界を明らかにすることによって思考の限界を示そうとしました。
今回の第4章の話で言えば、思考の限界=像の限界と考えていただくと論理哲学論考と重なってくる部分がより明確かと思います。

Day5

★コバ

第5章 数学と哲学の共通点
最後に数学と哲学の共通点を考察し、第I部は締めさせていただきたい。
数学は人工言語、哲学は自然言語である。
つまりどちらも「言語」であるという点をスタート地点として、思考を進めていきたいと思う。

数学も哲学も「言語」であり、「言語」は抽象化すると「記号」である。
つまり数学も哲学も根っこの部分では「記号」であるという部分で共通している。

さて、ここで思い出してもらいたいのが

Q1,もし「数」という概念が人間の認知に存在しなければ人間社会はどのような社会になるか。
を考えてもらった時のことだ。

その時に私は「数」という概念が人間の認知に存在しなければ、その「社会」は「人間社会」とは言えないモノになると言った。
これは人間の認知の根本に対して「if」を投げかけたクエスチョンであった。

そして数学と哲学の共通点に関しては、『数学も哲学も根っこの部分では「記号」である』というところまで述べた。
「数学」あるいは「哲学」が人間の認知に存在しないという「if」を作ったとしても、Q1のアンサーとして私が結論付けたような『その「社会」は「人間社会」とは言えないモノになる』といったような決定的な人間社会の変容(あえて分かりやすく言うなら現在の人間社会と比べての「後退」)には繋がらない。

なぜなら、繰り返しになるが、数学も哲学も根っこの部分では「記号」であり、「数」のように「人間の認知の根本」ではないからだ。
「数学」あるいは「哲学」が人間の認知に存在しなくても、別の「記号」からの派生物が代わりに用意されるだけである。(Q1で考えていただいたように「数」という概念が人間の認知に存在しない場合は、こうは行かない)

そして「記号」とは人間同士の共通了解のためのツールである。「記号」を用いて私たちは認識世界を切り取り、解釈し、集団生活を行なっている。

以上のことから、数学も哲学も人間の認識世界の解釈、共通了解のための1つの「ツール」でしかない、というのが私の考える「数学と哲学の共通点」である。

■コバ

私の語り部分(第I部)は以上となります。

残り2日は引き続きクエスチョンやアンケートに回答いただければと思います。
また、質問や感想等もお気軽にどうぞ。

Day6

■Hiroto

「数学」の本質に記号の運用までを含めているのが、非常に認知科学的だと思います。正直、この本を読んでしても僕は記号表現を(イデア的な)数学のただの表出の仕方にすぎないと反射的に思ってしまいます。これは数学のロマンから抜けきれていない証拠だとも思いました。
面白かったです。素敵な語りをありがとうございました。

■コバ

感想ありがとうございます!

同じ本を読んでも、どういった方向性から解釈するか人によって変わってくるというのがSP輪読の醍醐味でしたね。
そういった意味で私自身非常に貴重な読書体験になりました。
また、SP輪読でなければ私はこの本を読むことは死ぬまでなかったと思います笑
数学の認知科学をご提案いただきありがとうございました。

Day7

■チクシュルーブ隕石

「数」という概念が存在しなければ自己と他者の判別をすることができないという視点は持ったことがあまりなかったため非常に面白い気づきになりました。それに関連して「数」という概念がない世界における家族という話はもう少し自分の中で深掘りして何か面白い気づきが起こったら共有できればいいなと思います。また、数学を数学だけでなく哲学という文脈で考察することに対しては僕も興味があるため今回のテーマはとても興味深い内容でした。数学の認知科学については興味があったため買ったものの今のところ少ししか手をつけられていない状況ではありますが、今回のWSを機に少しづつ読み進めていきたいと思います!
今回は自分が気にしていないところにも面白い発見があるかも知れないと再確認できるような面白いWSありがとうございました。

■コバ

隕石君は勉学に励む時間がこれからまだまだありますので、数学の認知科学も是非読んでみてください。
今後隕石君とも何か一緒にアクティビティ等できればと思います。
「家族」の話は、このWS中でも終了後でもいいので文章まとまったら是非教えてください。

■コバ

それでは明日から司会はさざなみ君にバトンタッチ。
さざなみ君よろしくお願い致します。

Day8,9

■イヤープラグさざなみ

こんばんは、コバさんから司会を引き継ぎました、イヤープラグさざなみです。私の担当週では、本書の内容の核となる概念(容器のスキーマや概念メタファーと呼ばれるもの)を紹介します。皆さんにはそれらの概念に触れることで「数学の認知科学」の雰囲気を感じ取っていただけたらと思います。それでは、よろしくお願いします。

★イヤープラグさざなみ

第Ⅱ部 数学の認知科学
第1章 数学の認知科学
数学には点や直線、集合、虚数、無限、・・・と様々な概念が登場する。これらの概念は全て人間によって創造され、使用されてきた。では、これらの概念はどのように創造され、そして理解されているのか。人間が数学の概念を理解するメカニズムは数学では扱えない。そこで新たに「数学の認知科学」すなわち数学的概念の分析学が立ち上がった。数学の認知科学が一貫して主張することは、「数学とは人間にとっての数学である」ということだ。つまり、客観的な、脱身体化された、イデア的な数学の存在を否定する。人間にとっての数学とはなにか。それは、人間が、人間の脳の認知メカニズムを用いて概念化した数学のことである。以下に並べたのは、認知科学の進展の中で発見された、数学の理解に重大な意味を持つものたちである。① 人間の身体、脳、またそれらの機能の性質が数学を含むあらゆる概念に構造を与えている。
② 数学的思考を含む一般の思考プロセスは無意識下に行われており、それは不可視である。
③ 概念メタファーを用いて、抽象的なものを具体的なものを以て理解する。それではこれらの人間の認知メカニズムが数学の理解にどのように関わっているのか。はじめに「概念メタファー」をそれが使われている具体例とともに見ていこう。概念メタファーは数学の概念分析において最も根本に位置する、最重要概念である。

■イヤープラグさざなみ

(続きは今夜中に投稿します。少々お待ちくださいm(_ _)m)

★イヤープラグさざなみ

第2章 概念メタファー
メタファー(隠喩)は単なる文章表現上の修飾ではなく、人間が抽象的な概念を理解するために用いる基本的な手段である。メタファーは日常的に自然に使われており、その発生源はおそらく多くが子供時代の経験である。メタファーによって架橋されるふたつの概念は構造が共通している。構造が共通しているものどうしは近くにあることが多い。だから、生活の中でそれらを「ペア」として認識するのは自然なことである。数学における概念メタファーの第一段階は、日常生活における経験則を基礎的な数学的概念に対応づけることである。この場合、日常生活における経験則のことを起点領域、対応づけられる基礎的な数学的概念のことを目標領域と呼ぶ。概念メタファーによって基礎的な数学的概念が日常の経験則と対応づけられた後、概念メタファーの第二段階以降によってさらに高度な数学的概念が対応づけられていく。すなわち、第一段階では目標領域であった数学的概念が今度は起点領域となって、さらに高度な目標領域へと対応づけられていくのである。重要な事実は、概念メタファーが何度繰り返されて高度な数学が出来上がったとしても、第一段階のメタファーまで遡れば、その起点領域にあるのは数学ではなく、我々の身体と生活であるということだ。ここでは概念メタファーの例として、「容器のスキーマ」の論理を紹介する。

◎「容器のスキーマ」におけるスキーマとは、英語の前置詞in, on, out などの語の意味の核となるイメージのことを指している。それに対してin, on, out などの語そのものは、スキーマに対するラベリングと呼ばれる。容器のスキーマには内部、境界、外部がある。この三つは互いに相補的である。コップの中に水を注ぎ、その中に氷を浮かべる映像を思い浮かべてほしい。氷は水の中にあるのだから氷はコップの中にある。もしある氷がコップの中に入っていないのなら、その氷は水の中にも入っていない。これらは演繹操作を繰り返すまでもなく明らかである。そしてこのコップを抽象的な容器に、水や氷を一般的に対象X, Y としたものが容器のスキーマである。コップの映像と同様に頭の中で視覚的に理解できるため、容器のスキーマにおける推論は直感的に理解できる。また、容器をコップから抽象的な容器にしたことで、容器同士の交わりや含む・含まれるといった関係も実現可能となる。しかしまだ、「容器のスキーマ」の容器とは空間的な広がりを持つ領域であって、それらの中や外に存在する対象X, Yは空間的な位置を占めるモノである。ここで、「容器はカテゴリーである」という概念メタファーを用いて、容器のスキーマで成り立っていた推論を一般のカテゴリーにまで拡張することを試みる。起点領域を容器のスキーマの容器、目標領域をカテゴリーとすれば、空間内の限られた領域はカテゴリーに、領域内の物体はカテゴリーのメンバーに、領域内のもう一つの領域はカテゴリーの部分カテゴリーにそれぞれ対応づけられる。こうしてコップと水と氷において成り立っていた推論を、一般のカテゴリーにおける推論にそのまま「写す」ことに成功した。概念メタファーの重要な性質は、起点領域と目標領域のそれぞれの要素の対応づけを適切に行うことで、推論構造をそのまま「写せる」ということである。今回は容器のスキーマや概念メタファーといった新しい概念が登場したが、要はコップと水と氷の話である。しかし数学の概念分析をするにあたって、それぞれのプロセスに名前を与えることは必要である。分析するとは、対象に名前を与えることである。

イヤープラグさざなみ

概念メタファーは本書において最も重要な位置を占める概念です。明日以降も例を交えながらその性質を紹介していこうと思います。私の担当週の内容の性質上、概念の導入・紹介がほとんどになります。本書を読んだことのない人も理解できるように説明することを心がけてはいますが、何か気になる点があったら遠慮なく質問してください。それでは、以降もよろしくお願いします。

Day10

■イヤープラグさざなみ

続きの投稿は明日の午前中までにします。少々お待ちくださいm(_ _)m

Day11

■イヤープラグさざなみ

すみません、都合で今日の午前中から「今日中」に変更します。

■Hiroto

容器のスキーマ、当たり前と言えば当たり前なんですが、「中の中は中」みたいな摂理が"形式ばった推論要らずで認識できる"ということを強調してくれたのは非常に僕の中で大きなブレイクスルーでした。

★イヤープラグさざなみ

第2.5章 メタファーと四則演算
前回は現実世界にあるコップと水と氷から、カテゴリーの論理に到達するまでの流れを概念メタファーを用いて説明した。今回扱うのは、人間が四則演算を理解する認知メカニズムである。乳児が生まれながらにして持っているスービタイズと単純な算術能力だけでは、人間が四則演算を理解できているという事実の説明がつかない。実は、四則演算という基礎的な数学的概念は、数学以外の日常生活と強烈に結びついた概念なのだ。(ⅰ)ものの集まりとしての四則演算
1つ目に紹介するのは「四則演算はものの集まりである」というメタファーだ。このメタファーの起点領域はものの集まり、目標領域は四則演算である。子どもが日常で接する、ものの集まりにものを加えたり集まりからものを取り除いたりする経験が、そのまま加法や減法と対応付けられる。容器のスキーマの論理と同様、メタファーによって推論構造はそのまま保たれる。すなわち今回の場合、現実世界でものの集まりに対して成り立つ事実が全て演算の世界でも成り立つのだ。例えばものの集まりに大きさがあるように数にも大きさがあるし、ふたつのものの集まりA, Bがあって、AにBを加えてもBにAを加えても、同じ第3のものの集まりCができあがるという経験から導かれるのは加法の交換則と加法の閉性(ものの集まり同士を加えて出来上がるのは、ものの集まりである。同様に、数同士を加えて出来上がるのは数である。)だ。加法と減法の場合はものの集まりにものを加える操作、ものの集まりからものを取り除く操作がそれぞれ対応付けられた。乗法や除法も同様に、乗法は加法の反復によって、除法は減法の反復によって理解される。生得算術では1から4までの数しか扱えなかったのが、メタファーによってより大きな自然数を用いた演算が可能になる。四則演算に生得的な基盤が存在することは確かであるが、これは自然数の四則演算全てが生得的であることを意味しない。人間の四則演算の理解は、日常におけるものの集まりに関する経験と、そこから導かれるメタファーによる「拡張」に大きく依っているのだ。最後に、零の概念はものの集まりのメタファーによってどのように理解されるだろうか。7つのものの集まりから7つのものの集まりを取り除いたとき、そこには何も残らない。それはもうものの集まりではない。これを数と無理やり対応付けるためには、何もない集まりを一つの「ものの集まり」として概念化し、それを数の零と対応付ける他ない。何もない集まりと零の創造は決して自然とはいえない、人為的なものである。加えて、「四則演算はものの集まりである」というメタファーでは2-5や2÷3といった演算に意味を与えることができない。ものの集まりのメタファーは日常生活における私達の経験と密接に結びついた最も基本的なメタファーでああり、実際に四則演算の多くの部分がこのメタファーによって説明されるのだが、このメタファーだけではまだ不十分である。

Day12

■イヤープラグさざなみ

続きは今夜に投稿します。

Day13

★イヤープラグさざなみ

第2.5章 (続き)
「四則演算はものの集まりである」というメタファーでは、一部の加減乗除法を
ものの集まりに対する操作と対応させることに加え、零の概念を無理やり創造することはできたものの、負の数や分数の演算に対しては、ものの集まりからの自然な対応づけが行われなかった。そこで今回は、参加者のみなさんに負の数や分数の演算を自然に導入するためのメタファーを考えてみてほしい。

問「負の数が登場する演算や分数の概念が登場する演算を自然に導入できるメタファーとはどんなものか。」 
(追記)
ここで言うメタファーとは、日常における数学以外の経験を数の演算に対応づけるものである。ものの集まりのメタファーで負の数を扱えなかったのは何もない集まりからそれ以上何かを取り除くことができないから、分数が扱えないのは、「もの」の個数が1、2、3…個と正の整数個に限られていたからである。

■Hiroto

(答えたいけど本読んじゃったからバイアスかかるジレンマ、、、、)

★イヤープラグさざなみ

内容を進めます。メタファーの問いに対する答え、その他コメントはいつでも受け付けています。
第3章 数学のロマン
数学のロマンとは、「数学の認知科学」の対極に位置する考え方である。数学のロマンには以下のようなものがある。

・数学的真理は普遍、絶対、確実である。そして、数学が対象とするのはこの「客観的」な真理である。
・数学は抽象的で身体を超越しているが、実在する。数学は宇宙の客観的特性である。
・日常における論理は全て定式化される

皆さんの想像通り、「数学の認知科学」では数学のロマンを否定する。しかし実際、上に挙げたようなロマンを全てではないにせよ、いくつかを信じる人はいるだろう。それも、多くいることと思う。今回皆さんに考えていただきたいのは、自身の数学に対する考え方である。あなたは数学を「数学のロマン的」に、すなわち身体を離れたものとして捉えているだろうか。それとも、数学とはあくまで人間にとっての数学であると考えるだろうか。自身の「数学のロマン信仰度」なるものを振り返り、その内容をコメントしていただきたい。数学の認知科学と数学のロマンが線分の両端にあったとして、その線分の両端ではなく、その間のどこかに自分の考えを見つけるのが、おそらく普通である。明日の投稿では『数学の認知科学』における数学のロマンに対する考え方を紹介する。しかしこれは答え合わせではない。あくまで考え方の一例を示すものである。自分にとっての数学を考える余地があるという事実が数学のロマンを否定していることは示唆的である。私は数学のロマンを完全に否定しているのか。いや、ロマンを完全に捨て切るのは難しそうだ。

数学のロマンへの信仰度
すごく信じている少し信じている 2
@YY 12, @Yutaどちらでもない 2
@ていりふびに, @イスツクエ少し疑っている 7
@蜆一朗, @Naokimen, @チクシュルーブ隕石, @Tsubo, @Shun, @Yujin, @シトすごく疑っている 4
@Takuma Kogawa, @コバ, @ゆーろっぷ, @あんまん

■Hiroto

答えてみてください。できればこのws発表を聞く前の自分の感覚で答えてくれると助かります。

Day14

★イヤープラグさざなみ

第4章 身体化された数学
「数学のロマン」が主張しているのは、人間を含めたあらゆる生命体と関わることなく、数学は客観的に実在するということだ。もしこの説が正しいとすれば、この「超越数学」は私たち人間によって真であると証明された数学を含んでいることになる。数学の証明によって人間が宇宙の真理と接続されるということだ。しかし人間によって真であると証明されたことが人間を超えて客観的・普遍的に真であると判断するに足る証拠がない。そもそも、それを経験的に判別する方法を我々は持ち合わせていないのである。数学的実体の特徴づけが、数学の中で一貫されていないことも、数学のロマンが幻想であることを説明する理由となるだろう。例えば「数」は数直線上では点であり、集合論においては集合であり、組み合わせゲーム理論では局面の評価値であるとされるが、これら三つを統一する数の特徴づけは存在しない。数学のロマンが仮に正しいとすれば、「超越数学」において上の三つの特徴づけが真であるという事実を保存したままで、数は一意的に特徴づけられているはずだろう。私たちが行う数学において、一つの数学的実体をとっても分野によってその特徴づけの仕方が異なり、それらを統一的に説明する理論はない。これは、それぞれの分野の内部では「真」であるものの、分野間では矛盾する概念が数学の中に共存していることを意味する。例えばユークリッド幾何学という分野では平行線は決して交わらないが、射影幾何学の分野では平行線は無限遠点で交わる。数学者はそれまでとは異なった前提を採用し、他と独立した数学を創造することができる。唯一の幾何学、唯一の集合論、唯一の形式論理学は存在しないのだ。それでも超越数学の存在をわずかであっても信じてしまうのにはそれなりの理由がある。それは、数学が現実世界に存在する数学以外の対象と同様に普遍的であり、明確で、(それぞれで)無矛盾であり、一般化可能性があって、安定しているということだ。これらの事実がロマンを強化している。しかし、実は私たちが現実世界を認知する方法を使って、同じように数学を認知しているだけなのである。人間が現実世界を認知するのは人間の生物的特質という非常に限定された資源によってのみであり、それ以外ではあり得ない。同様に、人間が数学を理解するのも身体を通してのみであり、私たちが知り得る数学は、そういう数学だけである。数学における真理は特別なものではなく、数学以外の分野での「真理」と同様の性格を持つ。数学の認知科学による数学的概念の分析で登場した概念、例えば概念メタファーは数学の理解に特有のものではない。それは私たちに生得的に備わっている能力、人間の認知メカニズム、そして身体化された日常的な経験をもとにして、私たちが世界全体を理解するための方法である。そして数学以外の対象と同じように数学的内容が真であることを共有できるのは、人類の「共通仕様」による。容器のスキーマの説明の際に用いたコップと水と氷の例を思い出してほしい。コップ・水・氷の含む・含まれるの関係に疑問を持つ者はいないだろう。真であるとしか考えられない。そして真であると判定している根拠は経験に基づいた、脳に浮かぶ視覚的なイメージである。概念メタファーの第一段階では日常的な経験を基礎的な数学的概念に対応づけるのであった。メタファーを繰り返すことによって高度な数学が創造されていく。このときは数学的概念から数学的概念への対応づけが行われているわけである。第一段階の起点領域となっている経験が十分であれば、それによって対応づけられる数学的内容も経験と同程度に「当たり前」と感じられるはずである。しかし経験が不十分ならば、数学的内容を理解できないどころか、メタファーの対応づけが上手くいかない。メタファーとは異なる概念間に同様の推論構造を写す営みであった。日常の経験における推論の経験を十分に積むためにはある程度の時間がかかる。数学的内容から数学的内容へのメタファーの場合も同様だ。起点領域に当たる部分が身に馴染んでいないと、メタファーが上手く作用しない。数学を学ぶのには時間がかかるのである。メタファーそのものが身体化された人間の認知プロセスである。メタファーの能力が醸成されるのは数学においてではない。数学の外である。数学を理解するためには数学だけやっていてはいけないということが言えそうだ。

数学を理解するプロセスは数学では扱えない。そこで新たに「数学の認知科学」が誕生した。認知科学の研究が進むにつれ、人間が数学を含むあらゆる概念を理解するメカニズムが解明されていった。そこで分かったのは、人間は数学以外の概念を理解するのと同じ方法で数学を理解しているということだ。数学のロマンは人々に憧れを抱かせる一方で、人々を怖気させてしまうこともある。数学を理解できる一部のエリートとそうではない自分という対立が生まれ、多くの人々にとって数学が近寄りがたいものとなり、そうした人々に十分なトレーニングが施されてこなかった現実がある。この対立は社会的・経済的階層化を助長する。「数学は特別ではない。もっと馴染みやすいものだ。」これこそが「数学の認知科学」が伝えたかったメッセージである。

■コバ

それでは、今回の哲学部WSは一旦ここまでとさせていただきます。
来週からは数学部さんのWS期間となりますが、合同WSのためテーマは引き続き数学の認知科学です。
なので数学部さんのWS期間でも哲学部WSのクエスチョン、アンケートにそのまま答えていただいても大丈夫です。(むしろウェルカムです!)それでは数学部さんよろしくお願い致します。


以上、哲学部WS「数学の認知科学(前半)」でした。
後半は第34回WSログに続きます。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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