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ジェイラボワークショップ第46回『読書について』【哲学部】[20230109-0122] #JLWS

今回の哲学部WSは『読書について』をテーマにジェイラボ哲学部のオリジナルの物語を作成し、WSを行った内容のログとなります。

今回のWSの司会は私、イヤープラグさざなみ君、YY12君、Tsubo君の4人で行いました。

物語の部分に★印をつけておきましたので、★だけを読めば物語部分は読めるようになっています。
それでは早速ログに移ります。

Day1

■コバ

皆さん明けましておめでとうございます。
今日から哲学部WSです。
文章は今晩から投稿していきます。
よろしくお願い致します。

■コバ

それでは2023年一発目の哲学部WSを始めていきます。
哲学部は昨年9月からジョルジュ・バタイユ「呪われた部分」を部内で輪読しています。
その中で「読書」について考える機会を得たため、そこから得たものを各部員による語り(物語)形式でWSを進行していきます。
前回の哲学部WSの「人を<嫌う>ということ」の続きのような感覚で読んでいただけると幸いです。
それでは物語を始めていきます。

★コバ

「読書について」
第1章 読書と思考
青年は迷っていた。
以前「人を嫌うということ」については自身で思考することで自分なりの結論は出せた。
しかしどうだろう、世界はあまりに広く、複雑だ。
自分の問題意識や疑問を一つ一つ思考し、答えを出していく、あるいは「答えが出ない」という結論に達するまで考え抜く、それは途方の無いことのように思えた。
そこで青年は「読書」にその問題の解決の糸口を求めた。 そしてまた、青年は街の外れに住む1人の哲学者のもとを訪れた。

青年:先生、お久しぶりです。
哲人:お久しぶりです。今日はどうされたのですか。
青年:先日は「人を嫌うということ」について一緒に思考していただき、ありがとうございました。おかげでその問題については1つの自分なりの「答え」を出すことができました。しかし、どうやら私は様々なことについて考えてしまうという思考の癖があるようで、それからもあらゆることについて考えてしまうのです。これではキリがありません。そこで私は「読書」にこの問題の解決の糸口を求めたのです。
哲人:「読書」に、ですか。
青年:はい。あらゆる事象について考えてしまう、これは先ほどもお伝えした通り私の思考の癖であって、能力ではないのです。情報処理能力は私は平均レベルしかないと思います。そんな私が自分の脳みそだけでそういった諸問題を思考し続けるのは無謀に思えます。そこで私は先人の智恵の集積である「本」に一つの活路を見出しました。つまり読書によって、私の思考している諸問題は解決できるのはないのか、と。
哲人:なるほど。それではそういった諸問題についてそのテーマに近しい本を読み、読書によってあなたの抱えていた悩みは解決したのでしょうか。
青年:それなのですが、、、

■コバ

それではここで初日アンケートです。

Q1:読書という行為自体をメタ思考したことがありますか?
はい 11@あんまん, @イヤープラグさざなみ, @西住, @YY 12, @ゆーろっぷ, @チクシュルーブ隕石, @蜆一朗, @Hiroto, @Tsubo, @Daiki, @chiffon cake
いいえ 6@Naokimen, @ていりふびに, @匿名希望, @Yujin, @Takuma Kogawa, @けろたん

可能であればその詳細もお教えください。
その他WSに関連して、気付いたこと、考えたこと、語りたいこと、WSの司会者に問いかけたいことや感想等あればこの2週間はご自由に記述ください。

■匿名希望

“読書という行為自体”をメタ思考(俯瞰的に(上から見下ろすように客観的に)考えていく)した事は、今まで無いように感じます。
読書という行為については、3年ちょい前までは、これだけ世の中に本が出回っているのにも関わらず、世の中がいい方向に変わっていないのだから、読書をしたところで意味が無いと思っていたのですが、本などから得た知識によって、多くの人の悩みを解決してきている人が登場し始め、本には先人たちの知恵や知識が詰まっており、人間の大抵の悩み事は既に答えが示されており、本に示されている場合が多い、という話、および、前述のように考えていた過去の自分は、アスリートが上手く行った時とそうで無い時の感覚に頼り探っていくように、ひたすら頭の中で考えて考えて考え抜いてそれで答えを見出そうとしていたのですが、ネット上で上記のような人に出会い、自分でも読書をするようになり、自分でも効果を感じられた事があり、また、読書に興味を持つようにもなり、読書は人生における、コストパフォーマンスが最高に良い方法だと考え今日に至ります。ただ、得意分野を伸ばす方が、苦手分野を伸ばすよりも伸びが大きく将来的に期待でき、(伸ばしやすい得意分野に注力を注がないと、悪いわけでは無いが、苦手がちょっと伸びて普通の人で終わってしまうという危機感から)苦手な分野に対する読書及びそれに類する行為は最近は自分でセーブをかけており、まず自分の特性を知ること、自分の特性に合った分野で特性を最大限に発揮するための方法や、得意を活かす方法、モチベーション科学、他のことに気をとらわれずに1つの目標に徹底的に注力を注ぎ、確実に良い結果を出す為を踏まえた読書などは期間を決めて行うようにはしています。

■コバ

読書に求めるものというのは個人個人で様々あって良いと思います。しかしその「様々」に行き着くまでに一度メタ思考を挟むことで、自分自身が読書に対して真に求めるものが見えてくる可能性があります。
もし匿名君が今まで読書についてメタ思考をしたことがなかったのであれば、このWSの2週間を利用して読書について一緒にメタ思考していければ嬉しく思います。

■匿名希望

読書という行為自体をメタ思考したことは、読書は良いということで思考停止して考えた事がなかったのかもしれないです。

Day2

★コバ

哲人:その様子だと、解決には向かわなかったようですね。
青年:はい。私の頭に貼り付いている「人間、自分、他者、生、死」そういった諸問題についてそれに近しいテーマの本を読むのですが、そういった諸問題の「答え」をその本の中に「探そう」とすればするほど、私の求める内容も具体的になっていきました。しかし内容が具体的になればなるほど、私の当初抱いていた問題意識から決定的なズレが生じてしまうのです。私の頭に貼り付いている諸問題、それらの答えを具体的に固定するために読書をしているのに具体的になればなるほど本質からズレていってしまう。先生、私はどうすればいいのでしょうか。
哲人:事情は分かりました。まず言えることは、これ以上今の読書を続けていてもあなたの求めている「答え」には辿り着けないでしょう。あなたの思考している諸問題は、内容そのものがかなり抽象的です。それに対して具体的に答えを固定しようとするのは原理的に無理があります。 つまりあなたが抱いているその諸問題に向き合うために必要なのは具体的な知識群ではなく、そういった諸問題に相対した時の運動としての「思考」、例えるなら武道家が敵と相対した時の「動き」に近いと思います。それを身につけることで「自身による生身の言葉」を持てるようになります。あなたの抱いている諸問題、それに本当に向き合おうとするならば「自身による生身の言葉」でしか答えを出すことはできないでしょう。

■コバ

以上が第1章となります。
今日以降は第2章に入ります。担当はさざなみ君です。
引き続きアンケートの回答等、ご自由に記述ください。

Day3

■イヤープラグさざなみ

(第2章担当のイヤープラグさざなみです。今夜再開します。)

★イヤープラグさざなみ

第2章 読むってどういうこと?
青年: 私は焦っているんです。
哲人: ほう、それはどういうことですか。
青年: はい、私が焦っているのは、自分が本を読めていないと感じているからです。これまでの人生であまり本を読んでこなかったからなぁ。文字を追うことはできてもその内容が頭に入ってこないというか。でも、内容が頭に入ってこないとどうして焦ってしまうんだろう⋯。
哲人: なるほど、そういうことですか。まずはじめに、読書にも他のことと同じように、慣れがあります。つまり、量を積むことによって様々な本がスムーズに読めるようになることがあります。あなたの焦りは、自分の読書と他人のそれの比較によるものでしょう。自分がウンウン唸って立ち止まっている間にあの人は自分よりも先に進んでしまっている。あの人は読めているのに自分は読めていない、どうしよう、と。
青年: はい、そうです、まさにそんな感じです。
哲人: その焦りにはいくつかの前提が隠されています。それは、速く、立ち止まらずに読めるのがいいということ。内容が頭に入ってくる方がいいということ、などです。
青年: 内容が頭に入ってきて、スラスラ読めた方が、ストレスフリーでいいんじゃないですかね。
哲人: 果たしてそうでしょうか。今、ストレスフリーとおっしゃいましたが、読書とはそもそもそのようなものでしょうか。内容が頭に入ってくるとか、本が「読める」とはどういうことなのでしょう。

Day4

■イヤープラグさざなみ

(続きは今晩投稿します。)

★イヤープラグさざなみ

青年: うーん。そう言われるとすぐには答えられないかも。内容が頭に入ってくるっていうのは、それが自分に馴染みがあるってことだと思います。でも本が「読めている」ってなんだ?
哲人: 自分がその本を読めているのかいないのかは、確かめようがないのです。本の内容が著者から読者に正しく伝達されたのか?と問うときの「正しく」はどういう状態を指しているのでしょう。
青年: なんだか恐くなってきました。盤石だと思っていた足場が崩れ落ちる感じというか、他人と言葉を共有していたはずなのに、いきなり独りぼっちになってしまった感じというか。
哲人: ええ、言葉による伝達を考える際にその感覚は付きものです。しかし絶望することもないのですよ。ほら、今こうしてあなたと私は対話をしている。言葉が通じ合った気でいて、会話も成立している風です。私とあなたの間に、確かに何かは通じ合っているのですよ。そう信じる他ないでしょう!
青年: 確かめようがないけど、伝わっていると信じる。そうか。なんだか自分の焦りがバカバカしくなってきました。自分はこれまで万人が共有できる足場のようなものを求めていた。しかしそれは幻想だった。「読めている」ように見えるあの人も、自分も、結局は変わらないんだな。探り探りでやっていくしかないんですね。読書だけじゃない。生きるってこういうことなんだろうな。

Day5

■イヤープラグさざなみ

こんばんは。今日はアンケートをひとつ実施します。私の担当はこれで終わりです。明日から始まる第3章の担当はYY12さんです。

あなたにとって読書は必要か?
はい 8@Naokimen, @チクシュルーブ隕石, @蜆一朗, @けろたん, @匿名希望, @ゆーろっぷ, @YY 12, @あんまん
いいえ 4@Hiroto, @Yujin, @Takuma Kogawa, @chiffon cake

■Hiroto

なくても生きていけるため、必要ではないです。僕にとって"必要"という言葉は、かなり重いのでこういった結論になりました。
読書を奪われるのはかなりキツイです。

■Hiroto

そんなに日常的に読書をしているわけではないですが、禁止されるというのはあまりにも耐え難いです。

Day6

■YY12

お昼頃に投稿します

■Takuma Kogawa

読書と、同じ内容のネット記事を読むとか誰かから話を聞くなどは、かなりの部分が重なると思います。文学作品は読書というルートしかないのかもしれませんが、自分の中で思索を深めるなどにおいて読書だけを神聖視する理由がありません。

■蜆一朗

哲人と青年の会話に際して、数学書を読むときのことについて、ちょうど今 note 記事にまとめていることがタイムリーになりそうです笑
「そう書いてある」ということと「自分の中に組み立てる」ということとを分けて考えるのが大事そうです。 専門書でない本を読まなくても日々を暮らすことは一応できますが、何か問題意識を持っているときにはまず本を手に取ってみます。あるいはそういう時期が来ることを見越して、タイトルを見て気になる単語が含まれている本をあらかじめ買って積読しています。僕の人生から本を切り離して考えることは難しそうです。

■匿名希望

横からすみません。
読んでいて、そういう時期が来ることを見越して、とおっしゃっていますが、具体的にはどのような感覚でどのような状況なのでしょうか。自分の頭の中や今までの経験に置き換えてイメージしようとしても出来なかったので、知りたいです。

■蜆一朗

僕が本を読むときに求めているのは、客観的な事実や情報だけではなく、筆者がそれまでの研究や暮らしで作り上げ組み立てた感覚・雰囲気・人生です。「何を語るのか」だけでなく「それをどう語るのか」に興味があります。そういうのを読み取ろうと思えば、こっちもそれ相応の覚悟というか渇望感というか元気が必要になるので、通学の電車の中で本を読むようにするとか、ノルマを決めて月に何冊本を読むとか、そういう気分や体調を変数に入れないような習慣化はとてもできないのです。ブランド品がなぜ高いのかと言えば、製品としての機能性だけではなく、作り手のこだわりや生き様なんかにも価値を乗っけているからであり、この後者に共感して敬意を払いたいと考える人は高くてもお金を払うのだろうと思います。専門書が高い理由だって同じだと思います。(だから僕は受験が苦痛でしょうがなかったです。好きな古典だったり歴史だったりの本を自分のペースで読み漁ることもできないし、"どう語るのか" を重視しない数学や理科は肌に合わないし、効率性を求められることもしんどかったです。参考書を何冊も買う受験生はダメだとよく言われますが、僕はいろんな本を読んで肌に合うものを探すことも勉強だと思っていましたし、ある本のある1文を読んで感覚が目覚めるなんてことも大いにあり得るので、そういう言説は正直邪魔に感じていましたT^T)最近は体調を崩すことも増えて、やりたい本の読み方をするには元気が足りない状態が多いです。万全の体調になる日がいつ来るかわからないし、特に数学書なんかはベストセラーでもないかぎりすぐに本屋さんからなくなってしまうので、読む準備や気持ちが追い付いたときではなく興味を持ったときが買い時だと考えています。

■YY12

〈忘れる前に文章は投下しますが引き続きさざなみさん回の質問にコメントがあればして頂いて大丈夫です!〉

★YY12

第3章「読む」で自己を変容させる-メタ認識、想像力、思考力-
青年は思いたって哲学書を読んでみたがその取り組み方として違和感を覚えていた。読み方として重要な何かが欠落している気がしたのである。

青年:バタイユの『呪われた部分』を読んでいるのですが、今までが単に資料の参照や知識吸収としての読書だったせいか「読めて」いる感覚がありません。基礎的な読書論としてはショーペンハウアーの『読書について』で書かれているような「読書は人にものを考えてもらう行為であり、主体は常に自分自身であることを忘れてはならない」ということを心に留めているのですが、いざ哲学書のような「情報ではなく、主として個人の思考や思想が強く滲み出ているもの」にはちゃんと向き合えていない気がするのです。
哲人:それは恐らく、筆者にあった苦悩や思考を「体験」しようとしていないこと、ひいては「自己の変容」が無かったからです。
青年:「自己の変容」ですか...
哲人:一般的に何かを表現する時、そこには「精神の鍛錬」がなされています。彼らは明晰性に欠ける概念や事象を熟考し「自分の中で」そのかたちを整えます。しかし、言葉にしてそれを記す時それらの熟考や苦悩はいとも簡単に忘れ去られてしまう。言葉というものに生半可な公共性があるせいで、「彼らの言葉」はそのまま「自分の言葉」として処理されてしまう。これでは彼らの言葉や考えを理解したとはいえないのです。理解するためにはある種の「自己の変容(ステップアップ)」が必要です。つまり、先に述べた「精神の鍛練」をもう一度自分でも試み、(厳密には不可能でも)同じ目線で見られるようになった時にはじめて「理解」が出来るといえます。
青年:なるほど。では、私が『呪われた部分』を生煮えの状態で終わらせてしまったと感じたのは、言葉の公共性を過信し、彼の苦悩や思考を道端に置いて「彼の言葉」をそのまま「自分の言葉」として進んで行ってしまったからでしょうか。
哲人:そういうことになります。「読書」をするのであれば彼がした苦悩に想いを馳せ、熟考を通じて彼の言葉を受け入れられるような精神に変容する必要があったのです。(その場合、いきなり著名な哲学者の著作に当たることは身の丈に合ってなかったのではないかという問題もあるがそれはまた別の話。)例えば、『呪われた部分』では「全般経済学」という概念が登場すると思いますが、この概念の趣旨を理解するためには、今までの自分が考えていた「経済」や「経済学」とどう異なるのか、どこを見落としていたのかなどといったことを良く検討し気づかなければなりません。
そして、その事を検討し気づくということは自分を認識するメタ的な能力を高め、少しずつ自分を拡大していく。つまり、「自己の変容」です。
青年:なんとなく分かったような気がします。
哲人:もちろん、知識を得るための本や刺激的で精神を育むような本(小説や漫画など)に沢山触れることも重要ですが、こと哲学書のようなもになるとそれ相応に必要な読み方をし「苦痛」を感じる必要があります。しかし、それは一つの成長痛であり、「自己の変容」なのです。
青年:「読書」というのは僕が感じているよりハードなのですね。それが分かっただけでも今後の糧になりそうです。

■匿名希望

向き合えない気がするのですについて、
内容スカスカですみません。
自分も上に書かれたような感覚が過去にあったような気がします。外山滋比古の思考関連の本を立ち読みして、自分が聞いて納得したことと真逆の事が書かれてある部分で、受け付けられないというか抵抗を感じました。

■YY12

外山滋比古さんの『思考の整理学』は昔読んだことがあります。(内容自体は納得できましたがテクニック的な面では古臭いところも多いなぁという印象があります…笑)
匿名さんが仰るように内容的な面で自分と異なる価値観で書かれていると受け付けないこともあると思いますが、私は「読書の仕方」に関して違和感がありました。そしてそれはひとえに、(蜆さんが上で書かれていることをお借りすると、)筆者の人生で作り上げ組み立てた感覚・雰囲気・思想を客観的な事実や情報だけで読み取ろうとしたことに問題があるのだろうと推察してうえの様なことを投稿しています。
哲学書などは前者の要素で溢れて出ているのでそのようなすれ違いが起こるのも無理はありません。。
匿名さんが仰る「受け付けられない」というのも、筆者の生きた時代や感覚、思想に想いを馳せて読んでみると、自分が「納得している」ことも案外納得出来ていなかったりということも分かって得られるものがあるかもしれません。

Day7

■YY12

こんばんは。今日は質問を一つ投下したいと思います。
Q:皆さんが読書をしてる時に意識してることがあれば教えて下さい。

Day8

■Hiroto

A:所長の影響をかなり受けていますが、読みながら定期的に「空間的・視覚的」に内容を構造化するようにしています。「時間的・聴覚的」に線状に並んだ文字を頭に入れていくだけではなく、それらを一旦並列に見渡す(全体を俯瞰する)ことで、「部分→全体→部分→全体→…」の学びの運動を行なっています。

■YY12

構造化・抽象化というのは読書の基本ですよね。
本の内容云々はもちろんその運動自体にも大きな意味があると思いますし。

■Hiroto

「目次を構築しながら読む」と標語的に言えそうです。

■Naokimen

小説や伝記の場合は少し違いがあると思いますが、評論や理工系の専門書を読む際には、論理展開を正確に理解することを意識しています。その際、文単位など小さな単位での論理関係と節や章など大きな単位での論理関係があると思いますが、その両方を意識しています。

■YY12

理工系の専門書は触れたことがないのですが、やっぱり読書の基本は変わらないのですね。
「小さな部分と大きな部分」を意識するのは重要なことと思います。逆にいうと、そういうことをあまり意識しないでがむしゃらに楽しめるのが小説などの魅力だと思っていますが。

■YY12

一旦ここで締めますが何かあればいつでもコメントして下さい。
明日からの3日間はTsuboさんの担当です。

Day9

■Tsubo

こんばんは.今日に修士の研究テーマ発表が終わりようやく休みが取れると安心しているTsuboです.冬コミの準備と風邪ひいて体調ぶっ壊したのとテーマ発表の準備がほぼシームレスでした.ないちゃう

★Tsubo

第4章「読書会の効用について」
...再び,青年が哲人の家の門を叩いた.一冊の本を携えているようではあるが,何やら心持ちは重い様子である.

青年 : 先日,先生に「読書」の効用について教えを頂いてから今まで読んでいなかった古典のような本でも積極的に読もうとしているのですが,心が折れてしまいそうです...
哲人 : ふむ,先日私の家を帰るときの前向きな顔とは全く逆の顔つきをしてますね,どう されたのですか?落ち込んでしまったのは結果なので仕方ありませんが,まずは言語化し て状況を整理してみましょう.人間は言語化されていない不明瞭な存在にこそ恐れをなす ものです.
青年 : それが,難しい本を頑張って読もうとしても読めば読むほど本の内容がわからなく なってしまうんです...そもそも自分の理解が合っているのか,それすらもわからなくなっ てしまい,本を読むのが苦痛になってしまいます...
哲人 : なるほど.君は難解な本を読んではいるが,その理解が進まず,本を読むのが苦痛 になってしまっていると.まずは,君の積極的に書物を挑む姿勢について賛辞を送りましょう.そして,君の悩みは誰でも持ちうる,ごくごく一般的なものです.気を落とす必要はありません.
青年 : そうなんですね,そう聞くと心が楽になりました.
哲人 : 難しい本を一人で読めば,その理解が合っているのかどうかわからなくなるのはあ る意味当然です.なぜならば,人間は自分の考えの誤りを認め,修正することを一番困難としているのですから.
青年 : それでは,難しい本を読むときは一体どうすればいいのでしょうか.
哲人 : 人間は自分の考えの誤りには気づきにくいのですが,他人の考えの誤りには案外気がつきやすいものです.つまり,他人と一緒に本を読めばいい-いわゆる「読書会」という 形式で本を読めばいいのです.
哲人 : 「読書会」とはその名の通り,複数人で一つの本を読むという読書のスタイルです. 他の人と一緒に同じ本を読むことで自分の理解が合っているのかどうか他の人との議論を通じて確認し,また他の人の理解も確認することができます.このように「読書会」形式に おいては相互に理解を深め,学び合うことができるのです.

Day10

★Tsubo

青年 : なるほど,別に読書は一人でしかできないわけではないですよね.けれど,自分は本の内容を他人に説明できるほど,また他の人の理解の誤りを指摘できるほど十分な理解力があるわけではないし,「読書会」に参加しても本当にいいのでしょうか…
哲人 : むしろ,君のような状態である人の方が積極的に参加するべきなのです.他人に指摘された方が自分の理解の誤りに気づけますし,また他人の理解を聞くだけでも自らの理解の助けになります.
そして,他人に何も与えられないことを恐れる必要はありません.むしろ,何かを教わっている君自身が「与えている」側なのです.人は他人に何かを教える時ほど自分の理解が試され,また深まるものなのですから.
哲人 : そして,「読書会」の効用として一番大きいのが,「本を読み進めることに強制力が付く」です.難しい本を一人で読むとついつい後回しになってしまいいつの間にか本を開かなくなってしまいますが,他の人と一緒に定期的に集まりながら読むことで目標が設定され,本を読まざるを得なくなります.人間の心は弱いので,本と向き合える仕組みを強制的に作ることが大切です.
青年 : 先生,ありがとうございます.早速,僕と同じ本に興味を持つ人を募って読書会を開こうと思います.

■Tsubo

明日は以下の質問の議論日とします.もちろん以前のものの解答でも大丈夫です
Q あなたは「難しい本」を読む際にどのような姿勢で望んでましたか?また、望みたいですか?

Day11

■Hiroto

おっそいですが!!!!!!

難しい本を読むときは、難しい単語を難しいまま、気持ち悪い専門用語を気持ち悪いまま、読むことを意識しています。
所長の「Think difficult」にも影響を受けていますし、千葉雅也の「勉強の哲学」にも影響を受けています。

■Tsubo

僕の担当分は今日で終わりますが、もちろんコメントは何時でもお待ちしてます。明日からはコバさんの担当です。

Day12,13

★コバ

第5章 辿り着いた答え
青年:先生、ありがとうございました。本来読書とは「考える」ために行うのに、いつしか私は答えを求めるため、つまり「考えない」ために読書をしているということに気付きました。 答えを求めること、それ自体は悪いことではありませんが他人から与えられた答えをただ鵜呑みにしていると、いつか手痛いしっぺ返しを食らうことは明白です。 それに対して「自身による生身の言葉」であらゆる諸問題に対して立ち向かえるようになれば、どんな事態に相対しても物事の自分なりの正しさが判断できるようになります。 しかし、それは自身で考え続けて生きていくという道を選ぶということを意味するのですね。
哲人:本に答えを求め、その答えを鵜呑みにすることは答えを外部に預けることを意味します。権威のある人の言葉や、自分にとって都合のいい言葉を自身に当てはめることは安心できたり、心地良かったりします。それと比べれば自分で考え続けることは大変で、時には心細くもなります。 しかしあなたは1人ではありません。不確かなモノばかりに思える時代ですが、共に考え、共に今を生きていきましょう。
青年:はい、先生。それでは、また。

■コバ

物語部分は以上です。私からの新たなクエスチョンはありませんので、今までのアンケートやクエスチョンへの回答の時間に残りの週末は使っていただけましたらと思います。
もちろん感想やその他気付き、内容についてのコメントもお待ちしております。

Day14

■コバ

それでは今回の哲学部WSはここまでとさせていただきます。
読書について考える機会を得られたのは、そもそもジョルジュ・バタイユ著「呪われた部分」の輪読に取り組んだためでした。
もしかしたら本書の輪読自体は今の哲学部の身の丈を超えていたかもしれません。
しかしそれが今回のWSのような「学び」に繋がっているのであれば、結果的に「身の丈」に回帰できたのだと私は思います。
今回のWSが皆さんの「学び」に少しでも繋がってくだされば大変嬉しく思います。
2週間お付き合いただきありがとうございました。


以上、哲学部WS『読書について』でした。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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