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熱帯夜

気温の高い夏には血圧が下がるものらしい。死ぬほど暑い夏の盛りにそれを聞いた時は「だから何なの」と反抗期の小学生みたいなことしか思わなかったけれど、秋が少しずつ顔を覗かせて、涼やかな風に吹かれて脳みその中にこもっていた熱が引くと、それは至極当たり前であることに気付いた。体温を下げようとして血管が拡張するのだ。なるほど、もともと血圧の低い私の血圧も、さらに下がる訳である。

そして今年も漏れなく暑すぎるこの東京で、私は低血圧による目眩でふわふわする頭を持ち上げ、明るくってぴかぴかの夏を、ぢりぢり焼けるアスファルトに揺らめく陽炎の向こうを透かし見るかのように、遠くから、くぅっと目を細めて眺めていた。この時私の夏は、それこそ蜃気楼のようにボヤっとしていて、まるで実体が無い。

日が傾いて、目に映る景色が暗くぴかぴかしなくなって、空の天井の1番遠い所で煮詰まっていた夜が満を持して吹きこぼれ、すうっと街を呑み込んだ時。ようやっと私の目眩は治まり、ふわふわしなくなって、身の回りの物事に、思考に、ピントを合わせることが出来るようになる。
私の夏に実体が伴うようになるのは、夜になってからだ。
ようやくピントを合わせることが出来たその景色に、もっともらしい夏の概念 ―例えば輝かしく太陽の光をはじき返す水面とか、向日葵のハッとするような黄色とそこに溶けこんでしまえる小麦色の肌とか、アサガオに付いたつやめく朝露とか― それらはすっかり一日の役目を終えてしまって、はっきりと写り込むことは無かった。
夜に沈んだ街の輪郭は曖昧で、昼間に比べてやけにはっきりした思考を持て余した私が、夜の中でちょっと悪目立ちしてしまう気がする。それ故に夏の夜はなんだかいやに厭世的で、私は今まで熱帯夜が嫌いだった。

今年、熱帯夜の中を1人で、珈琲片手に散歩をするようになった。別に大層な理由は無い。気が向いたのだ。
バイト帰り、サークル終わり、夕飯時、街が寝静まった真夜中。今まで均一に在ると思っていた夜は、時間帯によって少し濃淡が変わることに、初めて気が付いた。コンビニで買ったアイス珈琲のカップの中で氷をからから言わせながら、履き古してちょっとヨレたスニーカーでしとしと歩くと、昼間の焼くような暑さを忘れた熱帯夜がしっとりとした湿度で私を包む。むっとする風の奥に、少しだけやさしい匂いがした。

最初は恐る恐る。
次第に私は熱帯夜を自由に歩き回るようになる。
珈琲を飲むのは、夏の濃い夜に似ているから。水より少し粘性をもってたぷんと揺れる夜を、ストローでちゅうっと吸って、胃袋の中で夜を飼い慣らし、夜に沈んだ曖昧な街中で私は無敵になれる。

ぢりぢりする陽炎のなかで、目眩に溺れるだけが夏じゃない。
はじめて知ったことだった。

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