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観音経、般若心経、手のひら レイキ

読経をつづけていると、
手のひらの温度が上がって
くるようです。

呼吸が深くなる、丹田呼吸が
できてきた、ということは
以前からわかってました。

手のひらは、
結構熱くなっており、
基礎体温のような、

普段の体温も少しは
上がるのかもしれません。

手のひらは、汗をかくくらい、
ほわっとしてきています。

そういえば、と思って、家の飼い猫(元のらねこ)に
ブラシングをした後、ちょっと手のひらを当ててみました。

猫の性格は様々です。
もっとも懐いているキジトラ柄の猫に
手のひらをあてていると、
ぐっすり眠ってしまいました。

ただ、眠かっただけかもしれませんが、
快適だったように思います。

概ね、気持ちが良い時は、
ゴーゴーいうので、
きっと気持ちがいいのだと思います。


藍染の生地も好きなようです

手当、手を体に当てることは、
今は特にしていませんが、
なかなか良いものです。

自分に対しても、人に対しても、ただ、手を当てるだけでも
ホワッと温まります。

なるほど、これも血液に流れをよくするものか、
って思いました。 過去に何度か書きましたが、

健康のポイントを一つに絞るとすれば、
血液の巡りがよいこと、だとある古書にはありました。

古書の神代の治療法という本には、誰もができるのが
手当だそうで、昔から手当はあったそうです。

私は過去にレイキという、手当を教わっていたことがあるのですが、
しばらく特にせず。

レイキというのは、自分の力で手当治療をする、
というものではない。

むしろ、自然の力を自分の体を通して行う、
自分はそこには入らない、
という感じです。

わかりにくいかもしれませんが、「私が治す」、という感じではなく、
ただ、手を当てていく。

相手と同調するようなイメージです。

自分で念じて手を熱くして、手当をするのでも
ないです。

私が治す、だとどこか偉そうなイメージか
威圧感があるものですが、
手当はそうではない。 

同調、あるいは、一体感、溶け込む
ようなイメージでしょうか。

タオ指圧の遠藤さんは、
指圧ですが、指圧で指を使うけど、

指圧の位置や技術的なことよりも、
快適さ、同調のように、相手に溶け込んでなりきる、
相手を感じて知る、ような話だったか
と思います。

そのためには、まず本人がかなり
落ち着いた、リラックスした状態になる。


相手に溶け込んだかのような状態になり、相手を知る、体で体感するような
ことだといいます。 

似ていると思います。

パソコンの画面を見ながら、
威圧感のあることを
言うイメージがある病院の治療とは違う。

病気は恐れや不安を煽ると、逆効果で、
寄り添い、信頼感のような、
精神的なことが大事だと思うのですが、

私の知る限りでは、
あまり重要視されていない気がします。

神代の治療でも、誰もができる手当の
話があり、基本は同調のような感じです。


同調というと難しいですが、ただ黙って手を当てる。
何も考えない、無心の状態が前提といえる
かもしれません。


終戦時の占領軍が、手を当てて人の治療する姿に驚き、
手当療法の多くが禁止か消滅していった経緯があるらしいです。

そういえば、
ロシアのアナスタシアも手を当てる話がでてきますが、
特別な能力ではなく、
誰しもが持つ、能力だという。

ただ、生き方や生活環境、
その他様々な理由で、

手当をする力が
失われていっているのが現状だそうです。

とはいっても、お腹が痛くなれば、
無意識に手をお腹にあてる、って普通かと思います。

自分でもできますし、誰かにもできます。
ただ、相手にする場合なら、ほんのわずかな心の乱れが
通じるので、平常心、無心で行えるかどうかは、とても大事です。

疲れて、少しでも面倒に思うなら、
相手に手当をするのは、辞めた方が無難です。

手当に限らず、整骨院などの治療でも、
仮に先生の気持ちが乱れていたら、受け手にはわかるもので、
私は耐えられない気持ちになったことがあります。

となると、いかに平常心か無心になれるか、
が手当の最重要なことかもしれません。

人は自然界の生き物です。
生き物だから、野生動物が読む気配のような、何か
力はあるはずです。

ただ、生活があまりにも不自然か、
あるいは、恵まれすぎた環境だと

人の様々な能力を使うことがない。
そのため、手当などの能力は
無くなってきたといいます。

夜も人の本来の力があれば、
くらいところでも、
見えるそうです。

鍛えなければ、衰える筋肉の
ようなものかもしれません。

さて、2年半以上読経をしていて、
何か悟ったとか、

般若心経、観音経の意味が
わかってきた、
ということは全くありません。

今だによくわからない。

その代わり、読経をすれば呼吸を鍛える、
または精神集中などの面を感じます。

乱れた気持ちも、大きな声で読経を続けていると、
一気に気持ちが落ち着いてきます。

結構いいものだと思っています。

意味を考えずにただ読めば、
無心になれます。僧侶でもない私がいうのも変ですが、

例外なく、最低30回以上の読経は毎日つづけており、
2年半は経過しています。

通常は1日で45回がほとんどなので、軽く3万回は越えており、
まだまだとはいえ、普通の人よりは回数だけはあると思います。

それでも、まだ意味は実感できない、
という情けない面はさておき、

呼吸は深くなった。
そして、気持ちも一気に落ち着く。
(人は生きていると、予想外のこと、思いもよらぬことで
気持ちを乱されてしまうものです。 それほど強い人はいないと思います。)

そして、気がついてきたのは、
手のひらの温度です。

体温はもしかしたら、変わらないのかもしれませんが、
手のひらは確かに温かい。

結局、読経は良いことしかないのでは、
って今は思います。

もし、読経の意味があるとすれば、
無心になれれば、呼吸が整う。

酸素が人よりも多く吸える、

ただ、それだけ、といえばそうですが、
呼吸が深まれば、細胞がきっと活性化する。
酸素を吸えるから、血液のめぐりもよくなる。

少々のことで、つかれない、
疲れたとしても、少しの休憩、睡眠で結構復活します。

呼吸、あまり重要視されないのかも
しれませんが、

呼吸さえしっかりできれば、
随分と楽になります。


気候治療の片野貴夫さんは、がん患者には毎日30回以上の
般若心経の読経を進めています。

昔の書籍から共通しており、もう何十年も前から述べれていました。

気候治療は教わったことは
ないですが、

般若心経はただ、唱えるだけなので、
誰でもできる、って思った。

そのほか、いろいろなことがあって、
読経は続けています。

読経は結局のところ、何も
考えないで行う方が良いと思います。

考えないようにするためには、
手本を読み、文字から目線を外さずにロックすれば、
雑念は入りにくい。

また、ろうそくの火を見つめるのも
いいですね。


ゆらゆら動くロウソクの炎は、
見ていて気持ちが良いものです。

般若心経自体は短く、
何ヶ月か続けて音読していると、
不思議と覚えてしまいます。

それでも手本を見るのは、
やはり雑念が来るのが、どことなく怖いと
心の中で思っているからなのかもしれません。

それに目で文字を追う筋肉も使うので、
手本は見た方が良いと思います。

とにかく、ただ音読さえすれば、
呼吸の力がついてくるのは確実。

呼吸ができる、要は酸素を多く
吸える状態になるわけです。

何か考えたら、きっと呼吸の
邪魔になってしまう。

瞑想でも、極力何も思い浮かばない状態が
きっといいはず。

読経で無心になるのは
難しくないと私は
思っています。

読経で呼吸の力をつける、
と色々と良い。まだまだ知らないことがあると思います。

酸素が多く吸えると、
細胞が生き生きしてくるのか、
とにかく体が楽です。

呼吸が苦しい、という場面を
日常で見てきたので、

呼吸さえしっかりできていれば、
様々な臓器が働くのだと思います。

薬や外部の刺激に頼らずに
できるとなれば、結構力強いです。

ただ、そうは言っても、
体の調子の悪い時はあるものです。

そんなとき、手当で体を温めることが
できれば、尚良いかと。

手当だと血液も
きっとよく流れるだろうし、

呼吸の力と同時に作用すれば、
体の機能は動き出す。

良いことしかないです。

読経というと、何か辛気臭い、お坊さん、葬儀、
など思い浮かべるかもしれませんが、
決してそうではない。

ただ、これも占領軍の
影響かどうか不明ですが、

読経は消えてきた日常習慣のような
ものかもしれません。

 
当時の小説等で、ところどころお経が朝夕、
聞こえてきたシーンはよくあります。

このことだけでも、昭和初期頃には
日常的に読経があったのでは、と想像します。

もちろん、仏教の教えを
知り、実践するのも大事かもしれませんが、
何か前提になることをする。

読経は神棚の水をいれかえるような、
毎日実践する基本的なことなのでは
ないか、とも思う。

お経の文字を読み上げると、
普通なら、大抵はまず、気持ちが落ち着くという
感想が多いと思う。

気が乱れることの愚かさを確か仏教で説いていると思うので、
読経は気持ちを正す、毎日のおつとめのような
ものだとも言えるかもしれません。

お経は、流れるかのように読みやすい言葉が
組み合わさっているのか、

練習、回数が多ければ、
詰まることなく、流れるように読めます。

流れるように読める文章、
色々あるとは思いますが、
古くから伝わるものに
多い気がします。

たとえば、ご真言、
大黒天真言、不動明王真言、そのほか
また神道の祓詞(はらえことば)などでも
同じ感じです。

思考無くせば、流れのままに読めて、
呼吸も心も整う。

さらに手が温かくなるというなら、
手当の準備、あるいはレイキの手当てを
するまえにも何か読みあげるのは、結構いいと思う。

熱くしようとして手が温かくなるわけではなく、読経をしていたら、
知らずのうちに手が熱い。

おそらく、深い呼吸酸素をよく吸い、
血液の巡りが良くなったから、
と思うけど、正直わからない。

何か言葉の力もあるのかもしれないし、

消えていった手当ての民間療法の中には、
施術前、あるいは施術中、どこかに読経を入れるのも
あるのではないだろうか、と思う。

とはいっても、
最近になって、そう言えば手がかなり熱くなってきた、
と実感してきた程度です。 


ただ、どうせ手当をするなら、
手が温かいと、きっといいと思う。

何も考えずに、手のひらを熱くする方法が
あるのかどうか、わかりません。

ただ、気持ちを空っぽにする読経で
手のひらが暖かくなるなら、
読経の可能性を感じます。

そうなると、いきなりつく力ではなく、
素振りで武道の日々の練習をするようなもの、
続けないとつかないことかも
しれません。

武道であれば、毎日続けて当然で、
効率よく、近道はない。

となると、手のひらを温かくするというなら、
もっと読経を続けようと思います。

読経なのか、呼吸なのか、手のひらが温かくなる
理由はわかりません。

どちらか、ではなく、日々の生活と読経、つまりは昔にあって
今にないものの積み重ねの作業をする、
だけでいいのかもしれません。

こうなると
毎日、食器洗うのと同じ感覚で
やっていくくらいでいいかもしれません。

変に身構えて固くなるより、
何も考えず、
最高のリラックスでいこうと思う。


セイタカアワダチソウ
自然もきっといい。

手のひらがあたたかいとなると、
普段からお腹を手で
触れて温める。

そんな自己治療も結構いい感じで
できてくると思う。

ミルクポットで
お湯など沸かした後、

鍋を手に持ってお腹などに当てる。
鍋を使ってする温熱の荒技もあります。



手のひらは
また違う良さがある。

動物を飼っている、特に生活を共に
している人ならきっとわかると思いますが、
動物には感情がある。

しかもかなり敏感で、飼い主の心境を
読んでいるように思うこともあります。

先日、暖かくなった手を猫に
当ててぐっすり眠り込んだのも、

何か安心感か快適なことを
感じ取ったからかもしれない。

こうして考えると、
動物であれ、動物病院に任せっきりではなく、

手当てのような本来の
人であれば誰もが持つ治癒能力を
何とか持っておきたいと思う。

もし、世の中が便利なものであふれ、
手当のような、人の力が失われているとするなら、
取り返すしかない。


使わない筋肉は衰える、
逆に使えば、鍛えられる。

という考えでいけば、
便利に疑問をもつ、あえて不便なものを選ぶ、
というのはいいかもしれません。

例えば、私は畑を借りているので、
多少の草管理はしないといけません。

電動の草刈機をつかわないのですが、
結構いけます。

たとえば、今日は、鎌を二本使って見るのはどうろうか、
と思ってやってみました。


ハッカの手作り虫除けスプレーとともに。
数百円の鎌でも、研げばよく切れ、作業は早い。

すると、断然早い。左右持ち帰るのではなく、交互で
使えば、電動を越えたか、とも言う速さで作業できました。

鎌の二刀流、って感じですが、
かなり早い。

ただ、これは使っていない筋肉を使ったと思うので、
明日はきっと筋肉痛だと思います。

よくわからない一例ですが、体を使うと良い運動にもなっている、
そういえば、野菜作りを体を使うことだけにすれば、
結構体も鍛えられる気がします。


自然の植物で感動する、そんな些細なことも、
何か良さはきっとある。

運動のことを考えなくても、普段していることが
運動になっている。

近所で、高圧の水吹きで何か掃除でもしているけど、
デッキブラシのようなもので、ゴシゴシやった方が、
結局、そのひとの血液の巡りもよくなる。

健康も掃除も同時にできると思う。

手当の能力が運動不足によって減っていったのか、
わかりません。 

ただ、何かの訓練か日常のこと、
もしかしたら、読経かもしれません。

日々のあった行いを怠った、辞めたため、とすれば、
やはり便利を切っていく必要はある気がしてきました。

買い物も、無言、あるいは、指一本で済ませる時代ですが、
電球ひとつ切れたとしても、
歩いて買いに行くのも
きっといい。

まったく無駄なようですが、
歩くことで、途中に何か思いつくかもしれない。

歩いているときにこそ見える、自然の景色がある。

自然に実った、あけび
ヒガンバナ

歩いていると、普通に見かけるものですが、
逆に言えば、歩かないと見えない。

花を見る回数が多ければ、何か感じることもきっと増える。

外に行けば、旬もわかる。汗もかくが、草木をみるだけでも
随分と気分がよくなる。

小さな感動でもきっと積み重なれば、
心身の影響も変わってくる。

無人で買い物、指先で買い物、確かに早い。

ただ、そこで失うもの、失われていく力も
あるように思う。

随分まえのことだけど、スマートフォンを持たない人に会ったことがある。
あって数分の会話で、完全に勝てない、負けた、と感じた。

自分より強いのは、動物は本能でわかるというが、
まさにそんな感じだったと思う。

便利を切って、以前していたことをする、

少なくとも、地方で感じているのは、車ばかり。
わずか数百メートル先の朝のゴミ捨てであっても、車を使う人は多い。

全体的に足を使う機会が
少ないように見える。

足を使えば、結局、自身の体の血液の流れはよくなるわけで、
しかも難しいことでもない。

費用もかからず、気分も変わる。

慣れれれば、快適です。

大規模な農家の方々が、どれくらい、畑や地面、土に触れているか
確かではないけど、

自家用野菜の家庭菜園程度の規模で
土にふれるような、作業もあるとないとでは、
随分と考えや行動も変わってくると思う。

もしかしたら、農薬や除草剤などを平気で
使う人は、自然に触れる機会が幼少期から
少ないのかもしれません。

触れるというのは、直接手に触れるような身近な距離で、
家で動物を飼うような、近い距離。
山菜を集めるようなことも。

ふと思えば、近辺でワラビやゼンマイ、ヤマブキ、その他
山椒、クリ、などを採取しているのは、
見かけるのは老夫婦一組のみ。


農地。山椒の畑でも始めるようだけど、農薬は多い。山椒で育つアゲハチョウも害虫扱い。
アゲハチョウはここ数年でかなり少なくなってきたと感じている。
この量なら、山椒は歩けば見つかりますが、きっと山に豊富にある山椒のことは
しらない。 山椒は特産品なのか、一箇所で栽培する傾向が強い。


山に自生している山椒。大きさはバラバラですが、
こちらの方が断然良いです。しかもあちこちに生えています。ただ、
知っている人はきっと少ない。
ほんの一粒で、ピリピリした味です。買わなくてもたくさんあります。
子供の頃、アゲハチョウを育てていたことがあります。
これは山の山椒や柑橘類につく種類のものですが、
ほとんど見かけなくなりました。おそらく大人になれる個体は少ない。
にんじんやセリにつくキアゲハも同様です。

子供の頃に昆虫に触れていた、飼っていた、というだけでも
大人になると、チョウへの見方も変わってくるかと思います。

土に触れない、自然に触れない、というだけで、
何か大切なものを失っているとなると、

便利を捨てる、自然を見るために歩く、
というだけで何か取り返すことができるのかもしれない。


歩けば、栗は拾える。
小さくとも味はこの上なく良い。
アケビはアンコのように甘い。
栗ご飯の材料もそろう。



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