自分の好きなものしか知らない人を好まない したがき

 僕はまだ、やり残したことがある。

・・

また親の嘘。詭弁。
手のひら返しの無責任に体力や精神力を奪われ、喰われる。

老害少女老婆が
「私も地獄やもん」
と言いだした。

またあのキョトンとした顔、脳死状態の馬鹿の顔。

僕は本当はこの顔が怖い。怒り狂ってしまうほど悲しい。

この顔だけ見れば、認知症の人のそのそれなのだ。
僕は母親を馬鹿にして、ガラス玉のような目玉して、と揶揄している訳ではない。

僕は、このままこいつの都合がいい解釈で、そんな事もあるよ、そんな事もあったよね、ふんふん、るんるん、と。
ハッピーエンドのように、話をすり替えさせない。それを許さない。

僕は二年前にも宣言している。

このまま、僕らしく、ガサッと全部纏めて、色々ある、そのそれらを一気に全部ひっくるめて、ハッピーエンドには、絶対に死んでもさせない。

そんな話の着地はさせない。僕は譲らない。

「絶望で完全に壊れる手前で、
生きるのも死ぬのも地獄の中で、野垂れ死ね」

これが僕の母親へのすべての、答えだ。

・・

この前、母と来年の話になり

「来年から仕事が増えるから、不動産屋としてやっていけるから!」

と母は僕を誘導、焚き付た。

それが綺麗に思惑が外れたのだろう。
そりゃそうだ。

虎の威を借る狐が、虎が引退するから利権を貰うとか、無理。
僕はそういう人間は好きじゃない。
そもそも、この人は僕と大きく違う。

あっちでこういい、こっちではああいい。
コウモリのような立ち回りをする。
僕はそういう人間は信用できない。

その場その場で物事や状況は変わるが、それでも、この人は異常者。

自分が主役の劇場のように周りを振り回す。
「私を見て」「私を認めて」と主演女優を気取り、それ以外は人の悪口や馬鹿にする話題と話の落ちしか出来ない。

周りを振り回して、その壊れていく周りを見ても、何も感じる事も無い。

キョトンと、我関せずで「何か?」みたいな顔でいる。

ここで弱みや、この人に声を求めてしまうと、終わり。
この人に支配されて、目が覚めるまでは、この人の犠牲者になる。

母は人間の、女の、腐ったような奴だ。

周りを壊し続けても、「私は悪くないもん」。
周りが消えていっても、「私は何も関係ないわ」。

家族が死んでも。

それでも、わからないんだよ。わかる気も無いし、オツムも無いのだ。

どこまでいってもわからないのだ。

自身の父親(僕の爺ちゃん)は死んだが、毒親問題は祖父と母親の間で解消する事も無く、じいちゃんは死んで、一抜けた状態。

一生、この少女老婆の情弱老害は、このまま息子殺しの親として残りの10年くらいを、地獄の中で死んでいけと思う。

悲劇のヒロインを気取って、気持ち良くなっている。
赤パン穿いて、癇癪を起こすだけの小学生が、
そのまま身体だけデカくなった、老婆。

自分一人で、喜んだり、燥いだり、怒ったり、嬉し気に、気持ちよく、一人劇場を延々と繰り返して、糞尿垂れ流して生活が成り立たなくなっても自分は間違ってない自分が正しいと、るんるん、ふんふん、とそのデカい図体振り回してクタバレ。

今日、母が
「金が無い、家を売らないといけない」
と言いだした。

お前のこの前の発言はどこ行ったんだ。
お前は昨日の事も忘れるほど馬鹿なのか?

お前は死ぬまで生き地獄で地獄を見ろ。

知的、発達、精神、人格の障がい者はお前だけだ。

毒親問題や機能不全家庭は代々続いている。
遺伝されている問題だというのは間違いない。

けど、知的・発達・人格は、母親が独自だと、僕は思っている。
これは証明できないけれど、カサンドラは、家族や、周りの人間を傷つけ、壊し続ける。

周りを壊しながら、散々ぶち壊し、荒れ果てた残骸を見て
亡くなった人たちの仏壇の前で

「私は悪くない」

と、言い続けるのが、こういう人間の正体。
この人の本当の姿。

毒親、機能不全家族、人格障害。
「発達障害:という名の「成長出来ていない障害」と僕は呼ぶ。

・・・・

意外と人は、自分の姿や過去を振り返ることは出来ても、自分が正しいと思っている事の、再確認、再検証は出来ていない。

僕もそうだった。僕もそうだ。

俯瞰して再度、違う角度や、視点を変えて見直す事をしていない、かもしれない。

再確認に必要な事は、結果が良くても悪くても
「自分が正しかった。だから」
と言ってしまうと、間違える。

それに考え方も視点も価値観も、同じ条件で、過去を振り返る事では意味が無い。それでは、ただ自分がした事を思い出して、悦に入っているだけだ。

それをするのが、完全には無理でも、極力努力したい。
するかしないかの選択肢は、するしかない。
この道の先には、ゆくゆくどころか、目の前にも辛い現実しかない。

まだ僕は次に向かいたい気持ちだけが、かろうじて残っている。

・・

僕から言える事は、自傷行為に未来は無い。

だから、誰しも自傷行為や依存行為をしながら生活している。

生きていたり死んだりもするけど、結局、結論は
「人間は死ねない、人間は死なない」
それだけだ。でも、今のままで済むとは思わない方が良い。


「俺は孤独なんだよ」
「俺は孤独で仕方が無いんだよ」

ずっと、そう言ってくる人がいる。

その人にはその人の言い分がある。こだわり、主張がある。

「みんなはわかってる」
「俺の事は皆見てるから分かっとる」

僕はオブラートに包むのが苦手なので下手な表現をする。

その人は、自分自身の事が、少しだけ、見えていないのかもしれない。

僕の声は届かない。
そして僕は声を、全部は、届けない。

人はここで人生が変わってくる事がある。絶対とは言わない。
でも、そういう時に、機会やチャンスがある。

人は一人では生きているようで、一人ではまだ生き辛い。

一人で生きているように見える人は、
見ている側が、そう見る事しか出来ないからだと思う。

本人はバランスよく適切に人付き合いをして社会とも繋がり、
自分の人生を大事にして、大切に生きているだけなのだ。

自分の人生を考えられず、自分を大切に出来ない内は、自分で語る人生や、日常感なんてものは浅はかなのかもしれない。

考える事でしか僕は変われない。

経験しても僕は馬鹿だから気が付かない事がいっぱい。
それが分かっているなら考えるしかないな、と思っているの。

人は、人から見限られたり、壁や距離を取られると、少しだけ孤独になる。

自分を過信して、更に、他人を勘違いしてはいけない。

僕にも心当たりがある。

自傷行為は、幸せの前借と言うより、ただただ現実から逃げているだけ。
それはどれだけ言葉を並べても否定することは出来ない。

そして、本人は気が付かない大きな問は、他人からは、自分が思い描いている自分や、理解して欲しい、伝えたい自分の事や話は相手には伝わらない。

そうは見てくれない。

世界は自分を主人公にはしてくれない。
自分を主人公にするのは自分と、自分を大切にしてくれる愛する人たちだ。


他人は他人だから、他人の事は分からない。
親だって家族だって他人なのだ。

「人間は一人で生まれて一人で死んでいく」
それは解るのに、愛の境界線を人は見誤る。


社会や他人との本当の関係性、人生の有限さ、思い知らされる。
突きつけられる。

白昼夢、現実逃避なんてしている時間や場合では無い。
僕は思う。

思うけれど、それが出来ない。思っていても、辛いものは辛い。
現実でも、何でもいいから。辛いものは辛い。

自分が変わっていく中で、その自分とどう向き合い、現実世界の社会の中でどうやって生きて死んでいくかを命懸けでやっていくしかない。

「死にたい」と言って何が悪い、消えたいと思って何が悪い。
罵倒し怒号を上げ何が悪い。

ただ、それが、それだけでは
「芸が無い」って事くらい僕は分かっている。

だから僕らは強く賢くならないと次に行きたくても行けない。
現実は甘くない。

「お金の重さは命よりも重くも無ければ軽くも無い」

ふと風が吹けば、魔が刺すのも、そんなものだ。

・・

僕は失った時間を取り戻す事に必死になった。

けれど、何度も言い続けたけれど、結局無理だと思った。
もう時間もお金も有限なものはもう残っていない。

可能性は無限大とか言わないで。
僕はそういうのが心底大嫌いだから。

人間は体一つ、時間は平等、現実は現実。
簡単に割り切れない。

人間がどれだけいくら頑張ったところで現実的に可能な事は限られてくる。

そう想うと、考えてしまうと、僕は今でも死にたくなる。

・・

大人が経験や後悔してきた事を、子供の僕らは同じ事を、初体験、として堂々を繰り返す。

長い長い人生中のあっという間のようだけど、無知無策で生きていられる時間は、実は長いようで短い。
それが解らないのも無知と言うより経験の差なのだと思う。

今から世界が、人間が、社会が経済が政治が環境が、生き方が変わったとしても。どれだけ情報が無限無尽蔵にあふれても。
ライフサイクルやスタイルが変わったとしても、人間のやっている事は、営みは変わらないと思う。

僕らは変わらないと思う。
人間関係に悩み、仕事でも悩み、怒り、不安になり、絶望する。

仕事が上手くいかなくなると体も壊れて。
何かのきっかけで、バランスが狂う。

生活する力が無くなると負の連鎖に陥る。
人を恨み、憎しみ、攻撃したくなる事も変わらないと思う。

いうかいわないかだけ、普通は言わないだけだ。

口にする言葉や内容は変わっても、やってる事はそう変わらない。
時代が変わっても、いわないだけで、人は変わっていない。

人間の本質なんて、所詮そんなもの、なので変わらないと僕は思う。

・・

それが、現実の姿や鏡だと思う。

人に振り回されて、傷ついて、不安になって、眠れなくなる。
そのうち眠らなくなって。

辛い辛いと言う事がアイデンティティになる。

何かに依存して、バランスもとれなくなって、病になり、薬物に溺れて、欲や人間関係で火傷して、金も時間も信用も失って。
傷をなめ合うだけの仲間を見つけて。

最後は一人になって、消えていく事すら出来ないだけの人生になる。

虫のように落ちぶれていく。

・・

いつまでこのままでいるんだよ、と自分で思う。
理由は、不安で、怖いから、ではないと思う。

自分の現実や限界を知るのが怖いのだ。

僕も、形や状況は違うけど、未だに不安や絶望や怒りに震えている。
大人げないなと思う。

自分でも「まだ馬鹿だな」と思う。

けれど痛い目を見れば、毎回いつか気が付けるようになった。

馬鹿だなって。俺、また馬鹿な事やってるな、って。

まじで、いい加減に気づけよ、って未だに思う。
僕らはまだ何も築けていないぞ。目を覚ませって。

僕らはいつか必ず会えるかもしれない。
笑い話になったら再会しよう。

・・

「自制をかけて、残りの人生を計算して走ろうとしている」

今はこの言葉が出てこない。今の今でも、僕は心が折れている。

もうさすがに分かっている。すべて分かっている。
この中途半端な醜態が、ありのままの現実。
残酷でもない現実。

社会は待ってくれない。
もうとっくに僕は一人の道を歩いている。

口にするのは楽で、読むのは大変。
考え続けるのも大変で苦労。
でも、書く事は、息を止めなければ上手く出来ない。

意地と負荷で、煙が上がりそうに毎日なっている。

これで変われるのだろうか。

今度は諦めの罠にかかって。
ゆっくりと絶望を抱えたまま生かされるだけの日々が来そうで怖い。

「心を戻そうとしてる、まあ無理だけど」

そう言う事を言っちゃダメだ。
書いても、言葉に、口にする時は強くありたい。

・・

僕に足りない、至らない事は、多くの自分とは違う考え方。
今の自分には無い価値観、多くの選択肢を知らない事だと思う。

大人は経験をして知っているから大人なのだ。
先人の声に生かされているのだ、忘れてないから大丈夫。

いざという時になれば、は、いざの時には準備が出来ていなという事だと思った。だから、それを少しでも出来るように経験をしておくのも人生だと思う。

その為には膨大な時間と、莫大な失う物、痛みで消えてしまいたい。
諦めなければいけない事も、年月と共に受け入れざるを得ない。

些細な事から大きな事まであるけど。
この先には、幸せな人生が待っていると思うしかない。

歯切れが悪いのは、オブラートに包むことが苦手で言葉に詰まるから。

けれど、端切れを良くして、誰かを攻撃したり傷付ける気も無い。
僕は僕を愛してくれるすべてを、端を切る事無く、本当は守りたい。

僕は、必ず出来る、と思う。

「ロックの何たるか」とは、無様ではいられない精神だ。

そして、少なからず、僕は、自分の線引きを死守しながら、大切なものを、手放す感覚も少しづつ理解している。

失敗は許されるけど、時間だけは、待ってくれない。
今日は暑い中、延々と車で移動しながら仕事をした。
でも、こんなのでは未来は無い。もう傷つきたくない。

少女よ 大きく飛べ 
真夜中が笑いだす頃 狂いだす頃に
大きく、大きく翔べ。
そうすれば 僕らの 完、全、勝、利、って。

これ、いつまで言えるんだろうな。って。

市販の完成品を見て、自分の才能と勘違いするのは、もう辞めようよ。

いい加減。

僕は最近、感情に任せた日記を書かなくなりました。

読んでくださる人のお陰です。
やはり人は人の力で成長し、人様のお陰で意識が続くのだと思います。

自分の思ったまま、勢いで書く事も少なくなりました。
あと、語感で言葉を選ばないようになっていました。

謝る事で保険をかけている気持ちは無いです。

でも、また見失うので、ごめんなさい。

・・

僕の文章は、悪い意味で言葉遊びをしてしまう所があります。

漢字の間違いも多いのですが、意図して変な日本語や漢字を使っています。
読みづらいと思います。

それは自分の中の語感が良さで文章を書いてしまうのが原因だと思います。言葉にした時の音の良さ、語呂のよさで書き切ってしまいます。

去年それを、仕事関係のメールで指摘、指導されました。

僕は日本語の使い方、位置が正しくないそうです。

そこに更に感情が乗ってしまうので、僕のメールは相手から見て、分かりづらいメールになるそうです。

あの時は、大切な未来を守る事だけに必死。
その辺りから、人に感謝する事を覚えた。

すべてにこうして勉強だと思うようになった。

今思い出そうとして、そのメールを探そうとしましたが、恥ずかしい。
その文章を見ると心が苦しくなる。
痛い痛い僕の間違った日本語、下手の説明や言葉は直している。

結果、少しだけ、本当に少しだけですが、変わったと思っています。

・・

ノンフィクションとフィクションの間。

偽善と嘘は書きたくない。
とはいえ僕はバランス感覚が良くないので、当たり障りが無い日記が書けません。

読んでくださる人に、僕を(僕も)同じ人間だと思ってもらいたいので、日記を書き始めて書き終わるまで。書こうと思ってから何時間、何日間か、その間は息を止めるように、考えています。

間違った勢いや、感情に身を任せるだけでは人は成長が出来ないと思います。

ぐっと息を飲み込んで、繋いで、堪えて。今ここに辿り着きます。

変わらない人は、そこが無いのでしょう。

自分のやりたい事と自分がすべき事が、自分軸の視点では、他者を介入させられない。どうしても自他の間に歪が、軋轢擦れ違う心と心が、生まれてしまうのだと思うのです。

やったらやり返される。

それは人間同士が共存する為には忘れると危ない事だと思う。

因果応報、自業自得みたいなもの。

自分がした事や、していた事は、いつか自分に形や相手は違っても返ってくる。同じような経験を今度は逆に自分が負う事になる。

負の連鎖みたいなものがそこで繰り返されるという事だと思う。

・・

僕は今のこの環境で居続ければ、当然起きる事や登場人物との諸々は同じような事の繰り返しだけで終わってしまう気がする。

環境を変えなければ人も変わらないし、人が変わらなくても、今自分がいる環境や自分自身が変わらなければ延々と同じことの延長線上になってしまう。

それでは面白く無い。

そうやって人は変化していくのですが、僕も同じように変化しなければ僕は消えていきそうな気がします。

舞台を変えなければ。

まだ死にたくない。

僕は心の補強が上手いらしい。

ダメダメ。

そうやって未来に期待や、過度な自信を持っちゃダメ。

俺もお前も、死んでないだけ。
殺されてないだけだ。

・・

人が変わる為には、24時間365日、その現実と向き合い続けなければ変われない。僕はそう思っている。これは僕の一例。僕の経験談。

一瞬の、一過性の、一時の経験では何も変われない。

「ひと時の至福と共感を得て、お前らどうやって生きる。自分から逃げるな」

「約40年間の労働から、俺も、お前も、ただそうやって逃げているだけじゃないか!」

僕はまだ生きる。

・・

こんな僕でも現実を知り、歳を取った。

まだ愛や、魂の距離感、自分が安心できる居場所はまだ見えていない。

けれど、忘れてはいない。
僕はまだ生きていられる。


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