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日々更新し続ける僕らの日常

僕は、あの一件から「死へのハードル」が高くなったと言っている。

そもそも「死」という存在は考えて答えが出せるものでは無いし。
ましてや「自死(自殺)」なんてのは無縁でありたいものだと思う。

けれど僕は今でも「死にたい」という気持ちは変わらずにある。


これからの時代、僕らは【物事を冷静に見れる世代】だと言いたいのだけど、それと同時に【孤独と付き合っていく世代】だとも言いたい。

自分の最期、死に場所、死に際、死に目と。
そういうものを今までの世代や人たちよりも、
もっと意識せざるを得ない時代や僕らの世代だと思う。

世界が変わり続けるように僕らも変り続けているのだ。嫌でも。
それが幸か不幸か答えは誰にも解らないのだけど。
嫌でも最後は気がつくのかと思う。嫌か否。

最後はもう「今の自分ではない自分」がそこにいるのだとも思うのよ。


いかがお過ごし? 大阪からやって参りました。そして東京を経て、
福岡に憧れて、山口に夢見て生きて参りました。
マイネイムイズナンバーガールです。


感化されたらまた眠らなくなる。

ようはキャパシティを振り切るのが僕のよくある日常なのだ。

そしてこれからもやってしまうであろう性格、気質なのです。

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死に至る病に至る過程には、不安や孤独があるのです。

そこにやれ病名をつけるのは勝手で、とても便利。本当に都合のいい言葉なのですが、人間には、僕や君にも、理解できない、想像と予測も想いもよらない、一戦も二線も超えた世界や奴らがいるのです。

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僕はテレビが見れない。理由は、「もしかしたら大阪が映るかもしれないから」。想い出がある場所、懐かしい場所が映るかもしれないから。

山口県のニュースや情報が映るかもしれない。

それは楽しい話題でも、悲しいニュースでもなく、兎に角、僕は僕に関する昔の何かがテレビで映し出されるのが不安なのです。
「苦しくなる」
だからもう僕は素直に、テレビもラジオも雑誌も何も読めないのです。
見れない。聞けない。そして僕は誰かに愛されたい。


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悪魔のキッス状態が更に身近になるこの時代。
人の感情なんてコントロールできないのよ。

僕が君に悪意も殺意も出せないのは、僕はお前に、僕は君に殺されたと謳い叫びたいのだけど、それをしないのは、ただ僕が今までの人生「贖罪の人生」を謳っていたから、そこで人間の理性が、他人への悪意や殺意に歯止めを聞かせているだけで、僕は僕の顔はもう悪魔のそのそれにもうとっくになっているの。

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どこか同じような僕ら。

どこか似たような僕ら。

似たり寄ったり、僕も同じ。ついつい感情のまま身を振り切っている。
だから君が不安定な時に感情をそのまま口走ってしまって、その結果。
僕らの関係や繋がりをご破算にしたり終わらせてしまったりする。

そして後悔や現実から逃げ出したくなって布団か、ベッドの中。
あるいは誰も知らない場所に逃げたくなる気持ち。

それはよくわかるよ。


所詮は人間。所詮は他人。
人の気持ちはコントロールできない。
愛って悲しい。想い出はいつも悲しい。


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精神科医/産業医
報告
今回は医師とスタッフが弔問のために訪問しているので、故人とは治療などで関わりがあったのでしょう。

大切な人を失った遺族の悲嘆反応は、悲しみだけではなく現実を受け入れることができずに、無力感、罪悪感、孤独、怒り、苛立ちなどが一気に襲ってきます。この怒りを自分にぶつける人もいますが、故人と関わりのあった医師や教師などの専門家と呼ばれる人にぶつけることはよくあります。

死因に医療ミス等がなかったとしても『もっと出来ることがあったのでは…もっと早く気づけたのでは…』という気持ちが先行します。遺族自身も、それが不本意で見当違いな怒りだと分かっていても、どこかに吐き出さないと自分の心の中だけでは昇華しきれないのです。

そのため、医師のなかでは弔問に行くことは礼儀の一つと考える人もいますが、トラブルになる可能性があるため、決して落ち度がなくても命日から日が浅い時は弔問しないと決めてる人もいます。


一般に、立てこもり犯が、生活が破綻するなど絶望感に襲われていたケースは、よくあるパターンです。

通常の犯罪者は、犯罪の成功(利得を得て逃げ切る)を考えますが、感情的になって起こす立てこもり事件では、成功はありません。打算的な計算もできず、やけになった犯罪が立てこもりです。

別の報道によると、医師に謝らせたかったと供述していますが、人は怒りに我を忘れると、問題解決よりも相手をやっつけることを優先し、破滅的な行為に至ります。

死にたい思いを防ぐことは、自殺予防だけでなく、自暴自棄になった凶悪事件、拡大自殺的な周囲を巻き込んだ事件を防ぐことにもつながります。

死にたい思いは、気の弱い人の悲しみから生まれるだけでなく、気の強い人の乱暴な言動からも起こります。怒りに満ち、医者に理不尽なクレームをつける人は、悪い人であると同時に、心理学的には傷ついた人であり、心の癒しが防犯にもなるでしょう。

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「現実」と「虚像」があると僕は想う。

僕が語る僕は「虚像」、人から見た僕は「虚像」、僕が語りたくない認めたくない受け止めも受け入れもしたくない事実は「実像」、それは嘘も事実も噂も実体も現実も妄想も入り乱れた「真実」みたいなものだ。

僕は君が好き。そして そんな君は「嘘、偽りみたいなもの」。

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やはり僕は僕が生きてきた世界や人生の中で共感してしまうのは
「悪魔のキッス」だ。

所詮は人間、所詮は他人、所詮は動物、所詮は所詮は。

やっている事は そう大して変わらないし、社会は群像しようが、意識しなかろうが、人間や人が行っている営みは そう大した事でもない。

たいそれた事でもないとは言わない。

いつ何処で誰が何故、何の為に、どのようにして生きている生きて来たのなんてのは、人生色々なんて綺麗事で片付けられるようなものじゃない。

だから美しくも醜くもないのよ、きっと。

そんなものだ。そんなもんだって。そんなもんなんだって。


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言いたい事や話は山のよう、尽きない。語り明かせない。


その上、僕らは試されているのだ。

どう生きるか。 そして僕から見た君の存在の意義も。

僕にとって君が大切なら、君が僕を大切にしてくれているなら愛そう。
いつか逢おう。いつか会おう。

そうやって取捨選別、判断しなければもう次は無いのだと思い知った。

「君子危うきに近寄らず」とは、さて はて。

僕がこれから生きていく道は、まさに

「森が広大過ぎて、森に呼ばれしまいそうですけど、入っちゃいけないよって所は入っちゃいけないよ」

そんな感じなんだろうと思う。 
人間と、僕の道を外さないようにしたい。
ようは法律と同じように、己の正義も守れって事なんだと思う。

だから、僕らはもうそんな所には居ないし、
もうそんな道は通り過ぎてきたからと言えるように、堂々としていたい。



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そういえば、最近僕はこの動画をよく見ていて、内容を素直に聞いている。

少しは楽になるんじゃないかな。

生きるのが辛くて、それで今 変わりたい力が少しでもある人は、

色々探してみたらどうだろうか。


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