あこがれの職業は修験者かもしれない、という話〜内山節『共同体の基礎理論』
内山さんというと、僕は、博士課程に居た2007年の新書『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』で初めて触れたくらいだけど、群馬県上野村に住んで地域づくり活動をする経験から様々な主張を発信されている方で、Wikipediaで経歴を拝見していると、もう70年代から優れた著作を多数出されているすげー人なのな。
本書はそんな内山さんが、戦後社会学の巨峰、大塚久雄の同タイトルを、あえて名乗って書かれた、文字通り基礎理論となるような本を目指されているんだとか。
本書の中で面白いなと思ったところをいくつか。
伊藤整『近代日本人の発想の諸形式』によれば、西洋の個人の確立とは「あなたと対する私」の確立である。これは、他者と自分との間に水平的な関係を想定した形式を模範とする。それに対して、日本の個人の確立は「他人はどうでもよくて、自分の内面を掘り下げ、自分の奥底にある自分を確かめる」という形式を模範とするのだという。つまり日本では、自分自身の表面と核心との間にある、垂直的な関係を想定した形式になる(P58)。
だから日本文化に影響された私達は、例えば何か製品を作るときでも、それが「他者に好まれ、売れるかどうか」とかではなく、職人的、変態的な技術の深まりを目指してしまうし、そういうものをかっこいいと感じてしまう。あるいは、他人の目に媚びて深まりに肉薄していない製品に軽薄なものを感じてしまう。これが、いわゆる日本のガラパゴス的な「異常に高度な技術なんだけど、どこで売れるの」という状況を生み出しやすい文化的背景なわけだ。
ただ、これは「孤立主義」とは異なると内山さんはいう。「世界を拒否し、孤立していればいいじゃん」という話ではないんだね。むしろ逆で、「私達は、世界や社会の中で、未熟なままだと、自然体では生きられない」という観念があるんだそうだ。僕らが生きている世界というのは、常に頑張って特殊な努力をし続けないと生きられない、そういう困難な世界観なんだね。で、頑張る、なんていう意識的な努力は、気を抜いたり、元気がなくなるとできなくなるわけで、そうすると、即、死だ。「孤立しても生きられるよね」なんていうほど、楽観的な世界観ではないんですよ。
これは多分、日本が地震と台風が毎年来るハードな土地柄であったことに起因するんじゃないかと想像する。頑張って家を建て直し続け、堤防を修復しつづけないと、肩の力を抜いて、リラックスして生きていけないんですよ。
この、「肩の力を抜いた、リラックスした有り様」というのを、どうも本書では、「自然(じねん)」と呼んでいるように僕には読める。僕らは「じねん」に生きていきたい。それはいかに可能か。僕らも自然の一部なのだとすると、その答えは、自分の中にあるはずだ。だから自分の中に潜る。その中に、周囲の環境と一体化することのできる、自然な自分(じねん)の有り様を模索する。漫画などのフィクションでも、「じねん」を極めた達人は、緊張しないまま鋭い技が繰り出せるじゃないすか。あと、死ぬと自然に還るんですよ。スター・ウォーズのジェダイがそうよね。死ぬと、まるで空気の中に溶けていくかのように消えていく。そういう世界観なんですね。
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