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人文学にできることー無力感を認めながらも前を向くー

 オンラインでの授業が始まってから、約1か月。3月に、前期は、オンラインでの授業になるらしいと聞いたときにはかなり不安だったけれど、ここ1か月で大学への愛がむしろ高まりつつある。

大学の対応
 オンライン授業が始まったときは、大学のHPへのアクセスが集中して、システムダウンしていたけれど、予想していたよりもオンラインの授業はスムーズに始まった。自治体と比較するのは、生徒数や運営方法がかなり異なるから適切ではないけれど、小中高がいまだに休校していたり、感染の不安を抱えながら登校していたりするなかで、オンラインの授業を4月下旬に開始できていたのだから、その対応の早さは本当にすごいと思う。大学職員の方々、本当にありがとうございます。
 行動指針もかなり明確で、どの段階であればどんな活動ができるのか、はっきりと示されている。図書館も研究活動に必要な場合は予約すれば本を受け取れるし、本を取りに行けない人には2冊×2回まで郵送で送ってくれるという。普段は学内でしかアクセスできない学術サイトにもアクセス可能だ。オンラインの環境が整わない生徒には、無償で機器を貸し出してくれる。そして、学生たちに対面でのアルバイトを全面禁止させる代わりに、学内でオンラインでできる仕事を用意してもいる。
 今までに貯めていたお金がほとんどすべて学費に消えていくので、授業料安くならないかな…と思っていたけれど、大学が、これだけの環境をこのスピード感で用意してくれていて、TAのアルバイトもさせてもらえているのだから、文句を言わずに勉強しようという気持ちになっている。

オンライン授業のメリット
 オンラインの授業は、登校する必要がないから通学時間がかからない。今まで1限の授業に出るには6時くらいに家を出なければいけなかったけれど、0秒で授業にアクセスできる。学部生の頃、疲れがたまってくると、家がハウルの動く城みたいに歩いてきてくれないかな、と妄想をしていたけれど、今は家の中に大学がある。
 それに、自分の好きなときに授業を受けられる。リアルタイムの授業も多いが、いくつかの授業はオンデマンド式。自分の予定に合わせて、好きなときに授業が受けられる。眠い時間に無理やり授業を受けなくてもいいし、集中が途切れてきたら停止できる。
 そして、ごはんやおやつを食べながら授業が受けてもいい。リアルタイムの授業も、こちらの姿は見せないものが多いので、お腹が空いたときにいつでも食べられる。授業中によくお腹が鳴っていたけれど、その心配もいらない。

今のところのデメリットは、肩こりがひどいのと雑談相手がいないことかな。

個性豊かなオンライン授業
 大学の教授たちは、もともとちょっと世間離れした人や、変わった人が多いけれど、オンライン授業になってから、それが炸裂している。
 オンライン授業を、youtuberのようにこなす先生がいるかと思えば、ラジオのパーソナリティーになりきる先生もいる。youtuber先生は、授業が始まる前に自作のアニメーション動画を流し、バックミュージックを流しながら授業する。一番初めの授業で、「youtuberのような決めポーズはちょっと気恥しいので」と言ってしてくれなかったけれど、もしかしたらポーズも練習していたのかもしれない。先日その先生は、授業動画をyoutubeに載せ始めたから、本当にyoutuberになってしまった。ラジオのパーソナリティー先生は、学生のオンライン環境や健康状態(肩こり、目の酷使)を考慮しつつ、ラジオのパーソナリティーになることが夢だったからといって、音声だけで授業をする。その先生は、生徒を「リスナーの皆さん」と呼びかけ、生徒からの授業の感想を「リスナーからのお便りが届いています」と紹介し、ノリノリでラジオ番組を作っている。この逆境の中で、先生自ら夢を叶えてしまうなんて、なんて自由で、なんて素敵なんだろう!先生たちは、今の状況にとって人文学は無力でしかないと認めている。でも、自由に生きている(ように見える)先生たちの姿は、私たちを元気にさせてくれる。
 でも、先生たちがパワフルすぎて、どの授業も中身がぎっしりになって、課題も増えている気がする(課題はもうちょっと減らしてほしい)。授業のクオリティーは、対面での授業より上がっているのではないだろうかと思う。

大学院の授業の一例:社会学における感情
 大学院の授業は、専門的かつ数少なくて、自身の研究(西洋美術史)が主になるのかと思っていたが、専門外の授業もあるし、数もそれなりに多い。その中に、文学研究科の各専攻の先生たちがオムニバス形式でなさる授業が週に2回ある。学部の1年生のときにも専攻を選ぶためにそのような授業が開講されていたが、今さらなぜこのようなゼネラリストを育てるような科目を開講しているのか。でも、授業を受けているとそんな疑問が吹き飛ぶほど、どの授業も面白くて、授業を受けながら一人でにやにやしている(こういうときに雑談相手がいないことが、とても悲しい。)

 昨日は、社会学における感情についての講義があった(以下はその感想)。
 「感情」というと、「感情的」「感情に走る」というように、理性ではなく、自分の思うままの心に突き動かされるものと想像しがちであるが、その講義では、社会で生きる人間にとって感情は非常に制限されているものなのだと学んだ。特に、他者だけでなく、自分の心もごまかす「深層演技」を迫られる場面が多いということに共感した。大きな物語のない現代は、演じるにしても確固たる基準がなく、絶えずその場その場に合った演技を求められる「インフォーマル化」した世界なのだという(注1)。
 それを聞いて、特に、ソーシャルメディア(注2)の発達は、この自己規制を助長しているように感じる。ソーシャルメディアによって、自分の意見を発することが容易になり、人々はソーシャルメディアに悪く書かれないよう、互いに気を使いながら行動や発言することを迫られる。また、ソーシャルメディアには、基本的に自己顕示欲が溢れていると感じるが、親しい人に対してはその自己顕示欲を「いいね」と感じているように振舞う必要がある。だが、その自己顕示欲があからさまだと「自慢だ」と責められ、自己顕示欲をほのめかすと「匂わせだ」と非難されることもある。まさに、確固たる基準のない、「インフォーマル化」した世界である。
 「自由」だと思っていた感情が本当はこれほど制限されたものであったと知り、これまで漠然と感じていた生きづらさが解消されたとまでは言わないが、その生きづらさを抱えることがそれほどおかしなことではないと思えた。

 最近、私はインスタグラムやFacebookをまったく見ていない。私の友人は、最近結婚したり、赤ちゃんが生まれたりして幸せいっぱいである。一方、私は、埼玉に住む彼氏と、もう3か月近く会っていない。だから、彼女たちの投稿は、(幸せをおすそ分けしようとしてくれているのかもしれないけれど)正直見ているとちょっと苦しくなる。今までは、それを自立していない自分自身と比べてしまうからだと思っていたけれど、「友達の幸せは、私の幸せ」と思わなければ、と自分の感情を騙そうとしていたせいでもあるのだと気づいた。そう思わなければいけないということが、あまりにも当たり前になっていた。その「当たり前」を講義では「静かな強制」と呼んでいて、実に言い当てていると感じた。声高に叫ばれるわけではない、その暗黙のルールは、かなりの強制力を有してもいるのだ。
 友達に幸せになってほしいとは思うが、やっぱり友達の幸せは、友達の幸せでしかない。それを認めてしまうと、自分がすごく冷たい人間に思えてしまうけれど、自分自身の感情を必要以上に騙さなくてもいいような気がする。

人文学は、すぐに何かの役に立つものではないけれど、こうやって世界や、自分の置かれた立場を少し違う角度で見せてくれる。

だから、人文学は、やめられない。


(注1)アーリー・ラッセル・ホックシールド著、石川准・室伏亜紀訳『管理される心―感情が商品になるとき』世界思想社、2000年
(注2)別の英語の講義でSNSは、和製英語だと教わったのでちょっと長いけれどこう呼ぶ。