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どこでも住めるとしても、きっと君の隣を選んでしまう。

私が、初めて自分で決めた場所に暮らしたのは、大学4年生のときのことだった。

それまでずっと実家に暮らしていたが、大学で西洋美術史を学ぶうちに、本場で作品と対峙しながら研究をしてみたい、という気持ちが高まっていた。

はやる気持ちを抑えきれなかった私は、2015年の夏、ヴェネツィアへと飛び立った。

どうして、ヴェネツィアにしたの?

と留学する前も、留学してからも、多くの人に訊かれた。

ヴェネツィアの美術が好きだから、ヴェネツィア・ビエンナーレを観てみたかったから、ヴェネツィアの歴史を学んでいるうちに今の日本と重なったから。もっともらしい理由を話すと、相手は納得してくれた。

でも、本当は、なんとなく、決めた。

写真集の中の、ヴェネツィアの夕陽があまりにもきれいだった。
須賀敦子さんや塩野七生さんの綴るヴェネツィアの街に憧れていた。
ターナーが描いたヴェネツィアのポストカードをいつも部屋に飾ってた。

説得力に欠ける、そんな小さな理由の集合体が、私をヴェネツィアへと誘った。

ヴェネツィアの街は、思い描いていた街とは少し違っていた。

美しき水の都は、実際には、いつも淀んだ水の匂いがするし、建物は傾いているし、たくさんのゴミが落ちているし、鳩も鼠もたくさんいる。


だけど、私がその街に幻滅することはなかった。

夕陽に照らされたヴェネツィアの街は、息をのむほど美しかった。

いつも、どこからか教会の鐘の音と波の音が聞こえた。

頽廃的という言葉が似あう、影のあるところも嫌いじゃなかった。

陽気な人たちが、内気な私のことを輪に入れてくれた。広場でみんなでワインやスプリッツを呑んで笑った。


ヴェネツィアの街を歩いていると、ひたひたと充足感に包まれるような気がした。


愛しのヴェネツィア


けれど、私はそこに暮らしはじめて4か月が過ぎた頃、急に帰りたくなった。

日本に、というよりも、彼のいる場所、に。


恋人が、年末に日本からやってきてくれた。

日本が恋しくなっているだろう私のために、日本の食べ物やら、私が愛してやまないタオルケットやらをスーツケースいっぱいに詰め込んで。


私は、はりきってヴェネツィアの街を彼に紹介した。

ヴェネツィアでいちばんおいしいお店で、一緒にティラミスを食べた。
ハムやチーズをたくさん買って、料理を振舞った。
夕景を観ながら、運河沿いを散歩した。

彼と一緒だと、何をしていても、びっくりするくらい楽しかった。

すごく、すごく、楽しくて、ちょっと楽しすぎた。

楽しいはずなのに、なぜかうっかり涙が出そうになった。


楽しかった時間はあっという間に過ぎ去って、私はひとりヴェネツィアに残された。

ヴェネツィアは、相変わらず美しい街だったけれど、彼のいないヴェネツィアは、少し色が薄くなったような気がした。

彼がいたのは、たった数日間。
それでも、ヴェネツィアに、彼と過ごした思い出の場所ができてしまって、そこを一人で通ると、無性に寂しくなった。

私は、ヴェネツィアが大好きだった。

でも、ヴェネツィアは、「彼がいる場所」には敵わなかった。

留学期間を終えてヴェネツィアを去るとき、後ろ髪を引かれずにはいられなかったけれど、それでも前を向けたのは、彼に会えると思えたからだ。



それから、月日は過ぎて、私はそのときの彼と結婚した。

昨年、私は彼の住む街に引っ越してきた。


私は、ヴェネツィアと同じくらい、実家のある地元・仙台が好きだ。
だから、昨年地元を離れるときは、ヴェネツィアを離れるときと同じように、胸が苦しかった。

でも、大学時代に彼と出会って、仙台でたくさんの思い出ができたから、彼が大学卒業後に仙台を離れてからは、仙台の街もどこか色褪せてしまった。

幼いころから慣れ親しんだ街なのに、彼のいない仙台はどこかよそよそしかった。

母校の前を通りかかって、思い出がたしかにそこにあっても、もう自分の居るべき場所ではないのだと感じるときのように。


私がいま暮らしている街は、昨年まで、私にとってなんの思い入れも思い出もない場所だった。

だけど、この街は、いまの私にとっては、帰るべき場所であり、どこよりも自分が自分に還れる場所になった。


毎朝、この街の片隅で、私は目覚める。
隣では夫となった彼がすやすやと気持ちよさそうに寝ている。

私がお弁当をつくっていると、彼は「おはよ」と少し照れくさそうに寝ぐせをぴょこぴょこさせながら起きてくる。

私がお味噌汁をつくっている間、眠たそうな顔で彼は納豆を混ぜている。

彼は、慌ただしく準備をして、ばたばた出ていくけれど、出かけ間際にハグをするのは忘れない。
彼は、ハグをするとき、いつも「ぎゅ~」と言う。

夕方、彼がもう少しで帰ってくるかなと思いながら、夕食の用意をするのが好きだ。

彼が帰ってくると、部屋の中が明るくなるような気がする。

夕食を、彼はいつも本当においしそうに食べる。
ほっぺに、りすのようにごはんを詰め込みながら。

お風呂からあがると、ほかほかしたままおふとんに潜り込む。
ときどき、二人で寝る前に映画を観る。

そんな、なんてことのない毎日。

だけど、愛しくてしかたのない毎日だ。


そんな毎日がつづく保証なんて、どこにもない。

きっと、どこにもないからこそ、大切にしたいんだと思う。


私のどんなところが好きなの?と彼に尋ねたとき、

彼は、「ぼくといると、しあわせそうにしてくれるところ」と答えた。

だって、それは君がしあわせにしてくれるからだよ、と私は思った。


これから、私たちがどんな人生を歩むのか、どこでどんな暮らしをするのか、わからない。

でも、これから先も、私は、彼の隣でしあわせに笑っていたい。


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