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水色の朝

朝起きたときから、目のまえの景色がうっすらと青みがかっていた。


頭にはもやがかかったようで思考がまとまらず、身体も重い。
なんとか身体を起こし、朝ごはんを食べたものの、またすぐにソファーに横たわる。

朝のテレビは、ニュース、ドラマ、生活情報番組へと移り変わってゆく。

テレビを消したい、と思いながらも、リモコンを探すことすら面倒で、ソファーに寝ころんだまま、顔をテレビから背ける。
ソファーの背もたれと向き合いながら、目を閉じ、足元に転がるブランケットを引きずり上げて頭までかぶる。

ブランケットをかぶっても、テレビの音は小さくならない。
うるさい、うるさい、と誰もいない部屋で呟いていると、涙がぽろぽろと溢れてくる。

涙を湛えたまま、ぎゅっと目をつぶる。
いつのまにか睡りに落ちていた。

起きたときには、目のまわりがカピカピになっていた。
目をまともに開けない状態では何もできないから、しかたなく、起き上がり、顔を洗う。
リモコンを探し出し、ようやくテレビを消す。

それが、水色の朝にできる、精一杯のことだった。


突然、スマホが鳴る。LINEの通知音だ。
どうせ企業アカウントからの広告メッセージだろう、と思いながらも、ソファーサイドで充電していたスマホに手を伸ばす。

メッセージの差出人は、友人だった。

しばらくぶりの連絡だ。

けれど、友人からのメッセージには、「ひさしぶり。」とも「元気?」とも書かれていない。

そのことに少し安堵する。
友人と連絡を取るのが、久しぶりであることを実感したくなかったし、元気でもないのに元気だよと答えるのに気が引けたから。

友人からのメッセージは、コンビニの回し者のような内容だった。

友人は、新発売の期間限定スイーツがどれほどおいしいかを延々と語っている。

3スクロールくらいの文章がつづく。
企業アカウントだって、こんなに長い広告を書かないだろう。

彼女の熱量に押され、とりあえず、「食べてみようかな」、と返信を書く。

「食べたら感想聞かせて!」と友人から返信が届く。

なにか本題がこのあとにつづくのだろうと、しばらく画面を見ていたが、友人からのメッセージはそこで途絶えた。

彼女は、コンビニの期間限定スイーツのおいしさを教えてくれただけだった。

ちなみに彼女は、コンビニに勤めているわけではなく、同じ年に入庁した市立図書館の司書である。



コンビニのスイーツに、それほど心惹かれたわけではなかった。

けれど、友人からのメッセージが来てから15分後、私はコンビニに向かって、自転車を漕いでいた。

ソファーを抜け出して、薄化粧して、着替えて、自転車を漕ぐ。

日差しを、久しぶりに浴びた。

外の空気を、久しぶりに吸い込んだ。


コンビニで、無事に目当てのスイーツを買い、家に帰ってきてから食べた。

そのスイーツは、甘かった。
いや、私には、甘すぎた。

コンビニスイーツは、ロールケーキとか、チーズケーキとか、名作スイーツがたくさんあるが、これは私にはちょっと甘すぎる。

そういえば、友人は大がつくほどの甘党だったということを思いだす。

「甘ければ、甘いほどおいしい」という友人の持論を思い返していたら、ふっと笑えた。

笑ったのは、いつぶりだろうか。


せっかく買ってきたスイーツは、あまり私好みではなかった。

だけど、それを食べたあと、目のまえの景色は、もう水色に沈んではいなかった。








「水色の朝」の冒頭を読んで、水色の朝とは、鬱病のことだろうか、双極性障害?適応障害?などと考えてくださった方もいらっしゃるかもしれません。

自分も体験したことがあるな、と思われた方も、もしかしたら現在進行形で苦しんでいらっしゃる方もいるかもしれません。

私は、数年前、精神科で「抑鬱状態」と診断されました。

そのときは、病名もつかない、ただの「状態」に苦しんでいるなんて、自分はなんと甘えているんだろう、と思ってしまって、すごく苦しかった。

病気にはそれに合わせた治療法がありますから、病気を分類することはもちろん必要なことなのですが、ここではあえて一つの診断名にはせず、「水色の朝」とぼやかして表現しました。

私の経験した「水色の朝」は、多くの病気に共通する症状でもあると思うから。
そして、名前のない病に苦しんでいる人もいるかもしれない、と思うから。

その状態に苦しみ始めたのは、五月の終わり。

「五月病」という言葉は、揶揄するように使われることが多いですが、変化の激しいこの時期は、身体的も、精神的にもつらい時期なのではないかと思います。

私は、こころを病んでいることを、しばらく友人には言えずにいました。
相手に気を遣わせてしまうかもしれないという配慮もありましたが、自分自身のための意地や見栄もありました。

でも、私が病んでいる間にも、遊びに誘ってくれた友人には本当のことを打ち明けました。

今回登場した友人もその一人です。

こころを病んだ友人に連絡をとるのは、難しいことだと思います。
私だったら、何と言葉をかけていいか悩んだ挙句、なにも言えないままだったかもしれません。

病気によっても、人によっても、どう言葉をかけるのが正解かは変わるのだと思います。

だけど、あのとき連絡をとってくれた友人のメッセージに、私は救われました。
きっと、友人も悩んだことでしょう。
それでも、いつもどおりの、なんてことのないメッセージを彼女は送り続けてくれました。

彼女は、私に言葉をかけることを諦めないでくれた。

私が、私自身のことを見限ろうとしていたときに、彼女は私のことをあきらめずにいてくれました。彼女が一歩踏み出してくれたから、私も外へ出ることができました。


誰にでも、水色の朝が訪れる可能性はあると思います。

私自身、自分がこころを病むとは思っていませんでした。

でも、こころを病むというのは特別珍しいことではなくて、あのときの状態からは回復したいまでも、私は、「病気」ではない生理のときや、低気圧のときに、こんな状態になることがあります。

身近な人に、水色の朝が訪れることもあるかもしれません。

そんなときに、かけてあげる言葉の正解を私は知りません。
言葉をかけないことが正解のときだってあると思います。

けれど、友人が私にしてくれたように、私は、大切な人に想いを伝えることを諦めずにいたいと思うのです。


ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指すのが、ことばだ。

長田弘「花を持って、会いにゆく」より一部引用。
長田弘『長田弘全詩集』みすず書房、2015年、546頁。


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