軽井沢へ「旬」の旅
新幹線に乗ったら、まずは座席に備え付けの冊子を繰る。
目当ては、巻頭にあるエッセイ。
ほんの2頁の短い文章だが、これを読むと、さあ旅に出るんだという気分になる。
文章の書き手は、沢木耕太郎さんから柚月裕子さんにバトンタッチされたが、読後の静かな高揚感は変わらない。
今回のエッセイのテーマは、「旬」の旅だった。
夏だから海、秋だから紅葉というような旬の話ではなく、行き先には自分にとっての旬があるのかもしれないという話。
若い頃に憧れていたハワイを老後に訪れてみたら、マリンスポーツを楽しむ気にもなれず、カロリー高めの料理にも馴染めなかった人がいたという。でも、その人は、ハワイに行ったことで、いまの自分が本当に行きたい場所に気づけたらしい。
さて、今回の私たちの旅は旬の旅となるだろうか。
新幹線に乗れば、ほんのわずかな時間で目的地へと到着する近場への一泊二日の旅。
旅先で歩き回らなくとも、宿の周辺でのんびりと過ごせそうな場所を選んだ。
たしかに、平日は仕事に疲れ、休みの日にまで疲れるようなことを極力したくない私たちにとって、これはまさしく旬の旅かもしれないな、と多少自嘲気味に思う。
新幹線が目的地に到着する。
駅に降り立つと、涼やかな風が身体を吹き抜けていく。人工的なエアコンの風ではつくり出せない、緑豊かな場所特有の心地よい風。
新幹線に乗る前に感じていた蒸し暑さが嘘のよう。
自宅から、そう遠く離れていない場所なのに、別世界だ。
普段見ている世界がすべてではないこと、その外側に流れる時間があること、そんなことを感じたくて、私は旅に出たのかもしれない。
駅で、宿からの迎えのバスに乗る。
今回の宿は、ブレストンコート。星野リゾートの系列ホテルだ。
まだお昼頃で、チェックインはできないから、荷物だけ預けてハルニレテラスへ行く。
ハルニレテラスには、おいしそうなお店、おしゃれな雑貨を扱うお店がいくつもある。
ワインとお惣菜のお店でランチをとる。
まずは、ワインで乾杯した。
ランチメニューのドリンクにワインの選択肢があった。ワイン、頼んじゃう?と夫に聞くと、頼まない理由がないよねと夫はほほ笑む。
そうだ、今日は運転しなくていいし、今夜は泊まりだし、明日も休みだ。それに、こんなに心地よい風が吹いている場所で呑めるのだ。たしかに、頼まない理由はない。
テラス席で、緑を眺め、川のせせらぎを聴きながら、ワインを呑むなんて、なんて贅沢なんだろう。
喉よりも心が潤っていくような気がする。
夫はラザニアを、私はローストチキンを注文した。
パリッと香ばしく焼けたお肉も、つけ合わせのブルーチーズの濃厚なポテトサラダも、ワインによく合う。
食後は、ぷらぷらと雑貨屋さんを覗く。
鳥さんの模様のポーチを買った。
かわいいポーチを求めて探し歩いていたときには見つからなかったのに、こういうふとしたときに素敵なものに出会ってしまう不思議。
チェックイン前でもお風呂に入れるということで、トンボの湯へ。
昼下がりの温泉は人がほとんどいなかった。窓の外の木々は新緑の色に染まる。軽井沢には何度か来ているが、初夏に訪れるのは初めて。おそらく、このやわらかな緑の見られる初夏は軽井沢が一年のなかでもっとも美しい時期なのでは。
そういう意味でも、この旅はまさしく旬の旅だった。
湯上がりに、ハルニレテラスへと戻り、ジェラートを食べる。
ジェラートは、きめがこまかくて、口溶けがよく、チョコレートは濃厚で、ミルクはさっぱりとしていて、ほうと幸せなため息の出る理想的なジェラートだった。
甘いもの好きの夫は、おかわりしちゃう?と聞いてくるが、夕食が食べられなくなるから、と断る。
アイスを食べていたらチェックインの時間になった。
それぞれのお部屋がひとつの棟となるコテージタイプのお部屋。ウェディングの会場でもあるせいか、お部屋も礼拝堂のような、清潔な明るさがある。
教会も見学できたから、お散歩がてら教会を見る。
お部屋に戻り、ポットのなかのハーブティーを淹れて、チェスで遊ぶ。お部屋の備品にチェスが置いてあるのは初めて。
ちなみに、チェスで遊ぶのも私は初めてだった。
夫に教えてもらいながら、ゲームをする。
夫は「ごめんね、ゲームはなんでも強いよ」とゲームをはじめる前から謝ってくる。
さすがにそう言うだけのことはあり、こうすればこう攻められる、こうすれば逃げられるよと何手も先のことを教えられる。
もうすぐ私が負けるなと思ったときに、ここで交換してみても勝てると思うよ、と言われ、交換した。夫の言ったとおり、夫が勝った。
いつもぽややんとしている夫の、普段見えない一面が見られた。
白熱したゲームのあと、夕食はハルニレテラス内のお蕎麦屋さんで。
一度、お蕎麦屋さんで呑む、というのをやってみたいと夢見ていたのだ。
我ながらとても渋い夢だと思う。
まずは日本酒を頼む。私が頼んだ「ひまり」というお酒は、ふんわりと甘いけれど、甘すぎず、すっきりとさわやか。
たくさんのおつまみを頼む。おまかせのコース料理もわくわくするが、自分たちの好きなものを好きなだけ頼めるのもしあわせだなぁと思いながら。
これだけたくさんのおつまみを食べていたら、だいぶお腹いっぱいになってしまった。
でも、せっかくお蕎麦屋さんに来たのだ。お蕎麦を食べずには帰りたくない!とメニューを見ると、お蕎麦を半分の量でもお出しできます、と書いてある。
さすが、夜もやっているお蕎麦屋さん。わかっていらっしゃる。
おなかいっぱいでも食べられる量のお蕎麦を注文できた。
天ぷらそばと、くるみだれのおそば。
海老の天ぷらは頭つきだから、海老のみその味が濃厚でおいしかったし、くるみだれは初めて食べたけれど、こっくりくるみの甘いのに不思議とお蕎麦に合って、もっと食べたくなる味だった。
こんなにおいしいなら、半人前ではなく、一人前食べられたかもしれない。
どこまでも食い意地が張っている。
ごはんのあとはまた温泉に入った。
暗くて景色は見えなかったけれど、ひんやりと夜風に当たりながら湯船につかるのも心地よかった。
翌朝、雨が降っていた。
旅先で雨なんて、と少し残念な気もしたが、しっとり雨に濡れた木々は前日よりも瑞々しくて、雨も悪くないなと思い直した。
天気予報で雨が降ることを知っていた夫は、ちゃんと長靴を持ってきていた。
夫は雨の日に長靴を履いて、水たまりをズボスボ歩くのが好きなのだ。
この日も、嬉々として長靴を履いていた。
朝食のメインはクレープ。めずらしく、私が甘いほう、夫がしょっぱいほうを選んだ。外はカリカリ、中はもっちり。上にのっているのは、アイスではなく、ミルクプリン。アイスのように溶けてこないから、焦らず食べられる。
メイン以外は、ビュッフェ式。前の晩に食べすぎたから、ちょっと控えめ。マドレーヌの型で焼かれた玉ねぎのケークサレがおいしかった。ケークサレは今度家でもつくってみたい。
朝食のあとは、またお風呂に入った。
雨のため屋根のない露天風呂には入れなかったけれど、雨の音を聴きながらサウナに入ったら、汗と一緒に日々の疲れも流れていくような気がする。
12時チェックアウトというのんびりしたスケジュール。
チェックアウトしてから、駅まで戻って、駅の目の前のアウトレットで、私も夫も洋服を買った。そして駅で、私たちのお気に入りの沢屋でひとり二つずつジャムを選ぶ。
新しい洋服と、おいしいジャムは、きっと旅行から戻った日常にも一匙のきらめきを添えてくれる。
軽井沢を出たのは午後4時過ぎだった。でも、家に着いたときにも、まだ明るかった。それほど近場への旅行だったのだ。
だけど、これだけ近くに、別世界のようなゆったりした時間とさわやかな風が流れているのだと思えるだけでも、少し気持ちが軽くなる。
最近、職場では担当していた展覧会が終わったと思ったらまた次の展覧会の準備に追われて、息つく暇もなく、そうかこれがあと数十年つづくのだと思うと、夢見た世界ではあるのに、少しだけ逃げ出したいような気持ちにもなっていた。
自分の未熟さ、狭量さに嫌気がさしていたのだ。
でも、ほんのわずかな時間、山から吹き降りる緑の風に包まれて、いつもの世界から離れてみれば、自分が悩んでいたことなどちっぽけに思える。
さあ頑張るぞとまでは意気込めなくとも、もう少し頑張ってみてもいいか、と思えるくらいには回復した。
近場へのんびり二人旅。これが今の私たちにとって旬の旅だったのだろう。
でも、今度は、もっと遠くまで旅行するのもいいな、と思った。
体力も気力もいるだろうけれど、まだ私たちは旅を諦めるには早すぎる。
自分の旬は、自分で決めたい。