母と私
まず、母と私の関係性についてここに記しておこうと思う。
これは決して不幸自慢などではなく、様々な家庭や、私よりもより過酷な幼少時代を過ごした人からすれば、そんなことかと思われるかも知れないのは重々承知している。
その上で、ただ自身の気持ちの整理をしたくて、ここに記していこうと思っている。
まず、母との幼少期の思い出を振り返った時、思い出されることと言えば、物心ついた時には朝起きると1階から母と父の喧嘩の声と、ラジオからのクラシック音楽が聞こえていたこと、人参ゼリーが唯一母の作る料理で美味しかったこと、保育園の頃、母に抱っこをせがんで断られたこと、小学低学年の頃、服がお下がりのよれよれな服しか無いことが恥ずかしく登校前に「服が無い」と泣いて蹴られたこと、疲れた顔をした母と即席麺を鍋のまま2人で食べていた記憶。
子供の頃の思い出の中に、母が私に笑いかけてくれた思い出はほぼ無い。
私が小2のころに、母と父は別居をして、私は母と2人で生活をすることになった。
歳の離れた姉2人と兄がいたが、姉2人はその頃にはすでに家を出ていて、兄は父と生活をしていたと思う。
その頃の記憶が曖昧で鮮明には思い出せない。
ただ、はっきりと言えるのはその頃から、私は毎日母の顔色を伺って生活するようになっていたこと。
少しでもわがままを言うと、ヒステリックになる母を見て、わがままを言えなくなり、母の望むことを選んで言うようになっていた。
その反動だろうか、学校では先生の言うことに反抗し、嫌なことがあるとすぐ泣いて、暴れるようになっていた。
同時に、同級生からも嫌われるようになり、家でも学校でも居場所がない日々だった。
唯一の楽しみは、週末に父の家に泊まること。
ただ自営業だった父は忙しく、ほとんどは姉たちが面倒を見てくれた。
姉たちの世代は走り屋全盛期、長女はシルビア、次女がフェアレディZに乗っていて、どちらもマフラーをイジっていた為、家に近づく車のそれぞれの独特な音の違いを聞き分けて「〇〇姉ちゃんが来た!」とはしゃいで玄関まで走って行ったものだ。
姉たちの走り屋仲間たちとの集まりにもよく連れて行ってもらった。
ドリフトする車に乗り、はしゃいだ記憶はとても楽しかった思い出だ。
その頃は洋楽が流行りだした時代で、車の中で聞く洋楽を真似してよく歌っていて、それを見た姉たちは笑って喜んでくれた。
洋画ブームでもあり、当時タイタニックやアルマゲドンをリアルタイムで映画館で観た数少ない小学生だったのでは無いかと思う。
楽しい姉たちとの週末を終え、姉たちが車で帰る時には、母と2人の無機質な日々に戻るのが嫌で、毎回「行かないで!私も行く!連れてって!」と泣きながら玄関で駄々を捏ね、姉たちを困らせたものでした。
それほど、小学生の私にとって母と2人での生活は息の詰まる日々でした。
誰も助けてくれない、わかってくれない、誰も私を見てくれない、いつしかそれは、今でこそ診断名がある、強迫性障害や、パニック障害のような症状で私を更に苦しめました。
コップの向き、靴の向き、寝る時の布団のシワ、立ち方、歩き方、少しでもズレると落ち着かない、頭の中に変な模様が浮かんではぐしゃぐしゃと動き、叫び出しそうな衝動に駆られる。
そんな私を母も家族も、変な子、おかしい、とは言うものの、病院へは連れていこうとはしませんでした。
あのまま母との生活が続いていたら、と思うと怪談よりも怖いです。
そんな私に訪れた転機は、小4のとき。
母が京都に行きたいと言って、2人で旅行に行った時だった。
次回はその転機について書いていこうと思います。