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修士論文という超巨大迷路に入る

みなさん、こんばんは。NOZOMIです。

最近、修士論文で迷子になり悶々とした日々を過ごしている。そういう時は決まって、「この2年間でできる事なんて限られているから、論文の基本的な書き方だけは習得しよう」とこの2年間のミニマム目標を胸に刻んで、自分を勇気づけている。自分で選んで大学院に進み、自分の好きなこと(研究とは限らない)を存分にやっているのだから、どうか何も言わずに放っておいてほしい…。

自分が勉強している教育学の分野では、まだまだ修士号を取ることがメジャーではないため、なんだかとってもマイノリティな集団に属している感じがする。よく言えば、とっても珍しくて注目される。しかし、自分が通っている大学院の内実は、2割くらいが教員採用試験落ち(浪人生に近い)、6割くらいが現役教員からの大学院進学(バリキャリ系)、1割くらいが自分のように教育学やりたい人(変人)、もう1割は…よく分かんない(幽霊学生)。そんな感じだ。※分類して揶揄したいのではなく、イメージしやすいように…ね。

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自分の場合は、教育学をやりたくて進学したというよりも、教育学ってなんか怪しくないか?という気持ちが勝っていた。教育学って理論としてはインプットできるんだけど、じゃあどんな教育がいいのか?教育ってなんだ?って考えた時に、イマイチしっくりこない。なんか、どれもふわっとしていて答えなんてない、人それぞれだ、みんな違ってみんな良いという着地点しか望めない。(人それぞれ違うのだからまあそうなる…。)そんな印象を抱いていた。

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この印象は今でも引き継がれているのだが、研究…いや修行を続けているとごくたまに面白い発見をすることがある。例えば、学校に通わない学習スタイル:ホームスクーリング (ホームエデュケーション) がコロナ状況下で注目を集めている。トーマス・エジソンの例が有名で、彼は母親から教育を受けた。日本ではホームスクール制度が法律で認められていないため、あまり馴染みがないが、「教育の権利や義務」「不登校のイメージ」を再考するきっかけになる。私たちが受けてきた教育がほんの一部分だったことに気付かされる。そう気付かされる度に、私はまだまだ教育を語れないなと思ってしまう。でも、こういった発見や気づきの積み重ねで少しずつ自分も成長しているような気がする。(…成長していると信じたい)

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当たり前だが、この発見や幸せは別に大したことない。少し調べれば、他の人が丁寧に解説している。例えるなら、ベランダにて流れ星を見つけて、「アッ!」という前に消えてゆき、意気消沈する感覚に似ている。まあ、なんとも切ないが、日々の積み重ねの中に時々感動を味わえることがある。教員になったら奪われてしまうこの贅沢な時間を存分に楽しませてもらおう。本に囲まれて好きなことを追求できるなんてとっても幸せなことだと思う。

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教育という誰しも経験する分野だからこそ、自分の経験論から抜け出して俯瞰的に議論する、そんな感じの文章が書けたらいいなあ。

さて、本日もコツコツ頑張ろう。

最後までお読みいただきありがとうございました💛






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