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「教育」とは?語源から考察する

みなさん、こんばんは。NOZOMIです。

「教育」とは何か?本日はこれについて、語源から考えてみたい。教育を勉強している人にとっては鉄板ネタだが、自分なりに書き留めておこう。

「教」は Instruction

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先生のイメージは「教え」てくれる人というイメージが強い。自分の学生時代を振り返ると、「chalk&talk」のオンパレードだ。「Instruction」はインストラクターという言葉もあるように、ジム・習い事・教習所・資格講座・料理教室などいろんな分野で使われている。「教える」人が持っている知識や能力を学習者に伝達するのが「Instruction」だ。「教」という言葉は、この「Instruction」を基にしており、「家屋の中に子どもがいて、鞭をたたく」という漢字の成り立ちをしている。

「教鞭をとる」「飴と鞭」「愛の鞭」「鞭打ち」

このように、教育の世界では鞭という言葉が結構使われてきた背景がある。体罰や虐待のニュースがよく取り上げられるが、語源を遡ると子どもの教育のために鞭を打つべきだという考え方が結構主流だったことが想像できる。今はもう、体罰なんて暴力なんてけしからんという時代になっており、常識って簡単に覆るんだなとなんだか不思議な気持ちだ。私は力ではなく言葉によって解決したり考えたりする世界を切に望んでいるのだが、暴力や体罰をなくす努力をすることが本質ではなくって、なんかこう形としては見えづらいいろんな力によって窮屈な思いをしている人が結構いて、そういう人たちのことも一緒に考えていけたらいいのかなと。そのためには、体罰や暴力がうんぬんという話をする価値はもしかしたらあんまりないのかもしれない。

「育」は Education

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次に、「育てる」という言葉の語源に遡ってみよう。諸説あるが、「education」はラテン語の「educare」が由来だと言われている。歴史の流れの中で、「引きだす」という意味で定着した。ドイツ語では「erziehen」[ er: 外に,ziehen: 引く] と表す。日本語の漢字の成り立ちを見ると、「母体の中にいた赤ちゃんが外に出てくる様子」を表しており、母と子が一緒に生活するというイメージがある。

「可能性を引き出す」「家族に育てられる」「地域の人が見守る」「子どもに気付かせる」「成長に感動する」「一緒に考える」

自分の中ではこんな感じの言葉が思い浮かんだ。育てるってなんだ?と思ったときに、育てる子どもの「よき理解者」になることなんじゃないかなと思った。この「よき理解者」っていうのが結構難しっくて…。ざっくりいうと「他者(子ども)に興味をもちましょう」となるのだが、干渉したり期待したりするのではなく、ただ見守って認めて許してあげる、それが「よき理解者」なのではないだろうか?

この考えは、主にアドラー心理学の『嫌われる勇気』からヒントを得ている。

Instruction と Education のバランスで教育を観る

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これまで見てきた「Instruction」と「education」のバランスがどのようになっているかという視点で教育現場を見てほしい。学校・塾・家庭教師・海外の学校など…学習の場所や内容によって実に様々である。日本では長年、「知識詰込み型教育」に代表されるように知識や能力を「教える」という前者の立場をとってきた。しかし、近年では学力観が見直され、「知識基盤型社会」で活躍する、つまり習得した知識や能力を「どう生かしていけるか(引き出せるか)」を重視して教育するという後者の立場に変容してきている。つまり、コンテンツの充実を図るのではなく、コンピテンシーの育成を目指しましょうという流れだ。

バランス論を乗り越えて

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こういったバランス論でモノゴトを考えるのは、容易で分かりやすさがある。しかし、教育史を遡ると同じような議論は数えきれないほど展開されており、そういった研究はたくさんある。例えば、ジャンジャック・ルソーも「教える」と「育てる」という狭間で議論を重ねた人物の一人である。

つまり、バランス論で考えるのは限界があるということだ。既存の議論を乗り越え、子どもたちにとって最適な学びとは何かということについて追及せねばならない。同時に、「教育」を与えることの弊害についても考察の余地がある。経験論や実践結果、他者比較などが蔓延する世界だからこそ、基本の理念に立ち返ってアウフヘーベンしたいなと!そんなことを考えた深夜です。

最後までお読みいただきありがとうございました💛

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