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類稀なる甘えと愛。

静かに涙を流していた。
声は出ない。
ただ、涙が頬を絶え間なく伝う。

いつものことだ。

ひとつ、いつもと違うのは、背中に手のひらのぬくもりがあることだった。
その手は優しく背中を撫でた。



大好きな人に会った。
その人との関係性を説明するとしたら、たぶんいろいろな言葉があるだろうが、一番手っ取り早いのは、私が初めて希死念慮を打ち明けた人であり、支援者(医師、カウンセラー)以外で唯一それを知っている人、ということだろう。


会うたび、毎回甘えが爆発する。
溢れ出る。
嫌なの、頑張りたくない、疲れた、と駄々をこねるわ、普段は人前では涙のひと粒すら出てこないのにボロボロ泣くわで、自分でもびっくりする。
こんなことを続けていたら迷惑以外の何物でもない。
嫌われる。わかっている。
でも、ほぼ自動的にそうなってしまうのだ。恐ろしい。怖い。
他の人の前では、こういうふうになることなんてないのに。

こんな感情があったのかと気付かされるとともに、改めてアタッチメントの問題や、成育歴による影響を思い知らされる。



おとなに気に入られることに、おとなに近づくことに砕心している子どもだった。同年代の友人より、おとなとの関係をつくることを大切にしていた。

それは、自分の中で親のような役割を担ってくれるおとなを、ずっと探し続けていたからだと思う。
そして、年齢的にはおとなになった今も、探し続けているのだと思う。

親に対する愛着みたいなものを相手に対して持っても怒らない人を探している。
私が相手の一番になれるとは思っていないし、そうでないほうが良いと思っている。相手と他のひと(家族など)の幸せを奪う気はないし、相手と他のひととの関係性を壊したくもない。
でも、わたし「も」愛着を持ってもいいよ、と言ってくれる人をずっと探している。探していた。

そして、それを初めて受け入れてくれたかもしれない、と感じたのがその人だった。
あぁ、大切にされているのだ、広い意味で愛されているのだと思えた。


一般論でいえば、正しくないとか良くないとか言われてしまうのかもしれない。仕方のないことだと思う。自分でも申し訳ないとずっと思っている。
私だって、こんな自分でずっといる気はない。
いつかはちゃんと、おとなになって、自分の足で立って、歩いていく。
だからカウンセリングを受けて過去を整理しているし、気持ちを消化しようとしている。

今だけ、甘えさせてほしい。愛される経験をしたい。
子どもになる経験を経れば、おとなになりやすくなるはずだから。


別れ際、泣く私にクスッと笑って「またね」とその人は言った。
死ねない理由がひとつ増えた。



次の日、ふらりと立ち寄った書店で棚を眺めていると、後ろから「んーん!やだやだ〜!」という声が聞こえた。
ちらりと振り返ると、お父さんらしき人の脚にくっつきながら、子どもが駄々をこねていた。おもちゃを買ってほしかったのかな。
いやだ、と言っても変わらず愛されると知っているように見えた彼女は、背格好からして、4歳くらいだっただろうか。


彼女は、昨日の私だった。

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