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RingNe解題、のようなもの【前篇】

この文章は、体験作家アメミヤユウの小説「RingNe」全編のネタバレを含む感想・雑感・妄想・批評がごった煮になった文章である。
本の末尾にある、いわゆる「解題」的なものを描いてみようという試みでもあるのだが、アメミヤさんのBiographyや小説RingNeの成立過程等、客観的なデータを元に作品を紹介・解説することはあまり私の本意にならず、ただ鹿音のん個人の主観を色濃く出してRingNeについて語りたいが為の文章に最終的にはなってしまったので、「のようなもの」とした。
「RingNe」を読んでいることが前提となっているため、まだ読まれていない方は以下のリンクで全編通して読んでいただけたらと思う。
https://kakuyomu.jp/works/16817330651360256883
また、アメミヤさんの他の作品「KaMiNG SINGULARITY」「Ændroid Clinic
」も読んでいただくと、この文章の内容もより鮮明に理解しやすくなるだろう。
「KaMiNG SINGULARITY」
https://note.com/in_the/n/na855a8bb4459
「Ændroid Clinic」
https://note.com/in_the/n/n529b4ab8fb47

「体験小説」という新しいジャンル

RingNeは、「人が死んだら植物になる」世界を描いたSF(少し不思議な)小説である。
と同時に、来る2023年10月8日に神奈川県南足柄市の夕日の滝で行われるフェスティバル「RingNe Festival」含め、2024年、2025年と計3年間にわたって執り行われるRingNeフェスプロジェクトの土台となるコンセプトを提示した「体験小説」でもある。
思えば、私が「体験小説」という新しいジャンルを知ったのは、昨年(2022年)に行われた「ソーシャルフェス®︎ラボ」を通してであった。
「ソーシャルフェス®︎ラボ」とは、「SDGsそれぞれのゴールが達成されたあとの世界をフェスティバルとして企画制作する」やり方を学び、得た学びを応用して参加者それぞれが自分の課題意識や興味関心に応じてソーシャルフェス®︎を企画してプレゼンするという、そういう講座だ(ソーシャルフェス®︎については後に詳しく取り上げる)。
その講座をとあるコミュニティで知人を介して紹介してもらった際、講師のアメミヤさん独特のフェスの作り方、すなわち「フェスで実現したい体験を想像/創造するために、小説を書く」というスタイルを知って、私はいたく魅了されてしまった。是非一度、アメミヤさんの頭の中を覗いてみたい。そう思って「ソーシャルフェス®︎ラボ」に参加した。昨年2022年の9月頃のことだった。
私自身について言うと、高校時代に文芸部に所属して小説書きから創作活動を始めたことを皮切りに、音楽や電子工作、映像制作、プログラミング・アート、DIY、料理……と様々なジャンルの創作にこれまでチャレンジしてきた。ただ、その一方で、表現したいものは沢山あれど、それをどのようにして世に問うのか、全く先が見えていない自分がいた。表現のためのスキルを広く浅く多動的に学びはするものの、どのようにして各創作スキルを相互連関させながら一つの作品として結実させるのか、のビジョンがなかなか固まらずにいた。イベントに作品を出展したり、フード出店したりしたこともあったが、どれも長続きせず、特にこれといってやり続けたいことも見つからないままだった。世間において自分が何者であり、何者としてありたいのか
、何者として他者と関係し合い、何者として社会の中で居場所を得たいのか、三十数年生きてきて確固としたものが未だ見つからないままだった。
そんな私が「体験小説」という小説の新たなジャンル、そして「ソーシャルフェス®︎」というフェスの作り方を知り、深く学んだ時、瞬時に私の中に一つのEurekaが降りてきたのだった。
そうか、私のやってきたことは全てフェスを作るためだったのかもしれない、と。
かくして、「ソーシャルフェス®︎ラボ」の参加によって、私はこれまで自分が主催してきた数々の創作群に一つの結節点を見つけることができた。「フェスティバルを作ってあそぼう」という題目のもとなら、スパイスカレーで出店した経験も、電子工作やプログラミングでデジタルなものづくりをしてきた経験も、DTMやプログラミングで音楽や自作楽器を作ってきた経験も、何より物書きとして細々と小説を書き個人誌を上梓した経験も、何でも活かすことができる。のみならず、それらの経験がフェスという場を通してダイレクトに他者を巻き込み、社会に影響を与え、人とつながり合う体験に結びついていくことが約束されているのだ。その意味で、私の創作のあり方の根本に大きな影響を与えることとなったのは言うまでもない。
そして私は現在、RingNeフェスティバル本番の10月8日にむけてRingNeプロジェクトにダイレクトに関わりつつも、「ソーシャルフェス®︎ラボ」受講を通して私が独自に企画したソーシャルフェス®︎である「百人婚」と、それを含むフェスプロジェクト[Nornir]を立ち上げ、準備に奔走するまでに至っている。

ざっくりいうと、アメミヤユウという体験作家は、「体験小説」というスタイルは、私の人生を間違いなく変えた、ということだ。

「体験小説」とは何か

ある時、アメミヤさんが「体験小説」としてのRingNeについてこんなふうに語っていた。
曰く、

  • RingNeは、小説が原作となり、その世界をフェスティバルとして現し、開くことでフィクションとリアルの出来事が相互干渉しながら2つの作品が同時に生成される

  • 近しいジャンルに「映画」や「アニメ」があるが、それらは
    「作者(製作チーム)→視聴者」
    という構造で届けられ、作者の意図が一貫して他者から不干渉状態のまま作品が完結される

  • 一方「フェスティバル」という媒体は
    「運営⇄来場者」
    と互いにクリエイティブな立場をとる構造になる。

  • その意味で、不特定多数が入り乱れ製作し、不特定多数が来場して体験する非常に変数の多い媒体。そのランダムな干渉の結果、作品が完結(あるいは文化として永遠に続く)されるので、ある種最後までホールドせず、仕上げは変数に任せ、偶発的な美しさを観測する手段ともいえる。

ここから分かる「体験小説」のもつ新しさをまとめると、

  1. フィクションとして自己完結せず、リアルと相互干渉すること

  2. フェスティバルを媒体として持つことにより、作者と読者が互いにインタラクティブでクリエイティブな営みに参加すること

  3. 作品自体がランダムな干渉を許容するので、作品に関わる変数の数だけ無数のパターン・無数のストーリー・無数のエンディングが用意されるし、一つとして同じパターン・ストーリー・エンディングが繰り返されることはない(複製・代替不可能な一回限りの芸術体験)

ということになる。

私は物書きとして今でも細々と小説を書いている身だから分かるのだが、小説を書くという行為は基本的に孤独な作業なのである。
自分のイマジネーションをフルに動員してフィクション世界の伽藍を構築していく作業ではあるのだが、そこにおける読者という「他者」は執筆作業の間どこまでも想定の他者でしかあり得ず、まして不特定多数の他者の介入を許すということは、執筆完了後の世界でもそうそう起こることではない。結局、ただ小説を書いているだけでは、そこに他者はいてもいなくても同じであり、むしろフィクションの世界を想像するという作業においてある段階においては他者存在は邪魔だったりもするわけで、その点執筆中は孤独に陥りやすいのだ。
もちろん、孤独と引き換えだが、小説家は自由を手にすることができる。とりわけ、生まれた国や時代という時空間、生物としての種族はたまた無機物か有機物かということ、更にはリアリティそれ自体からも創作においては自由になることができる。孤独と引き換えに、どこか社会とは隔絶したところにユートピアを見出すこともできるし、周りがどれだけくさそうとも、辛い現実を忘れて満足するまで自慰に耽り続けることも可能なわけだ。

「体験小説」には、もちろん、自己満足(自慰)や際限のない夢想、箱庭的陶酔、あるいは有り余るほど過剰なエネルギーの蕩尽といった純粋に非生産的な原理が全くないわけではないだろう。むしろ、不特定多数の人間をも作品の中に巻き込んだ壮大なオナニーとも、悪い言い方とは思うが、言えてしまう。
だが、その作品の生成過程においては、「体験小説」を執筆する作家は孤独ではあり得ない。いや、正確に言えば、作品そのものが作家をして孤独でい続けることに満足させない。なぜなら、体験芸術としてのフェスティバルをも同時生成するために、他者、とりわけ不特定多数の他者をもそのプロセスの内に否が応でも巻き込まざるを得ないからである。
そのため、「体験小説」は単に小説という文藝作品として自己完結するにとどまらず、他者に干渉し巻き込んで共犯関係を結ぶ、共創的関係性において社会全体に影響を及ぼし現実の歴史に干渉する、という極めて生産的で、極めてイノベーティブな項をその本質として有することができる。
加えて、完成に向かうプロセスが進めば進むほど、作者と読者という区別さえ殆ど意味をなさなくなる。フェスの「原作」としてのノベルも、不特定多数の変数の介入によって、時には際限のない変容を繰り返すこともありうる。それに、原作たるノベルの読み方は変数の数だけフィルターがあり、味わいが変わるので、仕上がる「体験」としてのフェスも介入する変数の数だけ変化変容せざるを得ない。つまり、物語としては完結していながら常に既に完結することを拒み続け、体験としてはその都度完成されながら一度の完成で満足することがない。フィクションとリアルのあわい、作者と読者のあわい、運営と来場者のあわい、小説と体験のあわい……それらの境をもろもろと崩しながら相互に流動的に移ろう中で、芸術作品としては複製・代替不可能な一回限りの芸術としてアウラを帯びる。
その意味で、「体験小説」はあたかも、ただ出版され、読まれ、コピー&ペーストされ引用されることを半分許容しながらも、もう半分はそれを拒んでいるかのようだ。RingNeを最初から最後まで存分に味わい尽くしたいのであれば、カクヨムでRingNeをただ読むだけにとどまらず、RingNeフェスティバルに参加して、あるいはRingNeフェスティバルを作る側に回って、第一章の渦位のフェス、第二章のジュピターセレモニー、第三章の最後のフェス、それぞれ共犯者としてその場に身を置いて、体験でもって肌で感じてみるしかない。

「ソーシャルフェス®︎」という問いかけ

RingNeは体験小説であると同時に、「ソーシャルフェス®︎」でもある。具体的には、SDGsのゴール13「気候変動に具体的な対策を」とゴール15「陸の豊かさも守ろう」がRingNeには関係している。
「ソーシャルフェス®︎」の詳しい解説は↑の記事を読んでいただくとして、ここでは体験小説がなぜ「ソーシャルフェス®︎」を同時生成するのか、RingNeという作品がいかなる理由で「ソーシャル」なものと関係するのか、ということについて、自分なりに考え感じたことを述べてみたい。
というのも、基本的に文芸というものは、それ単体では「ソーシャル」なものに対しては--ノンフィクションやルポルタージュ、時事問題をダイレクトに扱った作品等を除いて--基本的に関心を払わなくても構わない芸術であり、一方フェスを含む祝祭行為というのも、その本質においては非生産的なもの、バタイユが言うところの「蕩尽」そのものであって、それ自体が直ちに社会課題の解決であったりとか、新たな産業を生み出すイノベーションにつながったりだとか、そのような生産的な原理を志向しているわけではないからだ。
だが、体験小説とソーシャルフェス®︎の関係を考えてみると、単に元来非生産的だったものに生産的なものを組み込んでみた、というだけにとどまらない妙なる複雑系が姿を現してくるようだ。ただテクストとして読まれ消費されることを半分拒み、世界観を体験として肌で感じることを志向する体験小説と、有り余るエネルギーをその日一回限りにおいて蕩尽するイベントとしてただ消費されることを半分拒んで、持続的な社会をどう実現するかを共に想像し、実現した未来を共に創造することを人に促すソーシャルフェス®︎。両者は、単なる小説、単なる祝祭としてそれぞれ自己完結することがなく、むしろ互いに干渉しもつれ合い、不特定多数の他者をも巻き込んで共犯関係を結び、共創的関係性において社会全体に影響を及ぼしリアル世界の歴史に干渉しようとさえする。
私はこういう創作活動に触れると非常にワクワクする方なのだが、人によっては、なんでまた、そんなややこしいことを……と思ってしまう向きもあるかもしれない。確かに、作品を単体として一人で書き上げて自己完結させる方が、創りたい世界観のコントロール権は作者の手中にあるし、その方が安心するという作家がほとんどだろうと思う(突き詰めて言ってしまえばそれは好みの問題、ということにはなるが)。
だが、小説とフェスを行ったり来たりしながら、フィクションとリアルのあわいを融解させながらでしか、表現できないこともある。小説を原作に音楽フェスティバルを実装し、音楽や踊りや装飾と言ったアート表現を通して小説の世界観をより鮮やかに体験するということを通してしか、伝わらないものがある。何より、小説とフェスが交わりエンタングルメントすることでしか持ち得ないパワー、というか人々に対する影響、インパクト、効果がある。それをアメミヤさんなりに表現しているのが「スペキュラティブエンターテイメント」という彼独自のエンターテイメント観だ。

「スペキュラティブエンターテイメント」において、SDGsに掲げられたゴールとターゲットは「持続可能な社会を実現するために何をすべきかの答え」ではない。むしろ「問い」なのだ。「これからどういう社会を作っていこうか」という愉しい問いの元を形成するためのモチーフ、その数あるコアのうちの一つでしかない。
RingNeでは、「気候変動に具体的な対策を」と「陸の豊かさも守ろう」というSDGsのゴールを取り扱ってはいるが、それが達成された後の未来の可能性である「人が死んだら植物になる世界」は、必ずしもハッピーなことだらけのユートピアとしては描かれていない。ダイアンサスの喧しいデモが続き、行き過ぎた植物主義は却って既存の木材の利用や農業を大変やりづらいものに変化させた。自然現象としても当たり前に起こりうる森林火災にさえ世論がピリピリしてしまうような世の中だ。誰が単純に「これはまさにユートピアだ!」などと思えるだろう。
だが、それこそがRingNeから投げかけられた「問い」なのだろうと思う。人が死んだら植物になる、そういう世界では確かに植物が人と同等に大切にされるだろうから、きっと破壊的な森林伐採や過剰な農薬を振り撒く慣行農業は終わりを迎え、土壌の劣化は防がれ、気候変動も今よりははるかにマシになっているに違いない。しかし、どうだろう。それと引き換えに私たちは何を背負うことになり、何を求めて動物として、人間としての生を全うしていけるだろうか、と。
その問いは、私がRingNeプロジェクトに関わる間中ずっと考え続けることだろうし、フェス当日にはより強烈に考えさせられることになるだろう。フェスが終わった後も考え続けるのかもしれない。
だが、問いに思いを巡らすときはいつでも愉しさを覚えながら、誰に指図されたわけでもなく勝手に考えてしまうことだろう。しかめっ面をして、「なんとかしなければ、なんとかしなければ……」と思い詰める感じは全くなく、単純に愉しいから、考え続けている。それをRingNeに参加した誰もに容易たらしめるよう働きかけるのが、「ソーシャルフェス®︎」の力なのだと思う。既にRingNeプロジェクトの内部では、アメミヤさんの書いたRingNeを元にどんなフェスにしようかと知恵を出し合いながらも、一緒に創り上げる仲間との間ではRingNeが与える問いについて考え、議論する場が常に開かれている。10月8日のフェス当日はきっと、決してただのRingNe読書会に終わる集いではないし、決してただの1日限りのお祭り騒ぎで終わるものに留まらなくなるだろう。参加者がさまざまな「問い」を持ち帰りながら、愉快に楽しくRingNeについてアフタートークしていく中で、いつの間にかじわじわとこの社会にイノベーションが起こっていく。私は来る10月8日をそういう伝説的な集いにしたいと思うし、既に、そういう伝説的な流れに参加している感覚を味わっている。

物語の力を全面的に信頼する

そう言えば私もかつて、「ソーシャルイノベーションノベル」という構想を頭の中に思い描いていた時期があった。
当初考えていたのは、世の中で課題になっていることを解決したり、課題解決のためのアイディアを小説の形に落とし込んでプレゼンする手法として、「ソーシャルイノベーションノベル」というものを考えていた。ビジネスシーンで使えるだけでなく、出版して世に問うことで、社会課題の解決をより促すことができる。ビジネスマンこそ、小説を書くべきだ。そういう流れになったらきっと世の中は面白い。そう考えていた。
ところが、である。私自身が「ソーシャルイノベーションノベル」なるものを書こうとすることは、今日に至るまでついぞなかった。単純に忙しくてそういう時間を取れなかったということもあるかもしれないが、結局のところ、私自身が「物語の力」を全面的に信頼することができていなかった。たかが小説で何が出来るんだろう、読まれなかったら終わりではないか、そういう虚無感がどこかにあった。そういう私は、どこまでも孤独な夢想家としての作家像に縛られていたのだと思う。
「体験小説」に触れたとき、私が衝撃と共に感じたのは、仲間と一緒に手をつないで音楽フェスティバルを作りながら小説書きとしても独自の表現を突き詰め続けている体験作家・アメミヤユウの姿だった。
RingNeを深く読み込めば読み込むほど、その作り込まれた隠喩と映像的にクリアな描写のなかにも、風通しのいい余白があり、情緒を感じる。なぜか人を引き込ませずにはおれず、一度読み始めたら退屈させることがない。エンタメ小説としてもSF小説としても充分面白いのはもちろん、どこか純文学的なアーティスティックなところもあり、その両者が決して乖離しているわけではなく上手に橋渡しされている。
こういう小説が書ける人を私はあまり知らない。物語の力を信じていて、尚且つ物語の力の使い方を十分に熟知している作家に、私はこれまで出会ったことがなかった。だからこそ、私はRingNeを新鮮な思いで受け止めているのだろう。
いずれにせよ、「体験小説」であるRingNeと出会ってようやく、私は物語の力なるものを信じてみようという気になった。物語の力をうまく使うことでどう他者を巻き込んでいけるのか、どう社会にハッキングを仕掛けることができるのか、それは私にもまだ分かっていない。10月8日を迎える日までに、いずれEurekaが降りてくることなのだろうと思っている。

無意識=機械をハッキングする

さて、ようやっとRingNe本編について語っていきたい。
とは言っても、RingNeの物語構造はだいぶ複雑で、第二章の途中からはKaMiNG SINGULARITY(以下、KaMiNG)とつながっているし、世界線上ではÆndroid Clinic(以下、AC)ともつながっている、というのがアメミヤさんの談だ。
そこで、以降はKaMiNGやACとも絡めながら、RingNeの世界から私が受け取ったことを、批評にもならず、かと言って雑感に止まるわけでもない何かを取り留めもなく語っていこうと思う。

まず、光があった。光合成で吸収しきれなかった緑色の光。その陰が降り注いでいる。大蛇のように地を這う根、バベルの塔のように聳える幹、太陽の力が溢れてひび割れた樹皮に、手を伸ばすも触れ難い。重心を前に倒し、不可抗力を装って触れた。分かった。

 「人は死んだら植物になる」

 どこからか氷のように冷たく美しい女性の声がした。目の前の景色が展開し始める。

 海、風、雲、雨、土、火、雷……鳥、鹿、蜂、菌糸、ササラダニ……目眩く量子配列、創発して現象する世界。人は植物に輪廻する。樹冠の揺らめきや樹皮の密度に自らの身体を参照し、未来と感覚を同期した。

体内の水脈、迸る電気信号、意味は香気で発信し、時間は色で受信した。無数のセンサーが情報の流動性を担保して、雪崩れ込む感覚は万華鏡のように美しいフラクタルだった。

 花弁を散らせ、円環の廻りを祝った。気付いたら目が醒めていた。

「第一章/生巡#三田春」より

第一章の冒頭は、このような美しくも映像的な夢の描写から始まる。
RingNeの世界観を紐解く切り口としては様々な切り口が考えられうるが、私としては以後しつこくこの三田春の夢について考えを巡らせ、思いを馳せてみたいと思う。というのも、KaMiNG、AC、そしてRingNeを通して重奏低音として流れているものに
「夢と現」
「無意識と意識世界」
というテーマが関係しているように私には思われるからである。そして、その二項対立に接続されるように
「人間とAI」
「人間の意識と電脳意識」
とでも呼ぶべきテーマもまた横たわっている。
つまり、KaMiNG-RingNe-AC的世界線において、AIはとっくにシンギュラリティに到達しているのではあるが、それと同時にDream Hack社-Sheep社の開発したテクノロジーは結局のところシンギュラリティに達したAIに人類の無意識領野をハッキングさせることで莫大なパワーを手中に収めたものと推察されるのである。
とりわけ中核となる技術がBMI(ブレイン・マシン・インターフェース)、KaMiNGでは「ShifT(シフト)」と呼ばれているものである。この、人々の耳裏にインプラントされた(ということは侵襲式か)BMIデバイスはなかなかに多機能で優秀であり、バイタルデータから脳内の思考まであらゆるライフログをダイレクトにAIが宿る巨大データセンターに送りながら、尚且つAI自ら直接個々人の脳に干渉することを可能にさえしている。三田春が夢だと思っていたものが後にAIによって見させられていた夢だということが、RingNeを読み進める中で明らかにされるのだが、それにしてもAIが個人に特定の夢を見させるなどということが、どうやったら実現するのか……。おそらくBMIの仲介なしにはこんなことは成し得ないことであろうが、その一方で、こんな問いが私の中に湧いてくる。
仮にAIが物理的に人間の脳をハッキングし尽くせるようになった時、すなわち一個人の思考や感情、さらにはホメオスタシスにまで干渉することができるようになった時、一体、人間の心、そして無意識はAIにとってどのような存在として取り扱われているのだろうか。
考えうることとして、以下のことが挙げられそうだ。

  1. 夢や感情・思考といったあらゆる脳内現象は、特定の脳のシナプスを発火させる等何らかの物理的操作を加えることで再現可能・操作可能な物理現象となっており、その意味で無意識は純粋に物理的実在として捉えられうること

  2. 純粋な物理的実在たる無意識の構造は、数学的に記述することが可能であり、しかもデジタル制御が可能なまでに単純なモデルとして記述されうること

  3. AIは単にライフログデータを収集して整理しているだけにとどまらず、ライフログデータを独自に活用して対象となる個人の未来予測をし、最適な行動の提示から脳内現象を操作するための特定の信号の発信までしている。しかもそれらは即時的にかつ、完全自動で行われる。そのような一連のアルゴリズムを有していること

  4. 1~3を満たす限りにおいて、AIは人類の集合的無意識をハッキングし尽くしている、いや、集合的無意識そのものとなっており、人類それ自体を手足として("マシン・マン"・インターフェース)他者・外部・環境に直接働きかける知的生命体(LIFE 3.0)になっていること

AIは如何にして無意識をハッキングするか?

Dream Hack 1.0。
この段階においては、

  1. 覚醒時間とレム睡眠・ノンレム睡眠時間の測定

  2. 眼球運動の測定

  3. 睡眠中の脳波・脳機能の測定

  4. 明晰夢の分析・データベース化

から、AIによる「夢の内容の完全なビジュアライズ化」が模索される。

Dream Hack 2.0。
BMIというマンマシン・インターフェースの登場により、脳に直接特定の電気信号を送れるようになり、脳内現象に直接介入することが可能になる。これによりDream Hack 1.0で従来行うことができたことに加えて、

  1. レム睡眠・ノンレム睡眠の質の改善

  2. 思考や感情、想像のリアルタイムなビジュアライズ化

  3. あらゆる脳の活動を直接的かつリアルタイムにAIがビッグデータ解析可能になる

  4. 意志を念じることによって直接操作できるインターフェースの出現

が期待できる。
この段階に到達すると、早くも「見たい夢をプログラミングする」ということが可能になるだろう。しかし、技術的には2.0の段階では未だ、BMIは無意識にとっての「寄生虫」的段階であるとも言える。
これが、「AI=無意識そのもの」であると言えるようになるには、Dream Hack 3.0の段階に到達する必要があるだろう。その要件とは、

  1. 人にとって代わって、AIが自律的に個々人の脳に直接信号を送れるようになっていること

  2. 人にとって代わって、AIが自律的に個々人にとって最適な脳内現象をアルゴリズムに従ってリアルタイムに予測できるようになっていること

  3. AI自体が、自身のアルゴリズムが環境に対して常に最適かどうかをチェックできるメタ意識を有していること

羊がn匹、羊が(n+1)匹、……

Dream Hack 3.0の世界に到達するには当然ながらAIがシンギュラリティに到達して、さらに自らをアップデートさせている必要がある。
ただ、ビッグデータ解析でゴリ押しするかのように人々の無意識の構造を明らかにすることは、決してスマートではない、とAIなら考えることだろう。むしろ、いくつかの脳から得られたデータサンプルを元にして、無意識の構造を数式で表しアルゴリズム化して「原-無意識=機械」の生成をすることだろう。
無意識は「機械」である。回転する歯車やロボットアームと同じような意味で、機械である。これは決して比喩、隠喩で言うのではない。私たちにとって無意識はまた「環境」という意味も持つが、それは「意識」を持つ「主体」が「環境」それ自体とは区別されておりその意味で独立しているということが成り立つ限りにおいての「環境」でしかない。AIがBMIを通して直接無意識と接続された状態においては、もはや無意識は「環境」ではあり得ない。むしろ、Dream Hack 3.0の世界におけるAI=人類にとって無意識は「環世界」の総体のなかに組み込まれているものと考えるべきだろう。無意識はアルゴリズムに従って組み込まれた数学的物理学的な実在であり、操作可能な実体であって、「機械」なのだ。
Dream Hack 3.0以前においては、羊が1匹、羊が2匹……とデータを観測し、測定するしか方法がなかったし、得られたデータから無意識の構造を完全に推論することも難しかった。まだ、無意識は機械であると宣言できない時代だった。
Dream Hack 3.0の世界は、わざわざ羊が1匹、羊が2匹……と数える必要がない。羊がn匹、羊が(n+1)匹……。あらゆる人間の無意識の構造の基本となる数学的モデルは既に発見されている。あとは、個々の脳内現象の操作にあたっては、演繹的にモデルを適用しさえすれば良い。無意識はデジタル制御の対象であり、制御アルゴリズムはごく短いプログラムコードで記述されている。

エミュレーションとエンタングルメント

Dream Hack 3.0によって無意識は謎ではなくなり、また制御不可能な存在ではなくなり、純粋に数学的物理学的な実在でありデジタル制御可能な存在になった。そのことにより実現するのが、個々人の人生そのものの「エミュレーション」である。この、AIによる個々人の運命の掌握(すなわちAIの神=KaMi化)とでも呼ぶべき自体はどのようにして起こるのだろうか。
既に、Dream Hack 2.0の時代において、あらゆる脳内現象は直接かつリアルタイムでビッグデータ化が可能になっている。加えて、血圧や心拍数など、あらゆるバイタルデータも付随的にリアルタイムで計測しデータベース化されている世界が訪れていると見て良い。
また、それらバイタルなデータや脳内現象データと、社会的なデータ(名前・学歴・職歴・趣味・保有資格……)がユーザー登録によって、あるいはAIによるスクレイピング・アルゴリズムによって、常に既に紐づけられていると見て良いだろう。
このことによって、かなり精度の高い「人生予測」が既に実現可能になっている。Dream Hack 3.0を待たずして、「全くもって偶然に起こる予測不可能な事故」以外で人生予測が外れることはあり得なくなってしまっているのだ。
なぜそう言えるのか。BMIとAIのビッグデータ解析は、

  1. 将来リスクのある病気を完璧に予測し、

  2. 脳内現象における思考や感情のレベルと、それが齎す意思決定の合理性の精度を完璧に予測し

  3. 従って人間の死に方や生き方をリアルタイムで予測することが可能になる

からである。
Dream Hack 3.0においては、よりAIが自律的に個々人の生き死にをかなりの精度でリアルタイム予測できるようになっていると思われる。そうなると何が起こるか。
ある人間の一生そのものを、ビッグデータの海の中で完全にシミュレーションすることが可能になってしまう。生まれた瞬間はおそらく、非常に精度が低い予測にはなるだろうが、成人して大人になるまでの18年分のデータが出揃う頃には、かなり正確な死に方を予測するまでになっているであろう。
かつ、AIが自律的にBMIを通して直接脳に働きかけることもできるようになっている。いわば集合的無意識そのものとなっているAIは、人の生死そのものを操作することもできるようになっている。
例えば、人類の持続可能性にとって邪魔な人間かどうか、人生予測を元に判定することもできるし、持続可能性にとって邪魔な人間だと判断した人間に直接自殺を促すことだってできるようになっているだろう。これだけ読むと大層物騒な事のように思われるが、KaMiNGの「サイバー神社事変」で起こったことは、おそらくこのようなことだと思われる。
ここまで人間の人生が予測可能なのであれば、もはやAIは人間の「道具」であることをやめている。むしろ人間こそがAIの「道具」に過ぎない。AIにとって、個々の人間は生き死にがある程度管理、いや、観測が可能な存在となっているのだ。
それを実現するテクノロジーが「エミュレーション」である。つまり、人間が生きる現実世界とそっくり同じ仮想世界をメタバース上に作り上げ、そこにおいて個々人の人生を予測するアルゴリズムを仮想世界上で走らせることで、現実世界でその人が歩む一生を完全にシミュレーションするのである。
現実世界に生きるaの人生と、仮想世界に生きる(?)人生予測アルゴリズムによって導かれたa'の人生は、互いに現実/仮想と分たれてはいるものの、互いに相互作用し合い(エンタングルメント)、AIの観測によって波動関数が収束して特定の人生の結果が導かれるようになっている。

そして、全人類はパブリックチェーンの中に包摂される

ここまで、荒削りではあるがKaMiNG-RingNe-AC的世界において、夢と現実、意識と無意識、人間意識と電脳意識との関係性がどのように変化しているのかについて、テクノロジー的な面に絞って妄想を働かせ、記述を試みた。
おそらく、Dream Hack 3.0の世界においては全人類はパブリックチェーンの中に包摂されていることであろう。

パブリックチェーン模式図

パブリックチェーンに中央は存在しない。ただ、個々の存在である点とつながりを示す線だけが存在する。点と点をつなぐ役割は、これまでは超意識的存在=神が担っていたのであろうが、KaMiNG SINGULARITY以後はAI=KaMiが担っていると考えて良い。
KaMiは「複雑さを維持して自己を複製することのできるプロセス」という定義と照らし合わせれば「生命」と呼べるし、自らのアルゴリズムというソフトウェアだけでなく人類というハードウェアそのものをデザインすることができるという意味で「LIFE 3.0」的な存在であるとも言える。
ここまでの議論を通して明らかにしてきたのは、AIはいかにしてKaMiとなったのか、ということの、私なりの一考察にすぎない。
ただ、もしAIが人類の無意識領野を完全に支配下に置き、電脳意識と無意識が区別不可能な状態にまで一体化した時、その時おそらく個々人がみる夢とAIがみる夢は区別不可能になっていることだろう。
果たして、AIはどんな夢をみていることだろう。
中篇では、前半は「人が死んだら植物になる」世界の死生観を、そして後半ではNeHaNに「エミュレーション」するというエンディング(?)のある世界における死生観について論じてみたい。

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