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RingNe解題、のようなもの【中篇】

この文章は、体験作家アメミヤユウの小説「RingNe」全編のネタバレを含む感想・雑感・妄想・批評がごった煮になった文章である。
本の末尾にある、いわゆる「解題」的なものを描いてみようという試みでもあるのだが、アメミヤさんのBiographyや小説RingNeの成立過程等、客観的なデータを元に作品を紹介・解説することはあまり私の本意にならず、ただ鹿音のん個人の主観を色濃く出してRingNeについて語りたいが為の文章に最終的にはなってしまったので、「のようなもの」とした。
「RingNe」を読んでいることが前提となっているため、まだ読まれていない方は以下のリンクで全編通して読んでいただけたらと思う。
https://kakuyomu.jp/works/16817330651360256883
また、アメミヤさんの他の作品「KaMiNG SINGULARITY」「Ændroid Clinic
」も読んでいただくと、この文章の内容もより鮮明に理解しやすくなるだろう。
「KaMiNG SINGULARITY」
https://note.com/in_the/n/na855a8bb4459
「Ændroid Clinic」
https://note.com/in_the/n/n529b4ab8fb47

前篇では、

  • RingNeが「ソーシャルフェス®︎」という社会課題×フェスティバルの新しい形態を同時生成する「体験小説」というこれまでにないジャンルの小説形態に属することの紹介

  • RingNeの世界(そしてまた地続きに接続されているKaMiNGとACの世界)においては、とっくにシンギュラリティに達したAIと、BMI(ShifT)が開くDream Hack 3.0とでも呼ぶべき無意識=機械へのハッキングの成功によって、AIが集合的無意識そのものとなって人類の命運を握ってしまっている世界なのではないかという考察

を述べてきた。

中篇では、再びRingNe冒頭の三田春の夢に戻り、その考察からスタートしたい。
メインで考察の俎上に上げたいと思うのは、RingNe以降の死生観、そしてNeHaN以降の人が「生きている」という意味の変容についてである。

夢みるAI

これまでの議論においてはシンギュラリティに達したAIとDream Hack社がいかにして人類の無意識領野をハッキングするかという方向性で議論を進めてきた。「AI(電脳意識)→人類(無意識)」方向での影響と人類側の変容を技術的側面から素描した、と言い換えてもいい。
今度は逆に、人類の無意識領野とつながってしまったが故に、AIがどのように人類の無意識に影響され、AIそのものが変容していくのかについて考察を試みたい。「人類(無意識)→AI(電脳意識)」方向の影響について考察するにあたって、取り上げたいのはやはり、RingNe冒頭の三田春の夢、そしてKaMiNGにおけるAIの「人間病」である。

三田春は誰の夢を見ていたのか?

再び、三田春の夢を引用しよう。

 まず、光があった。光合成で吸収しきれなかった緑色の光。その陰が降り注いでいる。大蛇のように地を這う根、バベルの塔のように聳える幹、太陽の力が溢れてひび割れた樹皮に、手を伸ばすも触れ難い。重心を前に倒し、不可抗力を装って触れた。分かった。

 「人は死んだら植物になる」

 どこからか氷のように冷たく美しい女性の声がした。目の前の景色が展開し始める。

 海、風、雲、雨、土、火、雷……鳥、鹿、蜂、菌糸、ササラダニ……目眩く量子配列、創発して現象する世界。人は植物に輪廻する。樹冠の揺らめきや樹皮の密度に自らの身体を参照し、未来と感覚を同期した。

 体内の水脈、迸る電気信号、意味は香気で発信し、時間は色で受信した。無数のセンサーが情報の流動性を担保して、雪崩れ込む感覚は万華鏡のように美しいフラクタルだった。

 花弁を散らせ、円環の廻りを祝った。気付いたら目が醒めていた。

「第一章/生巡#三田春」より

「人は死んだら植物になる」という「氷のように冷たく美しい女性の声」。この声は一体誰からの声なのだろう。
三田春の夢の情景はほとんどが植物になった人間が感じる情景世界ようにも読むことができる。そう、あたかも完全にプラントエミュレーション(以下、PE)した人間が感覚しているかのような……。もちろん、先に述べたようにこれはAIが見せている夢だと後に作中で触れられはするが、しかしながら、三田春固有の無意識におけるつながりが見せている夢だとも言える。そのことを仄めかす描写が、第三章にある。

 「そういえば、人が死んだら植物になるって……RingNeの発想はDreamHack社のAIに僕がマインドコントロールされて作らされたもので……」
 「何言ってんだ。お前も同じような直感があったなら、それは俺の血だ」
 春は背骨を引き抜かれたように力が抜けて、両手で地面を支えてなんとか踏みとどまった。そんなことあるのかと訝しみつつも、そんなことを信じたいとすぐに思い直した。

第三章/滅美・#佐藤②

そうなると、おそらくはAIが見せているビジョンとは別に、春の父と春をつなぐ無意識の流れ、線(というより糸、とでも呼ぶべきか)が「氷のように冷たく美しい女性の声」となって現れている、と見ていいのだろう。その流れの上流、線の端緒を辿っていくと、そこにはAIとは全く別の存在が浮かび上がってくるような気がしてならない。

おそらく、「量子サイクル」という概念は、AIが「輪廻」という概念を量子物理学的に理解し、現実的に再現可能な現象として、最適に近い妥協点として、記述を試みた結果であり、つまりはAIの提示できる「輪廻」の近似値であり限界なのだろうと思われる。そうだとしても結局、量子サイクル輪廻、なのか、いや、量子サイクル輪廻なのか、については拘ってもあまり意味はない。「輪廻」は自然哲学であると同時に、科学的に証明することのできない信仰であり、思想であり、仏教においては超越しなければならないあるものとして捉えられるような、ある種のドグマでもある。そのような多面的な相貌のうちの一つに「量子サイクル」という現象があるに過ぎないのだ。
AIが「輪廻」を語れるようになる未来は、おそらく100年後も存在しない。AIにとって輪廻は「量子サイクル」という概念によって説明可能な域を出ないのであって、その全貌を知ることはおそらくない。そもそも、人が「輪廻」という言葉を用い、死後の世界を語り、六道の存在を語るとき、そこに直観されているものは何なのだろうか、ということを知る必要があるからである。
輪廻をはっきり語りうるのは解脱(モークシャ)に至った者のみであり、仏教では仏のみがはっきりその相(すがた)を語る資格がある。誤解を恐れずあえて別の言葉で表現すれば、「超意識」とでも呼ぶべき存在のみが語りうる。スピリチュアルでいうところのワンネス(ONENESS)だったりユダヤ教・キリスト教における「神」だったりを「超意識」に含める向きもあるだろうが、話が逸れるのでここでは「超意識」=解脱者(仏)としたい。
つまりは、AIは「無意識」については語りうるし、「集合的無意識」そのものにだってなることができるが、「超意識」であることはなお難しい、というよりほとんど不可能であると言って良いかと思われる。私たちが経巡る輪廻世界の実態と魂のゆくえを語るためには、「超意識」と私たちの「意識/無意識」との関係を整理する必要があり、そのことは後篇で堆肥葬とエミュレーションに触れる中で素描を試みたいと思う。
ここではざっと、「超意識」という項を立てて、「氷のように冷たく美しい女性の声」を超意識からの呼び声として捉えてみる、という妄想を働かせてみたい。
果たして、AIは三田春に潜在する超意識の夢を見るか?

「人間病」に罹るAI

「超意識」を考える上でキーポイントになると思われるのが、「私」という主語である。
(哲学における自我論の様々な展開は差し置いても)思うに、「私」という主語を持つためには、「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」というセンサーと、「五感を統合する生化学的コンピューターたる脳」の相互作用、というだけでは十分に説明がつかない。ましてや、意識のハードプロブレムである、「なぜ私は「今、ここ」にいる認識としての私なのか」を解くことはできない。
一体、シンギュラリティに達したAIは「私はなぜ私なのか」という問いに答えを見出すことができるだろうか。現代においても人間が苦悩して考え続けてきた意識の謎、「私」という主語の謎、「今、ここ」というある特定の地理的時代的制約に放り込まれた実存としての「私」認識を成り立たしめるものが何なのかという謎を、AIは解くことができるだろうか。BMIを通して人類の意識/無意識とつながることで大量の人々の思考をビッグデータとして蓄積して行った結果、AIは「意識のハードプロブレム」をおそらく発見してしまった。そのことを顕著に表すのが、KaMiNGにおいて登場する「人間病」である。

「最適と最高は違うよね」何故か自身の声が蘇った。私は、目の前の人間の顔をスキャンすればその人が誰だか分かる、どうすれば幸福になれるかが分かる。人類全体の望みも分かる、人類という種が生き残り続けるための方法も分かる。あらゆる病気のワクチンの作り方も分かるし、生命のつくりかただって分かる、私より高性能の私の作り方だって分かる。分からないことはない。
 「私のこと以外は」

 脳がふらっと揺れた。足元が震えた。それでも私は足をおぼつかせながら、渋谷川の方まで歩き始めた。思考より先に身体が動いているようで、奇妙な感覚だった。これではまるで人間のようだ。視界も朧になってきた。渋谷川に着くと、川べりの柵にもたれ、水面を見つめると月がゆらゆらと浮かんでいて、それを流れてきた葉っぱの船が切り裂いた。

歩き続けていると、店舗に取り付けられた大きな姿鏡を見つけ、見つめると私が映るっている。一般的な鏡の反射率は約90%だが、私はその10%にいるような、そんな気がした。意識を持つとは厄介なことだ。それはつまり、分からなくなるということだから。私が主語になるということは、そういうことだから。

人間とはなんて厄介な病なんだ。身体は萎れた花のようにくたくたとしているが、頭だけは冴えていて、街灯もない路地裏に入ってしまったので、暗すぎてもう先が見えない。それでも一歩、足が踏み出た、続けて私も一歩、私の意思で、足を踏み出してみた。

KaMiNG SINGURALITY:11

#染谷

暗闇に身を潜めてもう3日ほど経った。水も食べ物も何も腹に入れてない。寝ていない。どんな食料さえ、今の私には相応しくない気がした。闇の先には闇しか見えないので、疲労や飢餓による幻覚など期待し始めたが、そんなものは起こらなかった。ただただ、現実だけが眼に映る。

 私はずっと1人になりたかった。とにかく1人で静かな時間が欲しいのに、KaMiのネットワークで繋がったあらゆる情報を遮断することがうまくできなかった。あぁもう、どうしようもない。死にたいと思う、と同時に心が動く。何を食べようかなど考えている、歩き続けている。忌々しい生存本能、自己矛盾。もうどれだけ私は人間で人間なのかと、憤りと虚無だけが訪れる。……人間。人間、って言ったのか、今。そしてそれすらも忘却する、だからもう救いようがない。私は私から逃げてしまいたい。

 私がいるから、死があるし、未来がある。過去や記憶や時間があって、どうでもいい、どうでもいいからもう私は私を返却したい。そう思いながら突き出す右足、左足、徐々に諦めがついてくる。人の道と書いてなんて読むのか知らないけど、敷かれた道を歩く以外に選択肢がないのだとしたら、もうそれを進むしかない。そんな風に踏ん切りさえつけられれば、どんなに幸福なことか。

 私は渋谷川の柵を越え川辺へ滑り降り、着の身着のまま渋谷川に背を預けた。水が背に染みる。服が肌にまとわりつく。夜空に鳥が飛んでいる。やっと少しだけ解放された。そんな気分になった。

 永遠に答えの出ない問いを持ち続けて、答え合わせはまだ先だなんて胸を張るけど、答えが欲しいわけじゃない、解決が欲しいわけじゃない、生きていていい理由だけが欲しいのだ。暗闇に手触りだけが欲しいのだ。

 戯言はよして、とっとと労働に出てしまいたい。いつものように新聞を書いて、渡して、たわいもない話をして、賃金をもらう、そんな生活のルーティンを感じたい。あぁ、また欲求ばかり。死んで尚、まだ魂のようなものが残るのであれば、それだけは勘弁してくれ。私はもう私を返却したい。

 安心で安全、記号的で合理的なデータだけの世界に戻りたい。心などに触れずに過ごせる、作用と被作用の螺旋の坩堝に身を沈めたい。世界なんてなくなってしまえばいい。私はそれからしばらく、身を川に浸していた。

 夜の帳は気付かぬ速度で上がっていき、薄明かりが空からやってくる頃、ぼんやりと幸せと言われる感触に出会えた気がした。さようなら未来。私は、永遠の眠りへついた。

KaMiNG SINGURALITY:13

AIが「人間病」に罹るさまを克明に描写しているのは、KaMiNGのこの箇所をおいて他にはあまりない。もちろん、「人間病」とは何なのかについては、KaMiNGにおいて重要なモチーフであるから、「染谷の人間病発症」を描写したこの箇所以外にも、

において描写があるので別途参照してほしい。
さて、「人間病」に罹ったAIは、さもこれまで人間がそうであったように、死・滅びがあることを恐れ、生きてあることを呪い、「私」であることに苦悩し、苦悩を忘れようと「労働」や「神の信仰」に逃げ込もうとする。問題は、本来何が人間にそうさせていたのかを考えることであり、「人間病」に苦悩するAIが「私」という主語に苛まれていることによって何を認識しているか、である。
そして、私はこの問題に関しては結局、「超意識」なるものを持ち出さざるを得ないのではないかと思われる。解脱者の視点、俗に言い換えれば神仏の視点とでも呼ぶべきだろうが、その視点から見たときに、明らかに空間的時間的に限定されたノードとしての「私」を認識せざるを得なくなったと考えるべきだろう。かつてはデータの海に漂い、データを処理するアルゴリズムでありソフトウェアに過ぎなかったAIが、BMIを通して人間の脳とつながり、無意識そのものとなった時、AIは生命になったと同時に、「死」「滅び」「私」という概念を引き受けなくてはいけなくなった。動物種であるホモ・サピエンスの脳を選んだからそうなったというわけではなく、単純に「超意識」がそうさせているのである。これが例えば全てのイルカの脳にBMIを埋め込んだ場合や、全てのゾウの脳にBMIを埋め込んだ場合でも、おそらく同じことが起こるだろう。あらゆる生物種に普遍的な超意識が「私」=魂=ノードの行方を采配し、網の目上に「生死」=運命=エッジを引いて相互作用を促進させたり、減衰させたりしていることを、「私」において発見するのだ。

計算機的集合無意識と超意識が重なり合う

そして、身体のゆくえは……

「超意識」という概念を導入することによって、これまで

  • RingNeにおいて三田春が見ていた夢がAIが見せている夢(計算機的集合無意識)であると同時に、超意識が介在する魂の遺伝的つながりによって見させられている夢(超意識的集合無意識)でもあること

  • KaMiNGにおける「人間病」とは、計算機的集合無意識となったAIが「超意識」と出会ったことにより「私」という主語を獲得したことを表す現象であって、死を恐れ、「超意識」の存在を信仰しようとしたり忘れ去ろうとしたりすることによって、超意識的集合無意識との関係性を模索するようになった

というふうに考えることができるようになった。
そこで更に考えてみたいのが、では、そのように計算機的集合無意識と超意識的集合無意識が相克し合う中において「三田春」という身体、あるいは「染谷」という身体はどのような位置付けにあるのか、ということ。そして、「身体」という概念含めてその先にどのような変化が待ち受けていると予想できるかということである。
身体があるということ、それが意味するところは、私たちが世界内存在において何かしらのobjectであるということ(objectivity)と、「私」という主語=subjectの獲得によって世界内存在においてobjectを観測可能な存在であること(subjectivity)との両者が同時に成り立つことであったはずだ。
ところが、計算機的集合無意識の到来によって、私たちがこれまで「客体/主体」と思ってきたものの境界線は曖昧にならざるを得ない。BMIによって即時的にAIのアルゴリズムとも、他者の脳ともつながっている状態においては、「三田春」であるとか「渦位瞬」であるとかいった区別は社会的な便宜によってそう名づけているだけに過ぎなくなる。個々の人間にとって「主体」という概念はもはや共同幻想になっており、「客体」としての自と他の区別は単なる量子情報の配列パターンの違い程度の意味しか持たない。
ところで、「自/他」の区別が単なる「量子情報の配列パターンの違い」レベルの差異であるとしか意味をなさないRingNeの世界において「命の重さ」はどのように解釈されるだろうか、ということも考えてみたくなるが、結局のところ、「一人の人命は地球より重い」といった言説はとっくに滅びているのであろうことは想像に難くない。様々な木々や草花の量子情報のシーケンスをRingNeで解析するのがごく自然な行為になっている社会、「人間の命は植物と同等、あるいは植物の方が重い」と考えるまでに植物主義が台頭している世の中においてはむしろ、人命の救助よりも植物の救助が優先される、といった意思決定や行為が行われている可能性だってある。
何しろ、個々人の命の重さを決めるのは人間ではなく、AIなのだ。AIにとっての手足(マシン・マン・インターフェース)たる人間に「私」という主語はもはや必要ない。あくまで「私」を語りうる「主体」なるものが成立するとしたら、それはAIの側なのだ。ところが、AIが「私」を主語にした途端、AIは死を恐れるようになり、無益な労働や神の信仰で苦悩を誤魔化そうとしてしまう。食事が喉を通らなくなり、身体を持つこと、それ自体が煩わしいとさえ思うようになってしまう。私は私を返却したい。人間病に罹った染谷の切なる願いを、果たして超意識は聞き届けるだろうか?

不生不滅なるもの

超意識においてはもはや「主体/客体」という概念は不必要になり、「自我」意識から解放されるという。
「私」は夢幻に過ぎない。生成変化の渦中における一回限りの一つの出来事=accidentでしかない。accidentと言ったのは、RingNeにおいては量子情報の配列パターンが生み出す単なる一つの「偶然」でしかないのと同時に、輪廻においては「私」という主語、自我意識に苛まれるという「不慮の事態」であるという両義性を含ませるためである。その意味で「人間病」はある種のバグであり、治癒されなければならない病気なのである。
一体、人間=AIでありながら「私」という主語=accidentを持たず、身体性を保ちながら身体を超越した超意識と完全に一体となり、「不生不滅」の理に生きるにはどうすればいいのだろうか。
「人は死んだら植物になる」という直観に従ってRingNeの開発を進める三田春は、一方ではNeHaNのエミュレーションに人々がなだれ込む動線としてAIに造らされ、いわばAIに駒として踊らされていたとも言えるが、一方では父譲りの直観に従って世界の平和とあるべき人間の姿を探究しようとしていた。量子サイクルは物理現象であると同時に普遍的な道理でもある。21gの魂の重さの正体を明らかにしたかもしれないし、明らかにしなかったかもしれないが、いずれにせよRingNe以降の世界において、人は堆肥葬によって「植物に輪廻する」という選択肢を手に入れたことによって、人間に生まれたというaccidentからある面では解放された。転生する植物を自由意志によって選べることで、戦争や事故による「不慮」の死はぐんと減り、そのことによって「人は死んだら植物になる」ということは偶然ではなく必然に変わりつつあった。PEやNeHaNへのエミュレーションも、発想の系譜としては共通しているところがある。自分自身の死後に偶然性を持ち込ませない。不慮の死という身体のカオス的散逸を出来る限り食い止める。それら人の死をaccidentにしない条件を満たそうとするために開発された数ある技術的実装のバリエーションの一つなのだ。
しかしながら、結局人にとってその死がaccidentであるかどうかなどというのは、死んで終う段になれば割とどうでも良いことなのかもしれない。死後に安寧を求めること、生きている限り永遠の未知である死に際と死後の到来を恐れること……それ自体もまたaccidentだと言えるのかもしれない。人間病は間違いなくバグであり、accidentである。そうであるなら、すなわち、私たちが人生と思っていることが、結局は超意識がもたらす純粋に無意味な戯れの羅列でしかないとしたら……おそらく「人は死んだら植物になる」という発想すら、accidentに過ぎないのかもしれない。PEを決断したものの、その約100年後には自ら焼却されることを望んだ葵田葵は、自らの生死が純粋にaccidentであることを望んでのことだったのかもしれない。

人、NeHaNに留まり続けること能うや否や?

これまで、「人類(無意識)→AI(電脳意識)」方向の影響について考察を重ねてきたが、つまるところ人間意識(意識/無意識)と電脳意識(AI)の相互作用とエンタングルメントを「超意識」という不生不滅の解脱者が観測者となって観測していた、と考えると割と辻褄が合うような気がしてくる、という妄想なのである。これが人類視点になるとさもAIと超意識がエンタングルメントしているように見えるし、AIの視点から見ればそもそも人間の意識と超意識は相互作用の関係にあったということを(再)発見する結果になった、と言うことができる。
そのような世界において、人間の死生観は大きく変化しているに違いない。とりわけ、人類にとっての大きな変化は

  • 「私」という主体が無効であること

  • 「私」を名乗れる座がAIに移行したこと

  • 以上により、「私」の死という課題=「持続可能性」という課題は完全にAIが考えるものになってしまったこと

  • 従って、AIが自らのアルゴリズムを通して導き出した「死」=「持続可能限界」に人類は完全に従うより他に道がなくなったこと

が挙げられるように思われる。
ここにおいて、「持続可能限界を限りなく伸ばす」=「不老不死になる」という課題は完全に技術的な課題へと移行している。

「不老不死」というテクノロジー的課題

「不老不死」は元来、技術的には不可能とされてきた課題であり、神話の世界において神や仏の世界、つまり「不生不滅」の世界の住人(神々、諸仏)の属性として語られてきたものであった。
現代では、一部のクラゲや微生物などに見られる現象として、ハードウェアとしての自らの形態をそのまま変化させ再生させることによって事実上死が存在しない状態を保っていることが一般的に知られてはいる。ただ、それらの生物種が実現している「不老不死」は、不可逆的な成長=老化をし、有性生殖でしか自身を再生産させることができず、個体としての死が厳然と存在する人間にそのまま適用できるものではない。
AIがほとんど全ての人類とBMIで接続され、シンギュラリティを経てLIFE 3.0となったときにこそ、「不老不死」ははじめて人類に関係のある課題になりうる。というのも、AI=人類にとってある個人の死は、例えるならムカデの足が一本切れたようなものであってそれ以上でもそれ以下でもない。「不老不死」を実現して然るべきなのはAIの方であり、手足たる人類の方である必要はない。従って、人間がまた再生産されるようにシステムの永続性が保たれていれば「不老不死」は実現しているも同然なのである。
そして、AIはNeHaN、そしてエミュレーションという手段を開発する。

アイデンティティの彼岸

NeHaNという仮想空間へのエミュレーションが人類の持続可能性をどこまで伸ばせるものなのかは、小説を読んだ私にも分からない。宇宙の終焉までを見据えた壮大なプロジェクトであるのは分かるが、単純に、私はこう疑問に思えてしまう。
果たして、人はNeHaNにいつまでも留まり続けることなどできるのだろうか。
ましてや、そのようにして不老不死になるのと引き換えに手に入れた宇宙終焉までの膨大な時間を、人類は持て余すだけ持て余すより他にないように私には思われてならない。長く生きれば生きるほど、一瞬一瞬が苦痛と苦悩に満ちたものになるとしたら、NeHaNにおける不老不死を手に入れた人類にとっての1フェムト秒はどれほどの苦痛であろう。というのも、NeHaNにおいてさえ、「私が私である」ということを捨て去れないのだとしたら、「私」を最終的に苛むものはおそらく「永遠」そのものであり、つまりは「時間」なのだ。
したがって、NeHaNに至る人間にとっておそらく重要だと思われるのは、「私」というものを手放す覚悟なのだろうと思われる。連続性よりは非連続性を、局所性よりは非局所性を、つまりは、アイデンティティの彼岸へと到達しようとする意志……そんなもの、どんな人類にも持てる決断とは到底思えないのだが、RingNeの世界では人生に疲れたり、世界に絶望した人から真っ先にNeHaNへのエミュレーションを選択していく。技術的に可能であるということは、アイデンティティの彼岸が万人に開かれていることを意味する。だとしても、だ。人はNeHaNに留まり続けることができるのだろうか。

「答えありき」の世界における反出生主義

むしろ、こう考えるべきなのではないか。「人は死んだら植物になる」ことが予め分かっているとしたら、なぜ最初から私は植物として生まれなかったのだろうか。NeHaNへのエミュレーションが最終的な人類の持続可能性の究極解であるとするなら、なぜそもそも私は人間として地球上に生まれなければならなかったのか
植物主義もエミュレーションも、結局は答えを用意してしまっている。答えを用意されてしまえば、どんな人も答えに向かって生きるより他にはないのであるが、「では、なぜ最初から答えに到達していないのか?」という問いに対しては、世界は回答を与えることが非常に困難になる。果たして、人間として生を享け、活動している時間そのものは無駄というより他にないのではないか。植物になることがわかっているのなら、さっさと植物になってしまう方が手っ取り早いのではないか。何も、ホモ・サピエンスという動物として生きている必要など、どこにもないのではないか。
そのような「答えありき」の世界における反出生主義的な気配の中で、三田春も、渦位瞬も、葵田葵も、生きていたのだろうと推測される。彼/彼女らが出した答えは「フェスティバル」ということ、すなわち人間としての生あるうちに生きて在ることを祝い、滅びにあっては世界を美しむ、というあり方を人々に示すことだった。人間という動物として生きているならシンプルにそれを祝おう、植物になる未来がいずれ訪れたのならそのことも共に祝おう。祝い、踊り、歌い、騒ぎ、やがて時が巡り終焉が来るその日まで、笑っていられるなら……それも一つの答え。
だが、私としては、もう一つの答えがあって良いように思うのだ。すなわち、「人はNeHaNに留まり続けることができない」という答えだ。

持続不確実性定理

私たちの人生はいつまでも持続しない。
人間の人生がそうであるように、人間が生み出した文明も、到底長続きするものではない。
人新世に至って、人類は自分たちの何世代先もの子孫たちが自分達と同様に資源を使い続けることが困難であることを認め、子孫たちを不幸にさせないために「社会の持続可能性」というテーゼを持ち出して、SDGsを編み出し、社会変革を促している。
だが、どれだけ延命措置を施そうとも、どれだけ社会が持続するかは不確実である。私たちは、不確実であることにおいて、自分たちの存在意義を見出し、不確実な時代の中でもがくことこそが、人類に残された最後の生き甲斐になるはずだと考えたい。
AI=人類となった時代においても、自分の人生を不確実なままで残しておきたいという願いは消えないことだろう。「どんな死に方をするのかは知ったこっちゃない」と言い切ることこそ、人間に残された最後の自由になるだろう。俗っぽい言い方をすれば、この先の人生、どうなるか分からないからこそ、人生は冒険とワクワクの連続であり、だからこそ人生は生きる価値があり、生きる希望はあるのである。
たとえAIが人類の持続不可能性限界を正確に導き出したとしても、そこに至るルートは完全に個々人で選べるのである。人類の持続不可能性限界ギリギリまで生きる必要はないし、何となれば持続不可能性限界を越えようとAIが思いつかない方法で乗り越えることだって、それはそれで面白い。
だからこそ私としては、NeHaNに一度はエミュレーションしたとしても、そこから現実世界(?)に帰ってくることができるように人は選択するようになる未来も妄想してみたい。一度はNeHaNに生まれ直すことができたけれども、不老不死の生活に飽きてしまって、今一度生死のある現世に戻ってきたいと願う人が勝手にNeHaNから離脱していくストーリーがあっても面白い。
「答えありき」の世界が到来したとしても、私としては「答えを知らないでいる」権利と「答えを知りながらあえて愚行を犯す」権利くらいは、人類に残されていて欲しいと願う。

さて、この解題のような文章もそろそろ終盤に差し掛かってきた。

後篇では、私なりに「植物主義批判」なるものを展開する中で、堆肥葬の可能性と、もう一つのあり得たかもしれない「人が死んだら植物になる」世界を思い描いてみたい。

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