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スペキュラティブエンターテイメント

はじめに

こんにちは。音楽フェスのプロデューサーをしています雨宮と言います。という自己紹介にやや違和感を感じ始めたことが本記事を書く1つのきっかけとなりました。それは多分世間一般に知られている「音楽フェス」と自分の作るフェスは大きさや、華やかさ、哲学もちょっと違うので、この言葉でいいんだっけと、訝しく思うのです。

加えて、もしサマーソニックのような規模のフェスを自分でプロデュースしていたとしても、音楽フェスのプロデューサーと言ってしまうのは怪しくて。。本記事では自分がつくっているコンテンツが、エンターテイメントとも音楽フェスティバルとも当てはまらず、既存の言葉とややズレた枠にいるために、その枠たる概念(言葉)を創造し明確にしていく記事になります。

なんだかエゴイスティックな発信になるやもしれぬと思いつつも、1人の頭で考えていることはきっと世界の誰かも同じようなことを考えていて、共通の記号となるものがあったほうがきっと立ち回りやすいと、そんなことも思っています。

そして、これから創造していく言葉「スペキュラティブエンターテイメント」が広げゆくコミュニケーションとイマジネーションは、確かに人類の資産となっていくことを信じて。

-目次-
・雨宮優について
・新たな言葉をつくる理由
・スペキュラティブエンターテイメントとは何か
・これまでの事例
・スペキュラティブエンターテイメントの役割
・おわりに

雨宮優について

まずはこれまでつくったフェスの一部を動画にしたのでご覧くださいませ!

専用のワイヤレスヘッドホンを使い周りから見ると無音に見える「サイレントフェス®︎」、有機野菜農家の畑に泥プールを作り音と泥にまみれる「Mud Land Fest」難聴の方でも聴こえやすいスピーカーを使った都市型無料野外フェス「Sooo Sound Festival」ローカルベーシックインカムをフェスに実装した「Quantum2017」生物多様な公園を表現したサイレント盆踊り「Neo盆踊り」などなど、、

これまで最大で300名ほどの小さなフェスを全国で50本ほどプロデュースしてきました。これらは「ソーシャルフェス®︎」という独自のフェス作りプロジェクトの下、企画制作してきました。ソーシャルフェス®︎とは簡単にいうと「SDGs(持続可能な開発のための17のグローバルゴール)がそれぞれ終わった後の世界を想像してフェスにする」プロジェクトです。課題を啓蒙し斥力として変化を促すのではなく”そうぞう機械を最大化”したエンターテイメントをつくり、イマジネーションから未来の可能性の拡張を狙うプロジェクトです。過去様々な企業や行政とコラボしSDGs15-7、11-a、12-3、7-2、11-7、17-3などの未来を想像した世界(フェス)を創造してきました。

プロジェクトの背景やそれぞれの紹介を書いてしまうとあまりにボリューミーな記事になってしまうので「ソーシャルフェス®︎」に関しては下記の取材いただいたリンクをご参照ください。

新たな言葉をつくる理由

ソーシャルフェスのような背景を持ったフェスを説明するとき、当てはまりそうな言葉がいくつかあります。例えば、、

・エンターテイメント
・エデュテイメント
・アクティブラーニング
・ソーシャルデザイン
・スペキュラティブデザイン
・コンセプチュアルアート

カタカナばかりで難しいのでそれぞれ日本語に変換してみると

・エンターテイメント(娯楽/遊び)
・エデュテイメント(娯楽的教育/教育的娯楽)
・アクティブラーニング(能動的学習/主体的学び)
・ソーシャルデザイン(社会計画/社会変革的意匠活動)
・スペキュラティブデザイン(投機的意匠/思索的設計)
・コンセプチュアルアート(概念芸術/観念芸術)

と、なるかなと思います。(異論はあると思いますが、、)

そしてスペキュラティブエンターテイメントを直訳すると「投機的娯楽」となるわけですがもっとマイルドにすると「遊びを哲学する」ということになります。

エデュテイメント、アクティブラーニング、ソーシャルデザインほどベクトルは持たず、コンセプチュアルアートほど難解なものでなく、スペキュラティブデザインとエンターテイメントの両方の性質を持つ言葉です。

遊びと哲学、なんだかそれは相反的な印象を持つかもしれませんがそこは矛盾なく付き合っていけるという経験値ができてきたので、満を辞して名詞にすることで、これまでちょうど当てはまる言葉のなかったエアースポットに輪郭を持たせていきます。

スペキュラティブエンターテイメントとは何か

作家の井上ひさし氏はこう遺しました。

”むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに”

スペキュラティブエンターテイメントはまさにこういったプロセスを意識してつくっています。少し加えるとしたら

”むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをむずかしく、むずかしいことがゆかいに”

スペキュラティブエンターテイメントの目的は「最大多数の最大想像」で、楽しい問い、問い自体が楽しくなることに着地をします。難しさと楽しさが両立する例は、ゲームのハードモードや、将棋や囲碁のようなものをイメージすると良いでしょう。

ソーシャルフェスの場合、液晶や盤面上でつくる架空の世界を現実に置き換えたものです。どうぶつの森で理想の村をフィクションとして作るように、現実で理想の社会(フェス)をフィクションとしてつくります。現実をフィクションとして捉え、その空間に「未来」と名付けることでエンターテイメントに問いが生まれます。

概念の構造としては上図のようになります。
エンターテイメント(楽しさ)はロジェ・カイヨワ氏が言うに「規則から自由になろうとする力(パイディア)」と「規則をつくろうとする力(ルドゥス)」に分けられるとされます。演劇などは自分を脱ぎ捨てて規則から自由になろうとする楽しさ。一方、サッカーやチェスなどは規則をつくる楽しさです。

スペキュラティブエンターテイメントでは無規制を楽しい仕掛けとすることもありますが、規制をつくり参加者のマインドが変化していくことで、楽しさが愉しさになっていくことが現状は基本形となっています。ソーシャルフェスの例で言えば、演出された世界観を受け入れその世界の住人としての自分を自覚し演じることで、愉しい問いがやってくるのです。

そのようなエンターテイメントをデザインすると同時に、アートの要素も配合しています。まず、アートとデザインの違いについて、これは非常に多様な意見があるところですが極シンプルに解釈すると個人的には、デザインは線、アートは点、だと思っています。

デザインは始まりから終わりまでの”ステップ”としての機能、アートは始まりも終わりもない”ビジョン”としての機能を持ち、デザインは言葉の通りサイン(共通認識)として役割を持ちますが、アートは球をどの角度から見ても球なようにノーサイン(個人認識=お好きにどうぞ)として役割を持ちます。

そしてスペキュラティブエンターテイメントを記号にするとこうなります。

エンターテイメント的な大衆性を入り口にデザイン的な導線を設計することでアート的な問いへ着地していきます。エンターテイメントだけでは次に繋がらず消費されがち、デザインだけでは指向性を持ちすぎてしまう、アートだけでは難解すぎる、その折衷点を象った概念になります。

なぜ指向性を持たせず、問いへ着地させるのかというと私自身の哲学の話になってしまうのですが、正義の敵はいつでも正義だからという不戦の思考にあったりします。 詳しくは以前書いたこちらの記事を参照いただけると幸いなのですが、集団が1つの方向性に向かっていく変化より、個人が自分の頭で考えた方向性に向かい、結果として数が多かった方向性を時代の変化としていくほうが、多様性と内発性を包括し、進化論的に健全だと思うからです。

これまでの事例

ソーシャルフェスプロジェクトのいくつかのフェスを事例に、より概念を明確化していきます。スペキュラティブエンターテイメントはアーティストが自分のアート作品の意味を解説するような恥ずかしさやナンセンスさを越えて設計しているので、もしかしたら仕組みを解説するプロセスにダサさを感じられるかもしれないですが、そういう概念なのでまずは解説のためご容赦ください。

1.Neo盆踊り (×公益財団法人大田区文化振興協会)

コンセプト:SDGs15.7
動物圏まで意識を拡張する、全ての命を祀る盆踊り。

【エンターテイメント性】
来場者は専用のワイヤレスヘッドホンと絶滅危惧種のお面をつけて参加する周りから見ると無音の盆踊り。やぐらの上にはDJが立ち、ダンスミュージックがヘッドホン越しに流れます。狭い視界とヘッドホンの遮音性により1人で音楽に没入しつつも、同じパーツを身につけた人達との奇妙な一体感があり、公共空間で踊る背徳感がスパイスとなりライブにトリップしていきます。櫓はナチュラルな自然装飾とプロジェクションマッピングで神殿を演出。

【デザイン性】
事前共有するマインドセットとして「選んだお面の動物になりきること」「年間4万もの生物が絶滅する中、全ての命を祀る盆踊りとして開催すること」を共有し、狭い視界で神秘的な櫓を回ることで生命の循環や、1つに繋がる命を想起させていきます。お面の裏側にはその動物の絶滅状況を書いたシールを貼り”楽しいことには裏がある”というメッセージも表現しています。

【アート性】
そもそも盆踊りとは盆の時期に死者を供養するための行事だったと言われていますが、現在地球では年間4万もの生物が絶滅していることが可視化されるなか人間以外の生物まで想いを馳せる日としての盆踊りをつくりました。あの世とこの世だけじゃなく、種族の壁も越境した儀式としての祭りがある世界を表現しています。

2.Mud Land Fest(×株式会社ベジリンク×たがやす倶楽部×山武市)

コンセプト:SDGs12.3
年に1度の泥の国のお祭り。野菜が生まれる場所に埋まりに行こう。

【エンターテイメント性】
千葉県山武市の有機野菜畑で開催する”泥フェス”。畑に泥プールをつくり、オーガニックでハッピーな音楽が響き渡ります。畑の有機野菜はその場で抜いてその場で食べられ、泥を絵の具にした泥〜イングブースや、泥ヨガ、五右衛門風呂、オーガニックなフェス飯ブースもあり、全身で自然を感じられます。近隣の農家さんも、都市から来た人達もみんな泥々、1つの大地で繋がります。

【デザイン性】
畑のすぐ側にキッチンを配備して、食材は参加者に収穫して持ち込んでもらいその場で食べられる分だけ調理して提供することで、フードロス、フードマイレージが0の世界を表現しています。ドリンクブースでもプラコップを使う場合は1つのプラコップが消費される際に発生するCO2約153.4g分と同じ重さの重りをつけてもらい、自分が温暖化していくことを地球温暖化のメタファーとして体験してもらい消費と環境についての問いかけます。

事前には下記のような文化を共有します。

【アート性】

..時は2050年、既存の国家という枠組みはとうに無くなり、旧日本国には新たなコミュニティがいくつも出来上がっていた。 Mud Landは2022年、経済成長に飽きてスローライフを実践する一派から派生しつくられた泥を祀る仮想国家。

彼ら彼女らはスクラップ&ビルドな経済や消費に辟易とし、地球と共生できる消費や生産の仕組みを考えていた。そこで辿り着いたのが過去、たがやす倶楽部と呼ばれていた土地。 

地主は何十年も前から有機的な農法を通して、土を育み、その場を解放することで人を育み、この周辺の地域は畑を寄り合い場として地産地消の暮らしを続け、老若男女が分け隔てなく繋がっていたと記されていた。 
 
その文化を培ってきた地主の農家さん、そしてこの偉大な土に敬意を持ってこの場を「Mud Land」と名付けた。 
 
畑は時にはレストランに、時にはライブ会場になり、チャーミングな畑は、都市からも多数の人たちが訪れていた。
独自の挨拶、独自の宗教などの文化も培われ始め、彼らの日常は土への感謝から始まった。 
 
地球では未だにフードロスやフードマイレージの諸問題が解決されていないが、この場所ではそんな概念すらなく地球と自分たちの暮らしを1つのものとして考えていたので、いつまでも続いていける生活の形がそこにはあった。
 
この場所の文化を、暮らしを体験すれば、きっともっとみんなで持続可能な生活を目指せるはず。そう思った1人の旅人が、Mud Landの住人たちと年に1度Mud Land Festというお祭りを開催することにした。そこでは来場する人全員がMud Landの住人たちと同じように、土からの恵みと学びを存分に受けたそうな・・。  

スペキュラティブエンターテイメントの役割

大きく2つの役割があると考えます。
1つは種の生存に資する機能拡張の役割として。

人類種がこれまで生存し続けてきた背景には、私たちのどんな機能が働いているのでしょうか。武器や建物など物を作る力でしょうか、書記や絵を通して文化を伝える力でしょうか。他の生物と人間の大きな違いとして、集団で柔軟な行動が取れるかどうか、という観点があります。

集団行動をとる生物は多くいますが、それぞれが他者の思考を想像し柔軟に役割や行動を変えていくのは高度な知能とされています。私はそれを1言で想像力と言いますが、他者や未来など今ここに見えない概念を想像して共感していく力(信じる力)こそが人類存続の背景に働く機能なのではと考えています。

SDGsを始めとした多くの課題(とされるもの)が世界で蔓延っていて、それを1つ1つ解決していくことは重要なことですが、スペキュラティブエンターテイメントの役割はその課題すらも疑う健全な猜疑心たる想像力、或いは知性と言えるものを拡張することにあるかと考えます。

知性とは臼歯のようなものと思っていて、あらゆる食物(情報)を咀嚼してより味わい深く感じ、消化しやすい形に変換することでエネルギー効率を高めます。人類に臼歯がなければ、多様な食物から多様な栄養を取ることができず、長距離の大陸移動も困難だったでしょう。

情報を鵜呑みにせず、自身の知性を介して共有や行動を行うことで生活や市場の様式は多様化し、結果として様々な環境変化で全滅しない可能性が高まります。

そして出来るだけ痛みの少ない形で知性を拡張していくには、フィクションの力を使い出来るだけリアリティを持って世界を0にすることだと思います。あらゆる社会概念が虚構であることを認識した上で、量子的な実在論を持ってして0から1を自らで作っていけることを「Feel First. Learn Late.」で楽しい体験から広く想像機会をつくっていけるのがスペキュラティブエンターテイメントです。

もう1つは単純に「愉しい」という役割です。
そこに社会的理屈や合理性はなく、言葉にできないほど感動することだったり、ただ過ぎ行く時間を慈しむことができたり、時も忘れるほど熱狂してしまうこと、その素晴らしさを語る必要は全くないと思います。

未知とはエンターテイメントです。何故か不安に思うことが多いですが、知らないことがまだ世の中にあるということが未来をつくり、時を動かし、新たな感動と出会わせてくれます。スペキュラティブエンターテイメントを通して、想像を拡張することは単に愉しいということなのです。

おわりに

長文を最後までお読みいただき本当にありがとうございます。
まだ簡潔にお伝えできるほど解像度が高くない概念につき読みづらさもあったかと思いますが、私以外からもスペキュラティブエンターテイメントを立脚点としたコンテンツが生まれてきたり、また既存のものに当てはめて発していただいたりすることで、徐々に輪郭が濃くなり、言語としての拡張性が出てくるような気がします。私も更なるグッドプラクティスが共有できるよう精進します。

ということでスペキュラティブエンターテイメントのプロデューサーの雨宮でした。今年もよろしくお願いします。(余計分かりづらくなった・・)

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雨宮へのお問い合わせはこちらから
https://www.social-fes.com/

もしくはTwitterアカウントへ
@amemi_c5

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(ただの)エンターテイメントについての発想術記事はこちら
https://note.mu/in_the/n/n1cf60064b4ee

「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。