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「私たちは『買われた』展」盛岡・感想

やり遂げた。
とりあえずやり遂げた、という感慨が今は大きい。
私は運営メンバーの一人として、Compassという団体、「私たちは『買われた』展」盛岡(以下、買われた展盛岡)を実現させるための組織が立ち上がるところから、2022/09/17・9/18に岩手県民会館で開催するところまで、協力してきた。
この記事の前半では、その期間に運営メンバーとして私が考えてきたことを簡単にまとめたいと思う。

そして、展示の実物を見るのは実は盛岡が初めてだったので、「私も展示をみたい」という思いで開催当日まで頑張ってきたというところもある。
果たして、願いは叶った。
新宿や仙台をはじめ、各地で展示されてきた「買われた」少女達の真実と社会に向けての叫び声とに、私自身初めて触れることにもなった。
展示に関して私が考えたことは、また別に考察記事としていくつかまとめるので、この記事の後半では、展示に触れた時の衝撃を書き綴ろうと思う。

「買われた」少女たちに耳を傾けない社会への憤り

私は展示を見る09/17・9/18のその日まで、「買う男が100%悪いのであって、買われた少女たちは何も悪くはない」と思い続けているところがあった。
もちろん、これは正しい考え。今の日本社会において強調してもし過ぎることはない大事な視点である。
これが展示に触れて、より解像度を上げるための若干の修正を加える必要があると気付かされることになるが、その話は後に回すとして、私が関わるようになった簡単な経緯をお話ししておきたい。

元々、私は「フラワーデモもりおか」のつながりでCompassという団体の立ち上げに関わった。
フラワーデモは、ご存知の方はご存知かもしれない。#metoo運動に端を発して、TwitterやInstagram等のSNSを通じて性暴力被害に遭った女性たちが集い、自らの体験談を話したり、話す姿を傾聴して#withyou(あなたと共にいます)のメッセージと共に受容し合うような、非常に対話的な社会運動である、と私は受け止めている。詳しく知りたい方は、こちらの書籍を参考にしてほしい。

要するに、これを岩手の盛岡でもやりたいと集まった団体が「フラワーデモもりおか」で、性暴力を無罪放免にしてしまう日本の司法制度の問題に関して勉強会を開いたり、毎月のようにスタンディングデモを実施してきた。そして、今回の買われた展盛岡の運営には、「フラワーデモもりおか」でスタンディングを行なってきたメンバーの何人かが携わっている。私もその一人である。

どうして私がフラワーデモに加わるようになったかはここでは割愛させていただくとして、こうした経験を通して私がどういう立場になったかを簡単に説明すると、

  1. MtXトランスジェンダー当事者のフェミニスト

  2. 生物学的に男性として社会に生まれ育てられながら、かつフェミニストでもある

この二つは、両立するようでいて時に互いに緊張状態や葛藤を起こし、自己分裂しかねない危うさも持ち合わせている。
例えば、1の立場で言えば、「買う男は100%悪い」のは当然のことなのであって、それ以上でもそれ以下でもない。しかも、「男であることそのものが罪」「男である以上どんな男であれ『買う男』でありうる」という主張すらも肯定することだろう。
しかし、2の立場からは、「買う男」と「買わない男」がいて、「買う/買わない」を分ける決定打がどこかにあるはずだと、そう思いたい。男に生まれたことそのものを絶望することからはおそらく何も始まらないだろう、という反発も起こる。
こういう、「クィア」としてのフェミニスト=自己と「生物学的男性」としてのフェミニスト=自己とは時として自己分裂的な緊張関係を起こす。その時、私はフェミニストでよかったと思うことにしている。緊張関係は緊張関係でも、こういう緊張関係を自己の内に保っているフェミニストはそう多くないだろう。

買われた展盛岡をやりたいという声を私たちは大体去年の9月あたりから上げていたが、お陰で私は1年間、「買われた」少女たちのことについて想いを巡らし、考え、自分ごととして色んな人と対話する機会に恵まれた。

性暴力・売買春は社会悪であるだけでなく違法なことであり、買春をした者・性暴力を犯した加害者は適正に裁かれるべきだ。

にもかかわらず、女性の人権は未だに日本社会では十分守られていない。
司法が様々な判決で加害者を無罪放免にし、福祉の支援が十分に行き届かず、行政にはそもそも女性の人権を守り、支援するという発想そのものが欠けている。

日本国家は、女性たちの声、とりわけ「買われた」少女たちや家庭で貧困・暴力にあえぐ女性たちの声を聞こうとしない。だからこそ、身近なところから草の根で声を上げて訴えていく。

フラワーデモや買われた展盛岡の準備を通して、私はこのような正義に全面的に賛同してきた。これからも賛同しようと思っている。

しかし、それも大事でありながら、一方で気になり続けてきたことがある。
「『買われた』少女たちの側には必ず『買う』男たちがいる」
「『買う』男は、どこにでもいる普通の男性の姿をしている」
という点である。
企画展前日、会場準備として一つ一つの写真パネルとキャプションをじっくり観覧させてもらった時、それは確信に変わった。

「買う」男たちの凡庸さ

買われた展内部の様子

ここに一つの「神話」がある。

世の中には白馬の王子様のような男性と、オオカミなる男性、買春・暴力を平気でやる男性がいる。
オオカミ男性は、大概、オヤジで、デブで、臭くて、オタク気質で、道徳心の壊れた性欲のモンスターである。
彼らは日頃からモテないウップンを性産業にお金を払うことで己が性欲を慰めてきた。
彼らのような「キモいオヤジ」どもがいなくなれば世の中もっとクリーンになるだろう。

こんな単純な話じゃない。
それぞれの写真を直に見て、また少女たちが書いたキャプションの文章を直に読んで、私は衝撃を受けた。

「買われた」少女たちの多くは、本来、「キモいオヤジ」とは無縁の存在だったはずの、どこにでもいる少女たちだった。
しかしながら、家庭に居場所がなかったり、両親が何かしら問題を抱えていたり、貧困の真っ只中にあったり、いじめに遭っていたり、学業でプレッシャーにさらされていたり、脳機能の障害や精神的な障害を抱えていたり……要するに「生きづらさ」を複合的に抱えている少女たちでもある。
私が日頃の生活の悩みやDV等に関して、相談業務を通して接したことのある少女たち・女性たちと極めて重なる部分が多い。
私はソーシャルワーカーとして色んな人の悩みを聞くことが多いからこそ、何度でも繰り返して強調したい。
「買われた」少女たちは、特殊な存在ではない。
あなたの家の隣にいて、あるいは街でしょっちゅうすれ違っているような、どこにでもいるけれども内側に寂しさや生きづらさを抱えている少女たちである。

そして、キャプションを通して見えてくる「買う」男たちもまた、凡庸な、どこにでもいる男性だったのには、予想はしていたが改めて衝撃を受けた。
裏社会に生息している「ヤバい」男性、あるいは「ヤンキー」のような非行少年、先ほど述べたような「キモいオヤジ」は、出てこないか、出てきてもケースとしてはきわめて少ない。
多くは会社員。
若く、服装が清潔で、オタク気質どころか女性に気遣いもできる優しい性格の持ち主だったりもする。
モテないどころか、結婚してパートナーがいることも珍しくない。
しかも、「女性は守られるべき存在だ」など道徳心をしっかり持ち合わせていたりもする。

ハンナ・アーレントはアイヒマンを形容して、そしてファシズムを生み出した悪について「凡庸な悪」という言葉を編み出した。
それに倣って、私は
『買う男』とは、『凡庸な』男たちのことである
『買う男』は、どこにでもいる普通の男たちのことである
と言いたいと思う。
買われた展盛岡にかける想いを語った私の話も、結局はここを強調したいがために話したところがある。

ならば何故、「買う男」たちは平然と少女たちを金で買えるのか?
男たちは自発的に少女たちを買っているのか、それとも何かが男たちに少女を買うよう仕向けているのか?
「買う男」が二度と少女を買わなくなる日は来るのか? そのように社会を変えていくことは可能なのか?

買われた展の展示を見ながら、私はこれらの問いに取り組もうと取り組もうと頭を巡らすことにした。その、暫定的ではあるが、一つの着地点が

  • 女性は快楽のための消耗品である

  • お金で買えない快楽はこの世に存在しない

という男達の間違った価値観の問題である、とする見方である。
つまり、買春という行為そのものではなく、買春を成り立たせる価値観とその価値観が息をするための権力の生態系(=エコシステムとしての買春文化)を分析し、解体することが、「買われた」少女たちをこれ以上増やさないために、また「買う」男たちをこれ以上のさばらせないために、言い換えると「大人たちの責任」を果たすために重要だと、私は思っている。

「売春」は存在しない

買われた展には様々なバッシングがある。その一つに、
「『買われた』じゃなく、『売った』、だろう」
というものがある。
あたかも、少女が自発的に売買春行為に手を染めたかのように物語を誘導することによって、
「売春をする女」という"特別な存在"をでっち上げ、
「売春をする女」というカテゴリーに罪のない少女たちを放り込み、
そもそも「買春」というエコシステム=文化がある問題そのものを不問に付そうという権力が存在する。

なぜ、「私たちは『買われた』展」なのか?
それは、そもそも「売春」は存在しないからだと、私は受け取っている。
ただ、歪んだ価値観のもとに買春する男たちと、買春を成り立たせるグロテスクなエコシステムだけが、存在する。
少女たちはその犠牲者にすぎない。
そして、こう言ってよければ、買う男たちもまた、グロテスクなエコシステムの犠牲者でもある。
だから、「買う男が100%悪いのであって、買われた少女たちは何も悪くはない」は、正確にはこう言い直さなければならない。
『JKは金で買える』という間違った男たちの考え方が、
彼らが牛耳る社会の構造が、
「売春」というレッテルのもとに、
罪なき少女たちを追い詰めている
」と。
そのことをより突っ込んで考えた内容を、以下に考察記事としてまとめてみた。

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