「悲哀の月」 第57話
アビガンを投与した里奈だが、症状は停滞していた。酸素マスクを装着したままだ。呼吸に関しては僅かに楽になったが、咳は相変わらず出続けていることで背中に痛みがあり、高熱も続いている。また、倦怠感も取れず、頭痛がひどい時もあり寒気も取れない。
(どうして良くならないの。私はしっかりと治療を受けているというのに。アビガンだって飲んでいるじゃない。普通は回復に向かっていくはずじゃないの)
里奈はその現実に気持ちは萎えていた。持ち前の前向きな気持ちはすっかり萎んでいた。もはや自分は手遅れなのではないか。このまま命の火は消えてしまうのではないかと、弱気になっていた。こんな考えは自分らしくないと思ったが、全身に襲い掛かってくるコロナウィルスには勝てなかった。次々と希望を削いでいく。
「里奈さん。体調はいかがですか」
そんな気持ちでいると、入室した沙耶が呼び掛けてきた。苦しんでいる里奈からすれば、羨ましいほど元気だ。
「うん、大丈夫よ」
里奈からすれば返事をしたつもりだったが、口から出たのは咳だけだった。最近は声を出そうとすると、咳に邪魔される時が多い。喉も胸も痛む。
「里奈さん。今日は見てもらいたものがあるんですよ。つらいかもしれないけど、見れますかね」
こんな状態でも、沙耶はあくまで優しく声を掛けてくれる。二週間近く前までは自分もしていた仕事だが、苦しい時に優しさをもらえるほどありがたいことはない。何かあれば飛んできて身の回りのことをしてくれるのだ。一人では何も出来ない状況下で、これほど心強い存在はない。里奈は改めて、自分のしていた仕事の素晴らしさを実感した。
「何」
そう思えたことで力が出たのか、掠れているものの、声は出た。虚ろな視線を沙耶に向けた。
「これなんですけどね」
彼女は、そこを気に留めることなく話を進めていく。何かを取り出したようだが、里奈にはよくわからなかった。
「実は、旦那さんがいらっしゃったんですよ。ついさっきのことなんですけどね。託されたことがあるので、そのことをお伝えしに来ました」
その話を聞くと、一瞬、里奈の体から苦しみが消えた。雨宮の顔を思い出し、強い力が生まれてきたのだ。
「旦那さんは、これを見せて下さいと仰っていたんです。内容についてはわかりませんけどね。とにかく見てほしいと言うことでした。どうですか。見ることは出来そうですかね」
沙耶は、フェイスシールドの向こうで聞いてきた。
「そうなの。なら、見るわ。わざわざ届けてくれたのなら」
苦しみがぶり返したものの、里奈は頷いた。続いて、首だけを右側に向ける。それが、今の彼女にとって精一杯の動きだった。これ以上は倦怠感に負けて動けそうにない。
「わかりました。なら、再生しますね」
沙耶は彼女に見えるようにタブレットを置いた。さっき取り出したものとはタブレットだったようだ。
里奈がそう思っていると、モニタには一本の動画が再生された。
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