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志村正彦とはなにか?

12月に入ると、もう今年も終わる旨を、驚きとともにツイッターに書き込む現象がつづく。そしてその無意味なツイート群が終わり書けたころ、12月24日が近づいていることに気づく。そしてその日付をみると、「ああ、そっか」と思うひとがこの国には一定数いる。

たぶんその多くが20代後半から30代後半ぐらい。僕らには12月24日は世間とはべつの意味を持っていて、だけれどそのことは普通世間に開示しない。そうした特別な日もこの世界には存在するのだ。

とはいっても、僕も今日になるまで、そのことをすっかり忘れていた。思えば彼が逝ってしまってからすでに八年がたっているわけで、そうなるとこちらも記憶が薄れてゆくのを食い止めることはできない。もちろん僕のような人間だけではないことも承知しているが、最近は彼の残した音楽を聞かなくなってしまっている…。

ザ・チェインスモーカーズを聴いて、サカナクションを聴いて、星野源を聴いて…。

世界は順調に音楽を更新しているようだし、僕はいまの音楽がかなり好きである。しかし過去へと少し遡上して僕の出会った音楽史を一覧してみると、そこに個人的・辺境的にひとりの無視できない人物にぶちあたることになる。

それがフジファブリックの志村正彦だ。

彼はロックの神々同様、30代を待たずして亡くなってしまった。そして亡くなってしまったがゆえに、彼をウェットに神格化して持ち上げる現象なんてのもあるが、僕はそういうのは好きではない。だいたい僕が彼を知ったのは2012年のことだから、彼の死後三年ほどあとなのだ。

おそらく僕の推論が正しければ、40人のクラスメイトがいたら、そのうちの一人だけが志村正彦に深く感情移入する。

僕は偶然その一人であって、あなたがその一人なのかはわからない――もしかしたら違うかもしれない。けれどあなたがもし偶然その一人だったとしたら、あなたの心の決して消えない部分に彼の音楽はきざまれることになる。そしてそれはつまり、彼の音楽があなたを癒やし、あなたを救う契機になるということだ。

なんだか長い前置きになったが、僕なりに考察した彼についてここでは話したい。




こういう発言はなんだが、志村さんの音楽は「奇妙」である。その奇妙さは、その端正なルックスとはなんだかそぐわない気がするが、しかし音楽を聴けば聴くほど、逆にぴったりとしてくる。

「しゃべらなければ格好いいのに」そんな残念なイケメンがみなさんのまわりにもいると思うが、志村さんはその最たる存在だろう――いやこういう言い方は誤解を招くな。彼はしゃべらなければ格好いいのに、奇妙な歌を振り切って歌っているので、もうくるっと一周してしまって逆にかっこいい存在、と言うべきかもしれない。

ゆえにわれわれは彼亡きあとも、信者のように影響を受けつづけている。《音楽界のホドロフスキー》それがまさしく志村正彦なのだ。

志村さんのことについて、時間がないひとは僕の文章で3分で理解できるように、少し来歴を書きたいと思う(いや3分は無理だけど)。

ちなみにほかの信者のひとに怒られるかもしれないが、僕の記憶の中にある情報を適当に組みあわせた志村さんの来歴なので、詳しくは彼の著書『東京、音楽、ロックンロール』などを読んでほしい。


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さて、志村さんの来歴について少し話そう。




少年時代、志村さんは野球をしたりして、ただのたのたと暮らしていた。近所の子にバットを借りたりなんだりとかしているうちに、彼の小学生時代は過ぎゆく。

そして彼は中学生だか高校生だかで、奥田民生と出会う。ある日志村さん宅に、奥田民生が煙草をくちにくわえたまま、アコギを持って入ってきて、「んじゃ、弾くね」と言ってじゃんがじゃんが弾いたわけだ。

そして志村さんは「おれがやりたいのはこういうことなんだよ」と思うことになる。志村さんはリビングで煙草を吸う奥田民生に、オレンジ・ジュースを出しながら、「あんたマジやばいじゃん」と言った。

「風は西から東に流れている」奥田民生はそんな風に言って、志村さん宅から去っていったそうだ。



まあこの話はまったく事実ではないが(事実はもうすでにほかの人間が書いているのだから僕が書く必要はない)、とにかく志村さんの歌い方には奥田民生の血が流れている。なんとなくアフター気味(?)というか、少し気怠そうなところが確かに似ている気がしないでもない――いや専門家じゃないのでわからないけれども。


とまあそんなわけで、志村さんは音楽を始め、そしてメンバーを集め、当然文化祭で歌うことになる。そしてここで志村さんの頭をマイクでごつんとやる、ある世界からの応答が起こる。

そう。女の子たちが大騒ぎだったのだ。

志村さんという謎めいた顔のいい男が、いきなりライブでキャーキャーしていい契機を作ったものだから、女の子たちはここぞとばかりに彼に抱きついた。

果ては彼はそのまま女の子たちの上をモッシュで体育館をあちらへ動き、こちらを動き。このとき彼は父親のお古のエレキをかきむしりながら、〈おれはこの道で生きてゆくんだ!〉と心の中で思ったはずである。体育館のぼろい天井を見ながら。


さて、もう気づいていると思うが、僕がいましているのは志村正彦都市伝説を倍加して後世に伝えてゆくという、キリストの弟子の仕事なわけだが、これはべつに悪いことではないだろう。なぜならもうすでに事実は何処かに書いてある訳だから、僕は事実以上の事実を世に広め、そのことによって世界中に志村さんの音楽を届けることが使命になってくるのだ……。


さてさて、ともかく志村さんは文化祭わーきゃー事件により、「よっしゃ」と小さくガッツポーズをしたはずである。そして彼はこのときピザ店でバイトしていたのだが、そこで彼の〈第一の伝説〉が発生する。この伝説はちなみに僕の作りだした話ではない。本当の話である。

彼は宅配するピザの中から、三角形の頂角およそ7度から8度のあいだと思われる、およそ面積で言うと10.90㎠くらいのピザを自分用に切りだし、それを宅配する途中でたべちゃうという行為をたまにしていたのだ。ううむ。じつにこれは彼らしいエピソードで、彼がチーズでその隙間を埋めている様子が、目に浮かぶようだ。

そんなわけでいまでも彼の故郷である富士吉田市では、夕方になると「茜色の夕日」が流れるし、子供たちはシムラ・ピザ・ストリートを通って自宅に帰っているらしい。やはり富士吉田市はいい街ですよね(*そんな通りはありません)。

志村さんはこの街で、当時付きあっていた彼女の家の窓から秘密理に侵入していたというのも、世間ではよく知られていることだが、僕はそのへんはスルーする。とにかく相手の女性は志村さんの創作の源泉であり、いつまでもつづく愛する対象であったと僕は考察するのだが、まあそのへんのことは知らない。


志村さんは富士吉田市から、東京に出てくることなる。この時点ですぐ「茜色の夕日」を創った彼は、「あ、やっちまった。デビューだ」と速効で思ったらしい。そして彼は二週間後には武道館に立ち、一ヶ月後には東京ドームで歌えると思った(かはしらないが)、「よっしゃ」とは言ったはずだ。

しかし残念ながら、彼はレストランホールでの立ちっぱなしのバイトに放り込まれることになる。それからライブハウスだかなんだかで、氣志團のメンバーとも仲良くなる。


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ともかく志村さんはこのうだつの上がらない生活の中で、彼自身が言うところの「最強だった時期」に入り、数々のヘンテコな曲を作成。

だけれど、多くの芸術作品がなかなか理解されない(聴衆の知性がいまひとつのため)という世界的芸術家と同じ理由で、志村さんの音楽はなかなかメジャーにたどり着かないことになる。いやあ、世界とは奇妙なものだ。

この時期、志村さんは焦燥に駆られていたはずである。そしてある日、氣志團のメンバーの団長が言う。「富士吉田に帰るなら、茜色の夕日ちょーだい」と。

たぶん氣志團のひとはすでに金髪リーゼントに学ランで、エロ雑誌を読みながらバックヤードでそんなことを言ったはずだ。

志村さんは「やだね」と言った。そんなわけで志村さんが結局故郷に帰らなかったのは、茜色の夕日ちょうだい事件も一役かっている。世界はこんな風に相互作用でまわっているので、氣志團はフジファブリックにとって重要な存在なのだろう。


さて、フジファブリックというバンド名について話していなかったが、この命名にもじつに志村さんらしい話がある。

それはある日のこと(まだ上京する以前)、志村さんがバンド名なににしよっかなあ、と言ってだらだら帰り道を歩いていると、ある工場を見つける。

(株)フジファブリック

志村さんはそれをみて、「じゃこれでいっか」と言ったかはしらないが、とにかくバンド名はフジファブリックに決まる。

きゃりーぱみゅぱみゅか、フジファブリックか。これは近年の名前つけ適当選手権でも互角になりそうな、グランプリ王座を争う戦いである。いまのところきゃりーぱみゅぱみゅが王者のようだが、志村さんの音楽は世界中でこれから流行る可能性もあるから、まだ勝敗はわからない(いや勝敗なんてそもそもあるのか?)。


現在、フジファブリックは志村さん抜きで三人で活動している。実際僕が彼らを知ったのも、この三人の「LIFE」を聴いたからであって、彼らの活動なくして、僕と志村さんの邂逅もない。



そして三人は志村色から抜きでて、いまは新生フジファブリックとして新たにファンを惹きつけているようだ。しかし今回の記事では、彼らの話は割愛させてもらう。信者というのは、まあそういうものなのだ。


さて、志村正彦を賛美する声を聴くと、大抵のひとは「歌詞」に注目する。そして僕のような読書家は、そのことに完全に同意するほかない。そしてここで僕は〈第二の志村伝説〉を記憶から思い出すが、彼は中学時代に、図書館の本を片っ端から読む事件、というのをしていたはずだ。

そのころ志村少年は学校内をとぼとぼ歩いて、図書室にゆき、棚の端から読み始め、するするとすべての文を読んでいったのだ。それはもう図書カードなどその存在すら鬱陶しい、圧倒的な量の読書である。そしてそんなことをしているうちに、志村さんだけは真夜中も図書室に入っていいことになり、朝先生が来るといつも徹夜で読書している志村さんが同じ席にいたそうである。

そしてついには志村さんは冷蔵庫と布団を学校に持ち込み、テントも張って、そこでムシャムシャとすべての本を読み、最後は活字モンスターになって、彼は中学校を卒業していったらしい。

卒業式の日、彼は読書大臣として壇上に呼びだされ、表彰状までもらったというのは富士吉田市のひとなら誰でも知っていることである(*そのような事実はありません)。

僕がなにを言いたいのかというと、読書量なくして、オリジナルな文章表現もまた存在しようがないということだ。志村正彦の詩は作詞レベルに置いて、JPOP離れしすぎている。いや志村さんの音楽はROCKであって、POPではないが。とにかく彼の詩は谷川俊太郎さんにせまるレベルである(いやこれはあくまで私見ですけれども)。


志村さんという伝説をまのあたりにしているみなさん。うるさいようですが、僕が書いているのは僕のなかの志村正彦であって、世間が思う、事実としての正彦ではない。あくまで僕のなかでかたち作られた正彦だから、それはみんなのなかの正彦とは違うわけであって、だから苦情などは受け付けていない。そこのところお願いします。


フジファブリックのメンバーには、いろいろ入れ替わり立ち替わりあって、僕にはすべての名前は覚えられない。そして僕はWikiで調べるのも面倒なので、この際ダイちゃん(Key)の話にすべてを集約したいと思う。もちろんカトーさん(Ba)、総くん(Vo&Gt)の話もすべきなのだろうが、まあそれはほかの媒体に譲ろう。志村さんの日記ではダイちゃんとのあいだの伝説が有名である。


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(左端:ダイちゃん 右端:カトーさん  右から2番目:総くん)


ある日、ダイちゃんが青山学院に惰性的に通っていたとき、道にぬらりと志村さんが現れる。そして志村さんはダイちゃんにスフィンクスのように、ある問いかけをする。「朝は4本足、昼は2本足、夜は……」。ダイちゃんはスフィンクスの問いに応えられず、青学の正門まえで膝をつき「わかりません」と言ったそうだ。

そんなわけで、ダイちゃんは志村さんに大学をやめさせられた。すべてはホドロフスキーの仲間集め。フジファブリックというひとつのヘンテコな曲を作る人類的プロジェクトに、青学の学生がとっ捕まってしまったのだ。


そうこうしているうちに、志村さんの仲間集めは終わり、いつの間にかレコード会社のひともいっしょにいた(いつのまに?)。志村さんはデビューまえに曲を録音しながら、仲間を集め、人類の四十分の一にひどく響く曲を作ることになった。

それが「桜の季節」だ。



桜の季節を皮切りに、彼は(いや彼らは)さまざまな曲をつくる。あとのことは、すでにほかのひとがどこかで書いているだろう。僕はそれらの情報を集めて、自分の文章を全部乗せのラーメンみたいに、ボリューミーにするつもりはない。


いまは2017年の12月17日で、世間にはクリスマスの音楽が流れている。多くの音楽が世界を演出していて、確かにその音楽はこの季節の祝祭的雰囲気に、彩りを加えている。

しかし世界には、電車を待つプラットフォームで「桜の季節」を聴く人間もいて、僕もそんな中の一人である。とはいえ去年は僕もすっかり忘れていたから、今後新しい音楽体験が増えるにつれて、いつしか僕は志村さんの音楽を聴かなくなってしまうのかもしれない。しかしそれでも、僕の中には彼の音楽が一度は充満したのであって、ということはそれは永遠に消えない体験として、脳のどこかにはちゃんと格納されているはずである。

こうして世界は死で循環しているわけであって、志村さん同様僕らもいつかは死ぬ。僕は生きているうちに志村さんの音楽と出会えたことは嬉しい出会いであり、愛しい体験であった。

この文章を最後まで読んでくれたあなたが、志村さんを好きになる四十分の一なのかはわからない。ただ試してみる価値はあるだろう。あるいはあなたはもっとわかりやすい音楽がいまは好きで、10年すると彼の音楽のよさに気づくのかもしれない。僕自身彼の音楽のよさに、リアルタイムでは気づけなかったから…(惜しいことをした)。

音楽も文学もひとを癒やすものだから、いつの時代でも需要はある。携帯アプリが必要なときもあれば、電子書籍が必要なときもある。そして志村さんの音楽が必要なときも。

幸運な出会いに僕が関与できれば、それはとても嬉しいことだ。しかしこの文章でひとたび志村さんをあなたが知ったなら、あとはあなたと志村さんとの関係が始まる。きっとあなたの人生の一定の期間で、彼の音楽はあなたに寄り添うボートの役目をするだろう。

彼が短命だったか、長寿だったか、そんなことは問題ではない。だってふたりは結局のところ出会ったのだから。

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