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ほんとうにやりたいこと、とは何か?

ほんとうにやりたいこと、とはなんなのだろうか? もう社会人になって10年以上が経つ。世間ではいまだに「ほんとうにやりたいことがわからない」という若者たちが溢れている。

彼らはまるで呪文のように、ほんとうにやりたいことがわからない、と口にする。僕としては、この言葉を口にする時間がすこしでも減ってほしい。だから今回は13歳から25歳の、ほんとうにやりたいことがわからない方に、僕が答え(らしきもの)を教えよう。

みなさんは、僕が渡した答えを受け取るだけでいい。だれか友達が陰鬱な顔で「ほんとうにやりたいことがわからないんだ…」といったときには、これを教えてあげよう。

僕はいま春の風がそよそよ窓から入ってくる世界で、この問題に答えをだしたいと思う。


「ほんとうにやりたいこと」は存在するのか?

そもそも論だが、ほんとうにやりたいこと、はこの世界に存在するのだろうか? 端的な回答を求めている子は、この出だしですぐに意気消沈してしまうだろう。ただ最初に結論を言ってしまうと、ほんとうにやりたいこと、などこの世界には存在しない。

社長になったひとや、研究者になったひと、色んなひとをまじかでみてきた。彼らは大学生に質問をされると、その大学生のまえに虚像の自己を立てる。彼らがやっていることは、ほんとうにやりたいことなんだ、という役を演じるのだ。

実際飲みの場になると、彼らはべつにその事業が「ほんとうにやりたいことだ」なんて風には思っていない——いや誤解があるので厳密に言うと、彼らは周囲の要望に応えて、その事業・研究をしているにすぎないのだ。

実際に彼らには人並外れた才覚や知力がある。ただ彼らはべつに「ほんとうにやりたいこと」だけをしているわけではない。むしろ彼らは周囲の要望に応えているうちに〈もしかしたらこれが、僕・私のほんとうにやりたいことなのかもしれないなあ〉と誤解しているだけなのだ。

なぜそんな誤解が必要になるかというと、それは人間が自分を肯定して生きる生物だからだ。ひとは自分と似ている顔のひとが好きだ。毎日鏡で自分を見ているので、パートナーでも似た感じの顔のひとを好きになりやすい。

彼らは自分を肯定するために、社会から感謝される役割を演じているにすぎないのである。

さて。大学生が「ほんとうにやりたいことがわからないんです」ということの問題は、どこにあるのだろう。

まず第一に、10代の子でもそれ以下の子でも、得意なことで社会に貢献できる子はいる。天才ピアニストや、天才卓球プレイヤー、まあたまにこういう子がふっとでてくる。彼らはピアノや卓球が「ほんとうにやりたいことだ」と思っているだろうか。

いや。彼らはただ周囲が喜んでくれることをしているだけなのだ。

だから彼らでさえも、後付けで「これが僕・私のほんとうにやりたいことなんだ」と思い込む。そして彼らはインタビューをみなとみらい大ホールのステージの上で受けると「うーん、そうですね。僕はほんとに楽器を弾くのが好きです。ほんとうにやりたいことって、これしかありませんから」というようなことを言うのだ。


誤解である。

当然だけれども、ひとは成長する過程でどんどん「ほんとうにやりたいこと」を発見していく。でなければ死ぬしかないからだ。極端な言い方だけれども、自分で自分が肯定できないとひとは死に向かっていく(物理的にというよりも内的に)。

だから多くのひとが、自分が社会に「役立つ領域」を必死に探す。

それでもだいたいの人間は、自分を社会に貢献させる術が見つからない。たぶん大学に進んでしまったひとの60%くらいは「完璧に自分が世界に役立っている」と実感できることはないだろう。

しかしそれでは困る。なぜなら自分で自分を肯定したいからだ。よって懊悩が始まる。ほんとうにやりたいことがないおれってダメなんだ——という懊悩である。


まず前提がおかしい。

世の中のほとんどすべてのひとは——そこには僕も含まれる——ほんとにやりたいこと、なんてものは手に入らない。手に入っているひとも、手に入っていると誤解しているだけだ。結局だれも「ほんとうにやりたいこと」なんて持ってはいないのである。

例を挙げよう。元プロ野球選手で、高校時代にスターだったひとがいるとしよう。彼は国民的な期待を受けて、時代の寵児的な扱いを受けた。彼は自分を愛した。しかしプロに入って、まったく伸びなかったとする。彼は記者から憐れまれる存在になる。それでも彼は「ほんとうにやりたいことは、野球しかありませんから」というようなことを言う。

いいえ。
ほんとうにやりたいことなど、この世界には存在していません。だから野球はほんとうにやりたいことにはなりえない。野球でみんなを喜ばせることができたという記憶に、体と心を引っ張られてしまっているだけなのだ…。

こんな風に華やかな職業のひとは、過去の自分にしがみついてしまう。たぶんインタビューでも子どもたちのまえでも、何回も言わされているのだ。「ほんとうにやりたいのは野球です」と。

呪縛である。自分で自分を縛る呪いがそこにはかかってしまう。


「ほんとうにやりたいこと」を考えるのは疲れる。なぜなら、ほんとうにやりたいこと、などこの世界には存在しないからだ。あるのは「自分がすこし得意なこと」くらいだろう。

だから大学生は、友だちに話すときにこう言ってほしい。「ひとよりちょっと得意なことがわからないんだ」と。

うむ。これだと、とてもいい感じだ。
ほんとうにやりたいこと、というありもしない朧げな霞を追いかけるより1000倍いい。

つまりほんとうにやりたいこと、というのは、このようなグラフにすることができるかもしれない。


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ひとよりちょっと得意なことをしていると、ある日この縦軸のAを超えたところに至る(技術的に)。するとひとは身体と精神の状態が許す限りは、この能力で社会に広く貢献をしようと考える。それがスポーツのひともいれば、演技のひともいれば、コンサルのひともいれば、金属加工職のひともいれば、パン屋のひともいる。彼らは「ほんとうにやりたいことなんだ」という幸福な誤解のなかを泳いでいる。

彼らは充実のなかで春のクマみたいに寝がえりを打つ。
幸せなのだ。


いまコロナによって、大量のひとが職を失うだろう(てか僕もヤバい)。世界がもとに戻ると思っているひともいるだろう。しかしスタートアップ界隈のひとは、かなり鋭敏に気づいている。世界はもう元の状態には戻らない。今後はルールがすこし変わった世界のなかで、どうにか生きるしかないのだ。

こうした劇的な転換点では、ほんとうにやりたいこと、を考える個体はまずいことになる。その自分にかけていた呪縛で、自分をひどく狭い袋小路に誘うことになる。

だからやらなければならないのは、ほんとうにやりたいことなどない、という認識をまず持つことだろう。事業でもなんでも、アフターコロナの世界にどんどん最適化する必要がある。もう過去は戻ってこない。過去はシンクにこぼしたミルクのようなものだ。それはもう流れてしまい、2度とコップには戻らないのだ。

そして状況に最適化して、数年経ったときに思うのだ。「ああ、おれはいまほんとうにやりたいことをやっているな」と。

誤解である。笑

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